愛の生活「久しぶりだな、この部屋もさ」
久しぶり、というAiの言葉に、いったいどれほどの感慨が込められているのだろうか、と遊作は思い、けれど、いちいち感傷じみた気持ちを浮かべてAiを見つめるのは、なんというか、それは違う、と自分に言い聞かせて、ただ、そうだな、と彼は返事をした。
心が壊れるかのような別離からしばらくして、Aiはひっそりと、遊作のもとへ帰ってきた。帰ってきたというのが正しいのか、遊作はこれから考え続けなければならない、と思っている。あのとき、Aiは遊作の目の前で、遊作の選択で、消滅したからだった。繋がりの途切れる瞬間を見た。あれは、確かに死だった。
Aiは、体重を掛けると金属のフレームが軋んで耳障りな音をたてる質素なベッドに座って、壁の方へ視線を向けていた。ところどころ塗装が剥げた壁は内部のブロックが露出している。Aiの過ごしてきたシミュレーションという那由多の時間に比べたなら、まだ新しいと言えるかもしれないこの部屋の壁にも、遊作やAiやロボッピや、その前の住人たちの時間が、埃やシミとなり、キズや塗装の剥がれとなって、確かに堆積しているのだ、と遊作は考え、やはり、自分は幾らか感傷的になっているのだと自覚した。
「この壁も相変わらずオンボロすぎて、涙が出そうだぜ」
Aiは遊作を見て言ったが、たぶん、そういう遊作の心情を感じ取りながらも、あえて表情には出すことをしなかった。
翌日、Aiが勝手にネット注文したらしいペンキ缶と塗装用品が届いたため、遊作はちょっと面食らってしまった。
「なんだこれは」
「いや、だってボロボロだし……壁、塗っちゃわない? 別に平気だろ」
遊作はここに越してきた時の契約事項を思い出そうとした。この部屋が相場より割安なのは、遊作の個人的な事情を加味している役所から優先的に斡旋された物件──そもそもそういう物件は、Aiに言わせれば、当然オンボロで、そうでなければ借り手がつかないのでそうなっているし、つまりは貧乏クジ引かされてるよ、と余計なことまで言った──だからであった。築年数がかなり経過しているアパートの部屋は、壁の塗り替えなどは自由だったはずだ。
「……どうして黄色なんだ」
「えっ?」
「色。どうして、黄色にしたんだ」
遊作は、持ち上げてみると見た目よりずっと重い気がするペンキ缶を運びながら、Aiに訊いた。口にしてから、わりとどうでもいいようなことを聞いてしまったと彼は思った。Aiが自分から何かをしようとしたこと、それも、自分との生活に関わることだったので、ちょっと気が緩んだというか、もしかして、自分はそれを嬉しく感じてしまったのかもしれない、と思った。遊作はそんな自分に戸惑って、明後日の方向を向いた質問をしてしまった。
ん〜、オレ、黄色って好きだから? と特にそこに意味はないようにAiがさらりと流して、遊作には重たかったペンキ缶を軽々と運び、他の届いた荷物をさっさと広げはじめてしまったので、遊作はそのまま、Aiの思い付きに付き合うことになった。
部屋の壁を塗った経験などもちろんない遊作は、Aiがてきぱきと準備をして効率よく動くので、その手際の良さに感心してしまい、塗料を含ませたローラーをAiの指示する通り、慣れないながら上下に動かして、そのあいだ、ときおり、Aiを横目で見たりした。Aiはすべてを初めから最高効率で行うことができる。洗練された数式のように無駄がない。知ってはいたものの、実際目の当たりにすると、その鮮やかさに遊作は目を奪われてしまう。
ここって天井高いんだよな、とAiが言い、少し遅れてゆっくりと遊作の方を向き、いたずらっぽく微笑んだ。それがまるで、見とれていたことなどお見通しだとでも言わんばかりの仕草だったから、今度は遊作の方が、慌てて赤い顔をして壁を向くことになった。遊作の様子に機嫌を良くしたAiが、ローラーを持つ手を軽々と動かし、壁を黄色に塗り替え続ける。数式に導かれる解のように迷いも余分もない。
「なあなあ、いつかの便利機能だけど……びよ〜んって腕伸ばして上の方塗ったら、遊作、笑ってくれる?」
けれど、遊び心だってAiはきちんと持っているのだ。遊作はそれをよく知っている。
「それは……。いや、笑ってしまうかもな」
「びょ〜〜〜ん! ってさ、伸ばすの」
「っ、ふ、ふふっ……やめておいた方がいい」
「はは。そっか。それなら、やめておくか」
生活、と遊作は柄にもなく、笑いながら思った。Aiとのこの時間を生活と呼ばないのなら、生活がないというAIと同じに、自分には一生それがわからなくたっていい、と思った。そうして、他愛のないことでこんなに笑ってしまって、目尻に涙が溜まるのを、ただ、愛おしく感じるのだ。