「わたし、けっこう料理が上手くなったと思うんだけど……」
「この惨状を見てもそう言えるワケ?」
一般的に料理とは、鍋から噴水のようにあふれ出し、部屋を汚したりするものではないとロアは思うのだが、ロミンにとってはそうでもないらしい。
彼女はその壊滅的な料理のセンスでロアの部屋をカレーの海に沈め(るだけならまだしもマンションごとカレー浸しにして管理組合にひどく怒られた)たのだが、そんなことではめげないらしく、初めて作ったカレーが案外好評だったのが相当な自信になったようで、それから今にいたるまで、彼女はときおり彼の部屋に、ただ、カレーを作りにくる。
ロミンがカレーと呼ぶ極彩色は、刺激を与えなければ鍋の中にとどまっているところまで来たが(?)ほとんど爆発物だと思って取り扱わないと危険なそれを料理と呼ぶのが適当なのか、ロアは途中から考えるのをやめ、そのくせ、口に入れてしまえばわりといける味で、だから彼は、もう少しバンド活動を広げて、まだ一応は賃貸だったこの部屋くらいはせめて買い取らなければと、ふたたび鍋から噴き上がりはじめたカレーを見て、思ったりする。
「だって……」ロミンは、眉を下げて上目がちにロアを見た。その仕草は少し前までのロミンがロアの機嫌を伺うときに見せていたもので、けれど、我慢をやめたロミンは、ロアの機嫌などに左右されることは、もうないのだ。
「だって、カレーは、好きな人たちと食べるものじゃない?」
初めて作ったとき、これはそういう食べ物だし、だから仲直りには最適だと思ったのだ。どうも遊我の元気がないのが心配だし、それで自分を負かした相手のところに行くというのだから、これはもう、カレーを作って持っていくしかないのだと、彼女は断言する。
「わかったよ。でもさ、片付けは、きちんとしていってよね」
そういう彼女を見ていたから、ロアはロミンのそれを迷惑だとは言わないのだ。
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ちょっと意外だった、とロミンがひとりごとのように言ったのは、その日の帰路のことだった。
「ふたりともすごく喜んでたから……なんかわたし、タイミング逃しちゃって」
流星群を見た帰りはかなり遅くなってしまったから、ロアはロミンに自分のマンションに泊まるようにだけ言って、そうしてすぐ先を歩き出してしまい、ロミンはその背中ばかりを見ながら、付かず離れずの距離をついていく。
星を見た郊外の丘から街へと下りるふたりの帰路を、星とは違う質の光がガイドしている。街灯は明るく、ロミンの一歩先を歩くロアの姿を照らし出した。
「……すこし前だったら、月太ってあんなふうに素直に喜んだりしなかったじゃない。ウシロウもそうだけど」
ロミンは、他のふたりほどは素直に彼へと近付けなかったことを思う。夜の、生温く溶けて肌に馴染んでいくような空気が、付かず離れずの距離を歩くふたりのあいだにまとわりついている。
「そうだっけ」
「……そうよ」
ロアはなんでもないふうに返事をして、それがまたロアらしい、とロミンは笑う。
「でもロアが勝って……嬉しかった、ありがと」
言葉は深夜の空気の中にひとりごとよりも、もっと近く、響いたような気がした。前を歩いていたロアが振り返る。そういえば、いつからロアは自分よりも背が高くなったのだろう?
「まあ、お前たちには一番いいとこ見せないと」
いまは真夜中にふたりきりだから、さっきは出来なかったことをしてもいいかもしれない、ロミンが思ったのを、見透かす勝気な瞳と目が合った。
「お前も素直になっちゃえばいいじゃん」
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生活にはいつも音楽が流れている。
円形の大きなバスタブには、ロアがお姫様たちから貰う、熱烈な愛の言葉が綴られたファンレターとセットで放り込まれるプレゼントの数々で作られた山の中から引っ張り出した入浴剤が溶かされていた。それはロアがお気に入り、というコメントを自撮りに付けてSNSへ投稿したものと違わず同じものなのだから、お姫様たちのマメさにロミンはいつも感心させられる。
一足先にバスタブに入っているロアは、防水のタブレットをいじっていた。組んだ足の、形の整った爪先がバスタブの縁に乗せられている。入浴剤が発泡している水面は波打ち際のようだ。
気に入った曲を見つけたのか、タブレットを置くとロアはリズムを取りながら体を揺らして、そのたびに、縁から湯があふれ、それは小さな波となってロミンの足を濡らした。浴室の窓からは、タワーマンション特有のひらけた視界が、眼下にふたりの生活する都市をよくできたミニチュアのように並べて見せていた。ドラムのブレイクから入ったクリーンなギターのアルペジオが浴室に響いている。
「……これいい感じね」
「でしょ?」
ロミンが声を掛けると背を向けていたロアが頭だけで振り向く。ロアはジャンルを問わず音楽ならなんでも聞くのだ。今日のは当たりだ、とロミンは思った。やけに清涼感のあるシティ・ポップはふたりが生まれるだいぶ前の曲なのに、全然古くない。
数小節の導入だけで聴くひとを狙い通りの雰囲気にさせる印象的なイントロを、自分も考えてみようと、バスタブに体を沈めながらロミンは考える。
「やっぱりイントロって重要じゃない? 最近は歌が先行の曲、多いけど」
「そりゃ頭は大事だろ? まあ、再生ボタン押して2、3秒で掴めなきゃ、聴いてすら貰えないし」
「そうね」
「ウシロウの言ってたやつ、やっぱストリーミングには無いわ。今度借りるか」
ウシロウのバイナルのコレクションはちょっとすごいのだ。バンドの中ではいちばん音楽に詳しい。ロミンが好きな曲をいうと、それならこれも、とおすすめを控えめに教えてくれる。古い曲から最新のチャートまでいつもきちんとチェックして、これは、と思うものは必ずふたりに知らせてくれる。
「ゲッタちゃんも好きだって言うし、聴いときたい」
「そうなんだ」
ロアロミンの曲はロアがまず初めにデモを作り、それをゲッタが編曲することが多い。ロアの荒削りな原石をゲッタがお姫様向きに洗練の刃で磨いて、商品にするのだ。ゲッタは作曲も作詞もこなすけれど、それは常にロアとロミンの良さを引き出す方に振られている。そういう意味ではロアロミンのプロデューサーといえるかもしれない。
ロミンはリードギターとしてリフを考えたりはするものの、それは大抵の場合、ここに入れて欲しいと、ほかのメンバーに言われてすることが多かった。確かにゲッタやウシロウが指示する箇所は、自分で考えみても的確だったし、ロミンは彼らを信頼していたのでその通りに答えてみせる。
けれど、ロミンは自分でも曲を作ってみたりしているのだ、実は。
「お前、まーたつまんないこと考えてんだろ?」
「な、なによ。つまんないことって」
「わさわざ言って欲しいワケ? わたしってあんまりバンドに貢献してないなーとか」
どこかしらは似ている端正な顔が近付く。ロアが見透かす瞳になって、ロミンを見据え、口元には不敵な笑みを浮かべている。
「……それでもお前は、フロントマンとしての自覚がなきゃダメだよ。ロアロミンである限りはね」
オレ様とお前でロアロミンなんだから、とロアは自信たっぷりに断定する。リズム隊のふたりに自分たちの音楽を預けているのは、ロアの信頼の証だとロミンも理解している。だからこそロアはふたりでロアロミンだと言うのだ。絶対的なカリスマ性の、その演出にロアは手を抜かない。そのためになら使えるカードは全て使うのだ。それはプロとして正しく、まさにロアは、舞台に立つスタアなのだった。
「わかってるけど……」
そう言って、伸ばした足がぬるつく湯の中でロアの体に当たった。ロアは足で払い返す、それをまたロミンがやり返して……そうして、水飛沫が上がる頃、ふたりは笑い合う。
「なによ」
「なんだよ」
こんなじゃれあいはいつまでできるのだろう。ふたりで同じバスタブに入ると、ロミンはまるで、体の輪郭が溶け出してしまいそうな感覚に襲われる。温くぬるつき泡立つ香りのいい水がふたりの境界を曖昧にする。そういう感覚をまだロアと共有していられるのだろうか。お互いがお互いを独占できる季節はもう少しで終わりなのだと、ふたりは予感していて、でも今はまだなんとなくこのままでいたいのだ。
「ね、ロアはさ……好きな人、とか……いないの?」
「……いまはお前たちがいるし」
「なにそれ」
「お前はどうなの?」
「だってバンドがあるもん……」
「なにそれ」
見え透いた会話にも、きっとそろそろ飽きてくる頃なのだ。どちらが先かはわからない。そのときのことは、そのときの自分たちが考えるだろうと、ふたりは思っている。
シャッフルで再生していたスピーカーはふたりの知らない世界中のたくさんの音楽を、次から次へと一方通行で流していた。ロアはリピートボタンを押さない。
生活にはいつも音楽がある。いつかふたりの関係が変わってしまっても、それだけはきっと変わらないのだろう。