「新兵衛。煙草なん、覚えるモンじゃないき」
そう言っていた以蔵は、何時も煙草を吸っていた。
煙いから止めろと言ったが、一度も止めなかった。
「外で吸っとるから、壁は無事じゃ!」
そんな言い訳だけはつらつらと言えるくせに、自分が吸っている煙草の銘柄だけは教えてはくれなかった。
フィルムを破り、銀紙を破線に沿って開く。
一本だけ取り出し、口に咥えてから残されていた百円ライターで火を着ける。
紫煙を肺に入れ、ふぅと吐き出しては燃え始めた煙草の先を見つめた。
「これも違うか」
まだ長い煙草を灰皿に押し付けて、煙草の箱を閉じる。
カラカラと音を立てて、硝子戸を開けて煙草を机に置いた。
吸わない煙草の銘柄だけが増えていくが、以蔵が吸っていた煙草にだけ出会えなかった。
「次はどの銘柄を買うか」
ベランダの硝子戸を締め切る寸前に、微かに香った以蔵の煙草の残り香に後ろを振り向く。
当たり前だが、そこには以蔵の姿はなかった。