武市先生は、広い畑を一人で世話をしている。
有名な作家の先生である武市先生は、都会ではなく田舎の方にお住まいを構えていた。
一時期は都会に住まわれて居たが、都会の喧騒が体に合わないと言って田舎へ移住をされたらしい。
「先生。こっちは全て収穫出来ましたよ!」
元々先生が書かれる繊細な小説が好きで、編集の仕事に就いてたのだ。
そんな憧れの先生の担当となり、こうして畑のお手伝いに誘われた時はとても嬉しかった。
「すまないね、夏野菜は一人で収穫するには骨が折れてしまって」
「いいえ!憧れの武市先生のお手伝い出来るなんて、光栄です!」
「憧れる程でもないさ。今日の収穫が終わったら、君に一つ頼みたい事があるんだ」
先生直々の頼みと言われ、何かと身構えてしまう。
「何でしょうか」
すると先生は、後でのお楽しみだと言ってはぐらかされてしまった。
早く内容が知りたかったし、何より暑くて蝉も多く鳴いている外から逃れたい気持ちもあった。
だから、先生より少しでも多く野菜の収穫をしようと手を動かした。。
漸く収穫が終わり始めた頃には、日が真上へと登っていた。
収穫した野菜を持って、先生の家の縁側へと置いて一息つくと先生も同じ様に野菜を縁側に置く。
長靴を脱いだ先生は、縁側から家へと上がっていた。
「君も上がりなさい」
「は、はい!」
そのまま佇んでいる僕に、先生は声を掛けてくれたのだ。
それだけでも、僕は嬉しくて舞い上がってしまう。
手洗い場に案内されて、お互い手を洗ってから先生に連れられて居間へと向かった。
思っていたより殺風景な居間にある棚に、一つだけ写真立てが置かれていた。
そこに写っていたのは、赤髪の大男と微笑む先生の写真。
先生もこんな表情をするのかと思っていると、先生は写真立てをそっと倒す。
写真をまじまじ見ていた事を謝罪すると、先生は首を横に振って困ったように笑った。
「大切な人との唯一の写真だったからね。あまり人には見せたくはなかったんだ」
「そうとは知らずに申し訳ございません!今のは忘れます!」
勢い良く頭を下げて、更に謝罪をするしかなかった。
不躾な事をしてしまったと血の気が引いていくが、先生は僕の肩に手を置いた。
「大丈夫さ。実は君に、送られてきてしまったお酒の処理を頼みたいんだ。君は酒豪だったよね?」
許してくれた先生にホッとして顔を上げると、先生の手には似つかわしくない酒瓶があった。
何の酒か気になってラベルを見ようとすると先生の手が動き、どんな酒かは見えなかった。
しかし先生が下戸であるのは有名話なのに、酒を送る人間が居るのかと眉を潜める。
「僕は酒に強いですが、下戸だと公言している先生にお酒を送る人が居るんですか?」
「仕方ないさ。私が、高知出身だから酒豪と勘違いする人が居るみたいでね」
「高知は酒飲みが多いですが」
それでも、納得がいかずに言葉を続け様と口を開く。
すると先生は、僕に手に持った酒瓶を近付けて。
「お酒を飲んだら続きを聞こうか」
ふっと笑う先生に頷き、用意されたコップへと酒を注いで貰ってしまった。
普通なら僕がやるべきだったのにと視線を揺らしながらも、酒を受け取って一口流し込む。
酒豪と豪語する僕が一瞬で蕩けていく感覚に陥り、先生にこの酒はと聞こうと口を開いたと思う。
でも僕は口を開いたと思ったが、現実は暗転していたのだった。
遠くで蝉が鳴いている。
川のせせらぎが聞こえて、片手は川に沈んでいるらしい。
冷たくて暑くて、ふわふわとする。
「起きてください、早く。早く起きてください」
誰かに、眠りそうな体を揺らされて目蓋をゆっくりと開けた。
目の前に飛び込んできたのは赤髪の大男で驚くが、この人を何処かで僕は見た事がある気がする。
何処で見たのか思い出そうとすると、男は深い溜め息をつきながらまたかと言ったのだ。
また、とはなんだろう。
「今から貴方に頼み事をします。断る事だけは許されません。いいですが、この森に居るつくつくぼうしを捕まえて下さい。そして、最後に今から一言も話さず、何も口にしない事。二匹を捕まえたら俺に手渡して、貴方はあの御堂で寝ていて下さい。いいですね」
大男に頼まれた上に凄まれてしまっては、僕は断り様がない。
分かったと言う様に頷くと、大男はホッとした表情を浮かべて森について教えてくれた。
入って六本目の木に、つくつくぼうしは居ると言う。
教えて貰った通り、森に入ってから木を数えて六本目の木につくつくぼうしは居た。
子供の頃は良く虫を捕まえていたから、セミを捕まえるのはそんなに苦ではなかった。
つくつくぼうしが逃げない様に手の中に仕舞い、大男の元へと戻る。
捕まえましたと口パクで伝えて、手の中のつくつくぼうしを大男に手渡す。
「有り難う御座います。それでは、この御堂で寝ていてください。次に目が覚める頃には、還れますから」
かえる?かえるとは、何処にだろうと思ったが、声を出してはいけない事を思い出して口を手で押さえる。
それに、何故だかとても眠いのだ。
大男の言う通り、御堂で寝てしまおう。
眠くて眠くて、もうどうでもいい。
寝入ってから、何れくらいの時間が経ったのかわからない。
誰かが僕を呼ぶ声がしたが、無視して眠り続ける。
僕は眠いのだから、放っておいて欲しいんだ。
すると、またあの大男の声が聞こえた。
「起きろ、生きたいなら起きるんだ」
生きたいならと脅されて、何の事だと思い切り目を開ける。
見えたのは、真っ白な天井と腕から延びるシリコンの紐。
それが点滴である事に気付き、ギョッとすると隣で両親が泣いていた。
何事かと思うと、両親から先生の家で倒れて緊急搬送されたと連絡があったらしい。
家で倒れる前の記憶が曖昧で、病室に入ってきた先生に謝罪しながら問い掛ける。
「武市先生、すみません。お手間を掛けさせてしまって、僕。もしかして、急性アルコール中毒とかで?」
「私も配慮が足りなくて申し訳ない事をしてしまった。ちゃんと水分を摂らせてから、お酒を飲ませれば良かったね」
思っていた通りの事に、さぁっと血の気が引いていく。
憧れの先生の家で粗相をしてしまった上に、数週間生死を彷徨っていた等担当として失格だろう。
あーっと叫んでいると、ふと赤髪の大男と夢の中で会った事を思い出した。
そして、あの大男が先生の家にあった写真の人物である事に気付く。
「先生。僕、先生の大切な方と夢でお会い……っ!?」
先生に彼に出会った事を伝え様として、喉奥で言葉が詰まった。
いや、先生のとても冷たい。
例えるならば、絶対零度の視線で喉が凍り付いている。
「……それは夢だから忘れなさい」
冷たく言い放された事よりも、先生がぽつりと呟いた言葉の方が怖くて先生の担当を降りてしまったのだ。
『また失敗したのか』