ジュワジュワと蝉が背後で鳴いている。
コップに注いだ麦茶が、室温のせいで温度が上がったのか周りには水滴が付いている。
「以蔵」
カランと音を立てて溶けた氷が、コップに当たり風鈴のような音色を奏でた。
俺の視線の先に居る以蔵は、横になって動こうとはしない。
いや、正確には動けないが正しい。
畳に染みていく真っ赤な血が、以蔵の頭から溢れているのを俺は冷静に見ていた。
救急車を呼ぶには既に遅く、卓袱台の上に置いているお互いのスマホにすら手を伸ばせなかった。
「以蔵。死んだのか」
何を今更言っているのだろうだろうか。
喉が酷く渇いていて、氷が溶けて少し薄まった麦茶へと手を伸ばす。
その隣には、今使うべきスマホがあったが俺は無視してコップを手に取って、麦茶を喉に流し込む。
「そう怒るなき。わしの浮気は何時もの事や」
何度目かの浮気ではなく、金もないのに女の居る店に通い詰める事を咎めたのだ。
闇金に手を出していない事だけは知っていたが、そろそろ金を貸す相手に以蔵に金を貸さないように頼むつもりだった。
信頼している武市先生から、任された事を俺はただ遂行したかった。
それだけなのに、以蔵は手から離れた風船のようにフワフワと何処かに行ってしまうのだ。
「以蔵。いい加減に生活を見直せ。病で死ぬか、女に刺されて死ぬぞ」
「そん時はそん時じゃ。わしの生き方について、新兵衛に口出される筋合いはないやろ」
「俺は先生にお前を頼まれたから!」
「はぁ、武市に言われたからわしの面倒を見るんか?」
半ば呆れたように言う以蔵に、カチンと来たのは確かだった。
何かを言い争ったが、最終的に俺が折れた。
その筈だったのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
「以蔵。お前は酔った勢いだっと言って、俺に忘れろと言ったな」
色を失った以蔵の目に、俺が映し出され泣いている事に気付いた。
「それなのに、どうして俺を恋人として置いたんだ」
言われた通りに忘れようとしたのに、お前は恋人の様に振る舞った。
一度知った温もりを離すのは、耐え難い苦痛で仕方がなかった。
都合のいい相手として片付けようとする度に、お前はその温もりに引き戻す。
「……だから、こうして動かなくなったお前を見て俺は酷く安心している。以蔵、好いちょる」
ジュワジュワと鳴く蝉の声に掻き消された告白は、ドアを開けてしまった武市先生の手で終わりを告げた。