散り逝く9遊郭は裏から見るのと表から見るのでは、見え方が全く異なる事だけは分かった。
「瑞姉さん、今日来た軍人さん。お知り合いでありんす?」
女将と煙管を吹かしていると、一人の遊女が私へと声を掛けてきた。
「あぁ、陸軍の中佐殿だね。彼がどうかしたのかい?」
「姉さんはここに居るのかと聞いてきましてぇ。 わっちは知りんせん って答えんした 。次も来るみたいで、どうしんす?」
彼女が取った客は、あの軍の中では珍しく私の味方だった。
同郷であった訳ではないが、彼は大佐と少佐のやり方が気に入らなかったらしい。
特に大佐については、意見の食い違いから馬が合わないと言っていた。
「次に来たら、私にも声を掛けて貰ってもいいかな」
「分かりんした 、瑞姉さん」
そう言うと遊女はぺこりと頭を下げてから、しずしずと私の元から離れて行く。
中佐が遊郭に来るのは、珍しい事だった。
愛妻家と言うよりも恐妻家であり、あまり遊郭へとは足を運ばない。
そんな中佐が遊郭に来たのは、私を探しに来たのだろう。
あの日の軍会議では、出張で彼が立ち会う事なく私の処分が下されていた。
上手い事に、中佐が出張へと向かっていた時期だったからだ。
「いいのかい?軍人なんかと会って」
私の処遇を知っている女将さんは、煙管を咥えたまま私に声を掛ける。
他の軍の人間であれば、冷やかし目的で来るだろうが中佐の場合は別だった。
「えぇ、軍では世話になった人ですから。多分ですが、私が遊郭に落ちた事を確認しに来たのでしょう」
「冷やかしじゃないか」
「違いますよ。中佐殿は、私の引揚げを考えているのだろうと思います」
処遇を知れば、中佐は私の引揚げを提案する筈だ。
それは有難い事ではあるが、まだ時期としては早い。
炙り出さねば成らない敵が、まだ炙り出せきれていない。
それと、丹羽君が本当に田中君についたか分からない状態だ。
この状態で軍に私が戻るのは、また失脚を繰り返す事になる。
そうなれば、中佐の地位も危うくなるだろう。
「引揚げなぁ。あたしは、まだ瑞にやって欲しい事があるし、あたしが断るかもしれないよ」
紫煙を吐き出しながら、女将さんはケラケラ笑いながら答える。
それは私も願ったり叶ったりである事を伝えると、女将さんは更に笑っていた。
◆◆◆
見世へ行こうかと足を進めていると、お瑞姉さんと引き留められた。
良く見れば、中佐を相手した遊女だった事に気付き足を止めた。
「姉さん。中佐さんが来んしたけど、どうしんす?」
「向かうとするよ。有り難う。それと、私が手を二回叩いたら中佐殿を裏口から逃がしてくれないか?」
「えぇ、いいでありんすが 。女将さんに伝えときんす」
そう伝えると、遊女は不思議そうな顔をしながらも頷いて女将の元へと向かって行った。
私は禿の子から、言われた部屋へと向かい襖を開ける。
そこには、中佐殿が部屋の真ん中に座っていらした。
多少足は崩しているが、誰が来るか不安そうな様子ではあった。
「中佐殿。お久し振りです」
私が声を掛けると、何処かホッとした様な表情を浮かべたのも束の間。
私の姿を見て、どうしてと言葉に成らない声を上げてた。
理由は座ってお話ししますと言えば、戸惑いながらも中佐は頷く。
汗が止まらないのか、手拭いを出しては仕切りに額を拭いていた。
「どうしても大佐のせいだろうが、何故お前が遊廓に」
「それについては、女将さんに話していいか聞かないと」
話せないと言おうとした瞬間、閉じた筈の襖が開く音がした。
誰だと襖の方へと視線を向けると、そこにはお沙耶が手に何かの紙を持ちながら立っていた。
男に殺気立った視線を向けられていると言うのに、お沙耶は怯える処か平然としている。
遊郭は一筋縄では行かない場所であるし、それこそ心中に巻き込まれる事もあると聞く。
そう言った修羅場を乗り越えて来ているのかと思いながら、何か用かと声を掛けようとした時だった。
「お咲ちゃん!?」
中佐が私の姿を見た時よりも驚き、目を見開いてお沙耶を見つめてたのだ。
その目にはうっすらと涙が浮かび、何の事か分からずに首を傾げる。
すると私の疑問に答える様に、お沙耶が部屋に入り中佐の元へと近付く。
「貴方様が、迫水大将閣下の仰有っていた時任中佐殿ですか。お初にお目に掛かります、私はこの遊郭で太夫でしたお沙耶と申します」
しずしずと頭を下げる沙耶に、ハッとした表情を浮かべる中佐と目が合った。
大将閣下と知り合いであると聞いていたが、恐妻家の中佐に太夫を紹介するのは些か不思議である。
沙耶への挨拶を先にするか、私への説明を先にするか悩んでいる様であった。
「会話の途中ですが、お沙耶は顔に傷を負っております。話をするにもまだ痛みがありますので、沙耶への挨拶をお先に」
化粧で隠してはいるが、まだうっすらと見える傷に目を細める。
軍医に何度か見せたが、完全に傷を消す事は出来ないと言われていた。
「すまない、武市。……義兄上から君に会う様に伝えらて来たが、確かにお咲ちゃんにそっくりだ。生き写しと言ってもいい」
「迫水様も同じ事を仰有り、泣いておられました。ですが、この傷を見ても同じ事を言っていただけるか」
沙耶は目を伏せるが、中佐が沙耶を見つめてから首を横に振る。
「義兄上も姉上も傷については気にしない。寧ろ、二人が君の顔に傷を付けた人間を生かしてはおかないだろう」
そう言うと何かを想像したのか、ぶるりと身震いする中佐に沙耶がふっと笑う。
二人の会話から察するに、大将閣下の嫁が中佐の姉君なのだろう。
だから、二人の間柄は知り合いではなく親族となる。
公にしないのは、中佐は人にすり寄られるのが苦手だと言っていた。
沙耶が頬を押さえると、中佐は慌てて体の具合を聞く。
「すみません、瑞姉さん。お邪魔した上に、具合が悪くなり」
「大丈夫さ、お沙耶。部屋には戻れるかい?」
「大丈夫です。時任様、また迫水様がいらっしゃいましたら」
もう一度頭を下げてから、沙耶は頬を押さえながら部屋を出て行った。