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    yushio_gnsn

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    夢の中で書記官の虚像と戯れるカヴェ氏と、それを見て脳破壊→激重嫉妬絶赦する書記官の話。

    途中視点が変わります。


    カヴェ:後日、痴情の縺れを知られた少女が草神様だと知って本当に気絶した。

    #アルカヴェ
    haikaveh

    白雪姫――王子が姫に口付けをすると、死んでいたはずの彼女は息を吹き返したではありませんか。

    「……なんとも荒唐無稽だな」
    「そこがいいんじゃないか!」

    机を叩いた衝撃で、コーヒーの水面が揺れる。アルハイゼンは夢、芸術、ロマンといったものを何一つ理解しない。そんな男なので、僕がマーケットで買ってきたテイワット童話集を見るなり「また俺の金で無駄なものを買ってきたのか」と不満を口にした。

    人生に無駄なものなど無い。いいや、無駄なものにこそ価値がある、というのが正しいかもしれない。人間が生命活動を維持するだけの装置なら、料理の味すら意味をなさなくなる。無駄を嫌う人間は多いけれど、意味ある行動だけで生きることこそ不可能なのだ。学術的理論からかけ離れた“童話”に価値を見出すのは何も間違っていない。コーヒーを一口啜り、頭を活性化させてから反論の態勢を整える。

    「僕だって死んだ人間をキスで蘇生できるなんて思っちゃいないさ。けれどね、愛する人のキスで生き返るなんて斬新な発想は中々出てくるものじゃない。これこそ創作の醍醐味だろう」
    「俺は彼女を一口で死に至らしめた毒林檎の主成分の方が興味深い」
    「ああそうかい、別に期待してなかったけど。稲妻の童話はもっとすごいぞ、悪鬼を倒す武者の話なんだが、なんと川から流れてきた巨大なスミレウリの中から生まれるんだ!」

    アルハイゼンは完全に興味を無くしたのか、童話集を閉じると別の書物に手を伸ばした。

    「まあ、君がその本を読みたくて仕方ないなら好きにすればいい。それより、報告書はもう提出したのか」
    「勿論。でも、どうして僕が選ばれるんだ……まったくの専門外だぞ」

    彼が言っているのは、先日行われたアーカーシャ端末の動作確認試験のことであった。

    「あの演算装置は間違いなく偽りの神の討伐に貢献した。有事の際に備えて正しい使用方法を明文化し、定期的に動作確認をすることは必要だろう。まあ、砂漠にいた君には知る由もないだろうが」
    「おい、一言余計だぞ。まさか、君が僕を被験者に推薦したんじゃないだろうな」
    「今回選ばれたのは、創神計画の首謀者と関わりの薄い者たちだそうだ。何も知らずに砂漠で過ごしていた君はまさに適任だな」
    「……しつこいぞ!」
    「仮に俺が推薦していたのなら、感謝されるはずだが? 重要な場面でスメールシティにいなかった君が間接的にクラクサナリデビ様の役に立てる機会を設けたんだからな」

    アルハイゼンはぱたんと本を閉じた。外出の合図である。言いたいことは山ほど溜まっているけれど、彼の外出を阻害しようものならまた「気に入らないなら出ていけ」が飛んでくるかもしれない。先輩の寛大な所を見せる為にも、ぐっと堪えて話題を切り替えた。

    「……出かけるなら、くれぐれも僕の鍵を持っていくんじゃないぞ」
    「君にこの後外出の予定は無いはずだが」
    「そういう問題じゃない」
    「今の時間は学生の人通りが多いだろう。俺の家にいること悟られたくなければ、大人しく図面と睨めっこしているといい」
    「っく、君ってやつは!」

    行ってきますの挨拶もなしに出ていくルームメイトを見送る。扉が閉じる前に何か言おうとして、幾つかの言葉が脳内に浮かんでは消える。

    ――僕だって唐突に出かけたくなるかもしれないだろ!
    ――で、暗くなる前には戻って来るんだろうな?
    ――今日の夕飯に食べたいものがあったら今のうちに言ってくれ。君の好物を作ってやらないことも無いぞ!

    そのどれもが唇から放たれる事はなく、かちゃん、と鍵の閉まる音が時間切れを告げた。

    「ああ、もう……」

    言葉の代わりに零れたのは深いため息。ままならない。またしても言えなかった。「いってらっしゃい」の一言すら。

    潔く白状しよう。カーヴェという男は、アルハイゼンへの初恋を拗らせていた。あまりに長く燻ぶらせていたせいで、自覚したのがいつだったかも忘れてしまうほどだ。学生の頃、面白い後輩だと目を付けたあの日から泥沼は始まっていたのかもしれない。

    今になってルームメイトという地位を与えられても、身の振り方を考えることはできなかった。墓場まで持っていく予定だった感情は、同じ家に住みながら意識せずに過ごすにはあまりに重すぎる。かといって、気持ちを察されてしまえばすべてがおしまい。気持ち悪いと拒絶され、家に居られなくなった挙句、会話すらできなくなる未来が見える。

    「(今更、相思相愛なんて望んじゃいないのに……)」

    皮肉なことに、想い人と物理的な距離は近づいていても、心の距離は遠くなっていた。学生の頃のアルハイゼンはもっと話を聞いてくれたし、慕っていてくれたと思う。気難しいところはあったけれど、僕の可愛い後輩だった。それが今ではどうだろう、気に入らないなら出ていけだの、何かにつけて金の話でマウントを取ってくる。

    「(砂漠の調査だってそうだ、僕を誘ってくれても良かったのに! 恋人じゃなくたってそこは一緒に行くべきだろ!?)」

    ごろんとソファに横になる。恋愛成就に関しては、とっくに諦めてはいた。でも、一緒に過ごしているのなら、たまには気遣ったり、敬ってくれても良いのではないか。言い争いではなくて、穏やかに挨拶を交わし、冗談を言い、新たな論文が出たら語り合って、休日には一緒に出かけるような関係になりたい。

    例えばそう、昨日遅くまで仕事をしていた自分に、パティサラプリンを買ってきてくれるとか。糖分補給だけならナツメヤシキャンディで足りるのだけれど、美しい見た目とパティサラの香りは心まで喜ばせてくれる。「甘いものを食べて休んだらどうだ」なんて言葉をかけて労ってくれたらいいのに。

    「(ああ、考えていたら本当にパティサラプリンが食べたくなってきた……)」

    今からグランドバザールに行って、売っている店を探そうか。でも、自分で買ってくるのはあまりにも虚しくて、身体を起こすのをやめた。想い人がそれとなく買ってきてくれるから嬉しいのだ。

    「夕飯の支度……は、もう少し後でいいか」

    窓の外はまだ明るい。アルハイゼンがプリンを買ってきてくれる妄想をやめ、童話の続きを読むことにした。稲妻編の途中まで読み進めていたはず。花から生まれた小人が旅をする話の途中だった。

    「流石稲妻人、今も文学活動が活発なだけある。昔話も刺激的だ……!」

    小人はわざと大きな鬼に飲み込まれ、腹の中からちくちくと攻撃をする。なんと夢のある戦法だろうか。更にページを捲ろうとしたとき、玄関の外で聞きなれた靴の音がした。

    「帰ったぞ」
    「うぇ……!? なっ……は、早かったじゃないか」

    家主は、予想よりずっと早く帰って来た。予定が早く終わったのか、それとも目当てのものがなくて早々に切り上げたか。何にせよ、もっと早く夕飯の準備をすべきだったようだ。

    「君がこんなに早いと思わなくて……まだ食事の準備はできてない」

    今作るから、と続けようとすると、彼は言葉を遮った。

    「いや、君は昨日遅くまで仕事をして疲れているだろう。今日は俺が夕飯の準備をしよう」
    「……は?」

    時が止まった。意識が飛びかけた。思考能力を取り戻してからもう一度聞き直した。現時点では、幻聴の可能性が非常に高いので。

    「聞こえなかったのか。俺が夕飯の準備をすると言ったんだ。そのまま童話集を読み進めていてくれ。それと、パティサラプリンを買ってきたから食後に食べると良い」

    もう一度、時が止まった。息ができない。幻聴ではなかった。でも、その次の言葉はもっとありえない文字列の連続なのだ。だって、あのアルハイゼンが、ナチュラルに他人を気遣う発言をした。しかも、しかも、今まさに食べたいと思っていたものを買ってきてくれるだなんて! 

    「何で分かったんだ……僕が、今、パティサラプリンを食べたいって」
    「昔から、疲れたときにあれを好んで食べていただろう」

    緩み切った口元は気合で元に戻したが、目頭が熱いのはどうにもならなかった。

    「なぁんだ、君ってやつは……! まだまだ可愛いところがあるじゃないか!」
    「いい加減起きてくれ。今日の食事当番は君だろう」
    「……え、ぁ?」

    視界が揺らぎ、光が瞼を貫通する。帰宅したアルハイゼンが部屋の電気をつけたことを理解するまで時間がかかった。すっかり暗くなった窓の外を見つめ、ようやく自分がソファで寝こけて夢を見ていたのだと察した。

    「……なあ、アルハイゼン」

    期待をするのは一番の悪手だ。星の数ほど失望してきたのだから。それでも希望を抱くのをやめられず、結局彼に問いかけてしまう。

    「君さ、僕の為にパティサラプリンを買ってきてくれていたりしないか?」
    「何故俺がそんなことをする必要がある」
    「だよなあ。うん、何でもない」

    彼が買ってきてくれた、パティサラプリンはどんな味がしたのだろう。夢の中で、一口だけでも食べたかったのに。しょうもない夢幻を振り払うように、僕はキッチンへ向かいエプロンを手に取った。

    ***

    青色の液体が注がれたティーカップを見るなり、アルハイゼンは言った。

    「ついに治験のアルバイトを始めたのか。借金返済に勤しむ姿勢は評価してもいい」
    「失礼な、これは怪しい薬なんかじゃない。バタフライピーと言ってなかなか手に入らない珍しいお茶なんだぞ!」

    彼は怪訝そうな顔つきで、サファイアブルーの水面を覗き込む。

    「……飲料物に食欲減退色を採用する奴の気が知れない」
    「はぁー!?」

    マイナス百億点の感想にただただ絶句する。

    「君ってやつは本当に何もわかっちゃいない! これは目で見て楽しむお茶なんだよ……ふん、せっかくだから、君にも淹れてあげようか」
    「遠慮する。俺はコーヒーが良い」
    「なんだよ、分けてやろうと思ったのに!」

    サファイアブルーを食欲減退色と切り捨てたうえ、容赦なくコーヒーを要求してくる図々しさ。これぞまさにアルハイゼン、といった反応だが慣れていても悲しいものは悲しい。というかむかつく。興味がないにしても、他人を傷つけない言葉を選ぶべきだ。

    「自分のコーヒーくらい自分で準備したらいい。僕は部屋に戻る。ああもう、こんなに美しい色を見て心躍らないなんてどんな感性を……」

    文句を垂れ流しながらも頭の中では分かっていた。あの男が、バタフライピーの魅力を理解してくれる訳がない。期待する方が悪い。最初から、彼の為に買ってきたものでもない。でも、同じお茶を飲んで感想を共有するくらいはしてくれても良いのではないか。ちらと横目で見たアルハイゼンは、言われたとおりに自分でコーヒーの準備を始めている。淡い期待はまたもや儚く消えた。

    「(学生の頃なら、お茶ぐらいは黙って付き合ってくれたのに……!)」

    あの筋肉だるまがこちらを見上げる側だった頃の話。学業の合間、珍しい異国の菓子を仕入れたとき、彼をお茶に誘っていた。たまにセノやティナリも混じっていたけれど。アルハイゼンが菓子に興味を示すことはあまり無かったが、もしゃもしゃと黙って食べる姿は可愛らしかった。ごくたまに「これは食べやすくていいですね」なんて感想を口にしたこともある。

    「(そうだ、あの頃はまだ僕に対して敬語を……先輩って呼んでくれていたよなあ)」

    一人になると、思い出に浸るのをやめられなくなってしまう。昔の彼は今と変わらぬ芯の強さを持っていたが、どこか抜けているところもあって。野外で本を捲っている彼の帽子に蝶々がとまっていたのを覚えている。今まで生きてきた中で見た最も微笑ましい光景だった。あの日写真機を持って外出しなかったのを今でも悔やんでいる。

    「先輩、またその話をするんですか。俺は本を読むのを邪魔されないなら、蝶や小鳥の止まり木になろうが、構いません」
    「……え」
    「それより、早く飲まないとせっかくのお茶が冷めますよ」

    珍しいものなんでしょう、と彼は続けた。緑色の帽子を深くかぶった彼は、自分より背が小さい。間違いなく、学生の頃のアルハイゼンであった。そしてここは学生寮。テーブルの上では、檸檬の浮かんだバタフライピーが湯気を立てている。

    「(ああ、僕はまた夢を見ているのか)」

    自分もまた、緑色の学生服を身に纏っていることに気が付いた。製図作業の繰り返しで落ちなくなった右袖のくすみまで記憶通り。夢とはいえ、随分とよくできているではないか。声変わりする前の幼いアルハイゼンは、青色の水面をしげしげと眺めていた。

    「これ、こぼしてシミになったら大変そうですね」
    「ぷっ……そんな風情の無いことを言うんじゃないよ。このお茶は鮮やかな色と香りを楽しむものなんだぞ」

    シミの心配だなんて相変わらずナンセンスだけれど「食欲減退色」よりはずっと良い。現実でないと分かっていても、自分を慕うアルハイゼンが目の前に現れたのが嬉しくて仕方ない。しかも、僕の用意したらしいバタフライピーに皮肉も言わず一緒に飲んでくれる。こんな素敵な夢が見られるなら、お茶だけでなくもっと色んなお菓子を用意して眠りにつけばよかったと思った。

    「(バタフライピーと合わせるなら……そうだな、干したザイトゥン桃でもあればよかったのに)」

    ドライフルーツなら、お茶の華やかな香りと合わさってもっと気分が良くなるはず。生の果実切って添えるのも悪くないけれど、アルハイゼンは手の汚れる料理を嫌うから。そう思ったとたん、ティーカップの傍には食べやすいサイズにスライスされたドライフルーツの皿が添えられていた。

    「先輩、食べないんですか」
    「ええと……」

    なんということだろう、望んだものがぽいと目の前に出された。どうやらこの夢は、とことん僕の希望に沿ってくれるらしい。

    「君のために持って来たんだから、君が沢山食べてくれないと」
    「そうですか」

    アルハイゼンは言われた通りドライフルーツに手を伸ばす。僕はティーカップに口を付けるのも忘れ、黙って咀嚼する彼の横顔を眺めていた。美しく通った鼻筋は今も変わらない。けれど、目元はとても柔らかで愛らしい印象を受ける。可愛い、かわいい、僕の後輩。今すぐ撫でくり回してやろうか。満たされた気持ちで頬杖をついていたら、まったく可愛くない声が空から降って来た。

    「もう朝だと言っているだろう」
    「はぇ……?」

    雨林に浮かぶ泡みたいに、後輩との幸せなティータイムは弾けて消えた。窓の外はまだ明るい。いいや、明るすぎる。

    「朝……君、今朝って言ったか?」
    「まさか、昨日の昼から寝ていたのか」

    テーブルの上には飲みかけのバタフライピーが放置されている。おやつの時間に居眠りをして、そのまま夜を通り過ぎてしまったというのか。

    「おかしいな……僕、そんなに疲れていたのかな……」
    「寝ないで製図や模型弄りをするのは昔からだが、睡眠不足で生活に支障が出ないようにしてくれ。倒れられたら俺が困る」
    「心配しなくとも君に迷惑はかけないさ」
    「衣食住の提供という点で、現在進行形で迷惑をかけている自覚はないのか?」

    ああ可愛くない、かわいくない。これだから現実のアルハイゼンはだめだ。とても甘く点数をつけて、控えめに言って、オブラートに包んでもなお「論外」だ。

    「はぁ……どうせ寝過ごすんだったら、もう少し学生時代の君を堪能しておくべきだった!」
    「いきなり何の話をしているんだ」
    「いやなに、夢の中に素直で可愛い昔の君が出てきたものだから惜しくてね!」

    これ以上現実のアルハイゼンと接していたら麗しい夢が汚されそうな気がする。てきぱきと朝の支度を始めると、彼はもう何も言わなかった。ティーカップを片付け、軽く部屋を掃除してからもう一度夢について考えを巡らす。

    パティサラプリンが食べたいと思ったら、夢の中のアルハイゼンが買ってきてくれた。
    疲れている僕を気遣って、夕飯の準備も代わってくれる優しい彼がそこに居た。
    一緒にお茶をしてくれた学生時代の彼を思い出していたら、夢の中で一緒にバタフライピーを飲んでいた。しかも、欲しいと思ったドライフルーツは勝手に表れる。

    「(もしかして僕……自分が望んだとおりに夢を見る力があるんじゃないか?)」

    もしカーヴェという人間がスメール人ではなくて、大人になってからも夢に親しんでいたら結果は違ったかもしれない。夢が支離滅裂で制御できないものであると正しく理解できたはずだ。しかし、彼もまたつい最近までアーカーシャに夢を捧げ続けていたスメールの民であった。思い通りに描かれる夢境に対し、違和感よりも好奇心と歓びが勝っていたのである。

    ***

    望んだとおりの夢が見られる。

    気づいてからの日々はとても新鮮で愉快なものだった。夢の中のアルハイゼンは美とロマンを理解してくれる……とまではいかないが、情け容赦ない皮肉を浴びせかけてきたり、金でマウントを取るような真似はしない。ヘッドホンのノイズキャンセリング機能を目の前でオンにすることもない。

    話しかければ聞いてくれるし、手作りの食べ物を勧めれば感想を言ってくれる。七聖召喚をしたいと願えばため息をつきながらもデッキを取り出し、買い物に誘えば黙って上着を取りに行く。

    夢の中では時代もシチュエーションも思うがまま。気まぐれに学生時代に戻って、一緒にパルディスディアイを散歩したりもした。砂漠の調査に誘ったとき、彼がマーケットで砂除けの外套を見繕ってくれた時は夢だと分かっていても涙が出そうになった程だ。

    そんな楽しい日々を送っていたので、現実の彼の塩対応など、どうでもよくなった。初めこそ、アルハイゼンが夢の中と同じように接してくれたら……なんて幻想が過ることもあったけれど。話しかける度、夢との違いを実感して失望する。わざわざ傷つきに行くマゾヒストでもないので、最近は積極的に関わることを辞めた。話を振らなければ喧嘩することもなくなり、結果的に現実の世界でも上機嫌でいることができた。しかし、鼻歌を歌いながら皿を洗う僕を、可愛くない方のアルハイゼンは怪訝そうな目で見てくる。

    「だから言っただろう、最近はよく眠れて調子が良いんだ」
    「俺には一種の躁状態のようにしか見えない」
    「献身的に家事をこなすこの僕を病人扱いだなんて。君は本ッ当に人間性というものを失ってしまったんだな……君の思いやりの無さこそ心理的な治療を施すべき問題だと僕は思うよ」

    少し黙ってから、彼はやけに真面目な声色で言葉を紡いだ。

    「今の君の状態を的確に示す言葉は睡眠障害だ。ベッドの上で眠るならまだしも、ソファや床の上で十時間以上意識を失っているのは正常と言い難い」
    「何度でも言うけれど、僕の身体におかしいところはないよ。仕事も順調だ。というか、僕が寝ていて得をするのは君だろ。良かったな、家の中でヘッドホンを使う必要がなくなって」

    返答は返ってこない。アルハイゼンが身を案じてくれたように聞こえるけれど、彼が他人の心配などするものか。ましてや今の自分はアルハイゼンにとっての厄介者。猶更気遣ってくるなどありえない。何の目的もなく他人の身を案じるアルハイゼンがいたとしたら、それこそ精神疾患だ。変な薬を飲まされていないか疑わねばならない。

    「僕はこの後やることがあるから、君は出かけるなり本を読むなり好きにしたらいい。ああ、それとコーヒー豆入れの隣の缶は僕が補充したバタフライピーだ。勝手に触るなよ」

    でも、僕はもう彼の冷ややかな態度を寂しく思わない。可愛くて優しい、人の心を持ったアルハイゼンに会いたければ、ベッドに横になって目を閉じればいい。穏やかな心持ちで最後の皿を水で流し、布巾で手を拭った。

    「あの妙な色の茶をまた買ったのか」
    「関係ないだろ、あれは君のじゃない」

    軽食に林檎と半分にしたデーツナンを持ち、寝室に戻る。夢の中のアルハイゼンと何をしようか。行きたい場所、やりたいことは尽きないが、今日はとっておきを考えてきたのだ!

    「……よし、完璧だ」

    僕は林檎を一口齧り、出来上がった間取り図をしっかりと目に焼き付けてから目を閉じた。

    ***

    カーヴェの様子がおかしい。

    皿を洗い終えて部屋に戻るカーヴェの背中を黙って見送る。こちらを振り返る素振りがないと確認した時、俺は異常を確信した。

    「(……君に一体何が起こった?)」

    意図して観察していなくとも、同じ空間で生活していれば自ずと気づくものがある。

    まず、最近の彼の睡眠時間だ。普段なら五時間から六時間程度の睡眠で済ませ、興が乗った日には夜通し模型を叩き回す彼が、毎日十時間以上寝ている。それも、自分の部屋ではなくソファや机に突っ伏して。挙句の果てには床の上で。最初からそこで寝ようとしたのではなく、眠気に耐えきれず崩れ落ちたかのような形で熟睡していた。睡眠にまったく適していない姿勢でありながら、叩いても呼びかけても目覚めなかった。

    次に違和感を覚えたのが行動。普段から風スライムのごとく気ままに動く彼とはいえ、あまりにも脈絡がなさすぎる。ある時はテーブルいっぱいに七聖召喚のカードを広げ、またある時は砂漠探索のガイドブックを読み漁っていた。そのくせ、完成したデッキを試しにカフェへ行くでもなく、砂漠調査に繰り出す気配もない。他には突然手の込んだ料理を作ったり、花を買ってきたり、髪形を変える等々。

    そして一番妙なのは、彼が話をするとき俺の顔を見なくなったことだ。どんな話題でも目を見て、馬鹿正直に、真っ向から話をするのがカーヴェという男だった。最後に目が合ったのは? 本気の反論を聞いたのはいつだろう。俺の言葉に返答こそするものの、緋色の視線が向けられることはない。

    気まずい、避けたい、という意図は感じられず、どこか遠くの……何か違うものを見ているように感じる。初めこそ彼の幼稚さが改善されたかと思ったが、これは違う。今部屋に戻るときの態度が、まさに物語っている。気に食わない話を振られたら、最悪の場合ドアの隙間が閉じ切るその時までぎゃんぎゃん騒ぐのがカーヴェという男だ。あんなにあっさりと引き下がる訳がない。

    以上三つの点から、同居人は何らかの精神異常、脳に問題があると判断するに至った。生活を共にする人間である以上、本格的に異常をきたされると自身の生活が乱されてしまう。穏やかな日々の為、早期治療を試みるべきだ。

    「(アーカーシャが関わっている・・・・・?)」

    ヘッドホンのノイズキャンセリングをオンにして、思考を開始。ここ最近脳に影響を及ぼす要因として考えられるのは、先日彼が被験者となったアーカーシャの動作テストだ。実験内容は、夢境を作り出すこと。一人の人間を夢の主とし、複数の人間で同一内容の夢を構築する。アザールたちはこの手法を用いて夢境にスメール民の意識を閉じ込め、花神誕日の一日を輪廻させ、夢を搾取することでアーカーシャの能力を強化した。本来繰り返してはならない内容なので、この再現実験は代理賢者である自分をはじめごく限られた人間しか知らない。

    アーカーシャは夢を採取するので、確かに脳に影響している。しかし、所詮演算装置だ。情報の蓄積、収集、伝達は行えても個人の感情や行動に直接変化を与えることはできない。それに、実験に使用されたアーカーシャ端末はとっくに外されており、停止している。

    「(アーカーシャにはまだ別の機能が隠されている? いいや、仮にあったとしてカーヴェに実行する理由がない。現在影響はなくなっていても、実験を経て、彼自身が勝手に変化した可能性は……?)」

    まだ証拠が足りない。歩みを進めた先、知恵の殿堂を抜け、執務室にたどり着く。幸か不幸か、自分は未だ代理賢者の地位にいる。教令院で行われている研究、実験の内容は簡単に覗き見ることができた。他の被験者が提出した報告書を確認しようとしたとき、別の報告書に書かれた「夢境」の文字が目に留まる。

    「……モーメントオブドリームにて」

    夢について語らうサークル「モーメントオブドリーム」が発端で明るみになった事件。アーカーシャを不正に利用して夢境を構築したとある学者について。複数の人間で夢境を構築、その力で死んだ人間を再現する。故人を恋しむ人間は夢境の虜となり、最後には目覚めることをやめてしまう……といった内容だった。草神様と旅人が対処し、解決済と書かれている。

    ――いやなに、夢の中に素直で可愛い昔の君が出てきたものだから惜しくてね!

    ふと、彼の言葉が蘇る。新しく浮かんだ仮説を基に、資料を漁る。

    「……ああ、やはりな」

    想像した通り、アーカーシャ動作テストの夢の主として書かれていたのはカーヴェの名前であった。同時に、誰が夢の主であるのか、本人には告げられていないと明記されている。しかし、関連性があるのは間違いなさそうだ。

    「(一度様子を確認しに行くか)」

    症状が進行する前に、意識のある彼と話さねばならない。まっすぐに自宅へ戻ると、部屋は静まり返っていた。出かけたのかと思い彼の部屋を覗くと、彼は寝室の椅子に腰掛けたまま眠っていた。机には筆記用具に、丁寧に描かれた住宅の間取り図面、乾いたデーツナン、一口齧られただけの林檎が転がっている。仕事をしているうちに、また眠りに落ちてしまったのだろう。

    「カーヴェ、起きてくれ。君に聞きたいことがある」

    揺すっても叩いても、彼は穏やかな寝息をたてるだけ。浴室まで連れていって水を浴びせても結果は変わらなかった。草元素できつい一撃をお見舞いしてやろうかとも思ったが、安らかな寝顔を見て振り上げた手を止めた。

    ***

    「そう、それで私を訪ねたというわけね」
    「彼が夢境に居るというのであれば、他に方法が無かったもので」

    少女の姿をした知恵の神は、寝台の上で眠り続ける男の額に触れた。こんな男の為に神の手を煩わせるのは気が引けるものの、アーカーシャが関わっている以上は他に方法が無い。仮に、彼女と旅人が解決した事件と同じ現象であれば、当事者に話を聞くのが手っ取り早いのだ。少し時間を置いたのち、知恵の神は落ち着いた声で語り始める。

    「結論から述べましょう。貴方の仮説は正しいし、私を頼るという選択肢は最も効率的で有効な手段だったわ。アーカーシャが関わっているのだから、草神である私が解決しなくてはならないことよ」

    だから気にしないで頂戴、と彼女は続けた。

    「少し彼の夢を覗いたけれど、様々な時間や場所が層を成していた。彼はどこかで、自分が思い通りの夢境を構築できることに気づいたのね」
    「目覚めさせることは?」
    「私は夢の中の彼に会いに行くことができる。けれど、彼と話して目を覚まさせる役目は貴方が適任だと思うの。何か、思い当たるのでしょう?」

    知恵の神を前に隠し事はできないようだ。けれど、今頭に浮かんでいる仮説は信じ難いものだし、結論へ至る道中には説明のできない数多の疑問が積み上がっている。

    「まだ整理ができていないのね。でも、彼について、貴方の方が知見が深いのは事実でしょう? 私は、貴方がこの問題解決を手伝ってくれると嬉しいのだけれど。彼の夢境を実際に体験することは、貴方が結論に至るための手がかりになるのではないかしら」

    正直、気は進まない。しかし、理に叶った意見に対して難癖をつけて時間を浪費する趣味は無かった。相手が草神であれば、なおさらに。ひとつ息をついてから、俺は彼女に何をすれば良いのかと問うた。

    「目を閉じて。大丈夫、私がついているわ」

    言われたとおりに瞼を閉じると、温かな指先が手に触れた気がした。身体がふわりと浮かぶ感覚、その後、もう一度彼女の声が聞こえる。

    目を開けると、そこは見慣れた自宅のリビングだった。あのカーヴェの作った夢境というから、もっと非現実的なものになると想像していた。拍子抜けだと思いながら部屋を見回すと、細部が異なっていることに気づく。

    「夢の主はもうここには居ないようだけれど……あら、これはもしかして、旅人が遊んでいたカードゲームね」

    テーブルの上に、七聖召喚のカードがばら撒かれている。配置からして、勝敗が決した後そのまま放置されていたようだ。

    「貴方もルームメイトと一緒にカードゲームをするのね。私も今度旅人と一緒に遊ぶ約束をしているの」
    「いや、俺にそんな経験は……」

    勿論、七聖召喚のルールは知っている。が、最近カーヴェと対戦した記憶はない。

    「(……これは、あいつが弄り回していたデッキか?)」

    並べられているカードに見覚えがある。少なくとも、片方に置かれているデッキの構成は、カーヴェが実際に部屋でうんうん唸りながら作っていたものだ。他に気になるのは、テーブルの脇に置かれた食器。そのうち一つには、食べ残したと思しきミートロールが残されている。この料理も、彼が数日前に作っていた。

    「……これ以上手がかりはなさそうだ」
    「そう。それなら、どこかに別の夢へと繋がる入り口があるはずね」

    少女に導かれるまま歩みを進める。彼女は寝室のドアを開けた。ベッドがおかれているはずのそこには、外の景色が広がっている。

    「行きましょう」

    カーヴェの夢境は順番に脈絡は無いものの、その景色は見慣れたものばかりであった。スメールの森林、プスパカフェ、港、砂漠の遺跡、教令院の学生寮。誰かが居た形跡は残っているけれど、肝心のカーヴェの姿はどこにも無く、それ以外の人間の姿も見当たらない。ただ、これらの場所と残された痕跡、すべてが最近の彼の行動に関連している。

    「学生寮のテーブルに残されていたのは彼が取り寄せていたバタフライピー、あの砂漠の遺跡はガイドブックの挿絵に在ったもので、携行品も一致している」
    「そうなのね……彼は夢境のリアリティを追求していたのかもしれないわ」
    「あの凝り性ならやりかねない」

    カーヴェは夢の世界で呑気に楽しく遊んでいるらしかった。だとすれば、現実世界での突飛な行動は、夢境をより精密に構築する為のイメージトレーニング。ここまでは執務室にあった資料を見た時点で思い至っていた。しかし、実際に彼の夢境を見ても、その先の疑問を解決する手掛かりは見つからない。むしろ、実際に見たからこそ疑念が増した。

    「おそらく次が最深部ね。ここまでで、何か分かることはあった?」

    更に謎が深まった、と素直に告げる。今居るのはスメールシティの外れ。沈みかけた夕日が街を照らしている。静まり返ったスメールの街。他の夢境と同様に、他の人間は存在しないらしい。知恵の神は微笑みながら「大丈夫よ」と口にした。他人に心配されようが無視されようが気にしたことはないけれど、彼女の穏やかな表情は不思議と心を落ち着かせる。

    「百聞は一見に如かずという言葉の通り、実際に体験する事は幾千の思索に勝るものよ」
    「彼に会えば答えが出ると?」
    「可能性は高いと思うわ。外の世界を見ることなく四百年間知恵の神を名乗っていたこの私が言うのだから、信じてちょうだい」

    ジョークに対する上手い切り返しの本を探すべきか、本気で迷った。草神の導きに従って、歩みを進める。彼女が足を止めたのは一軒の家の前。その場所はまさに、アルハイゼンの自宅なのだが。家の扉を開けると、夢境の中では初めての“見知らぬ景色”だった。そこに在ったのは輝光材を使用したスメールらしい住居。けれど奥の扉に嵌め込まれたステンドグラスの造形は一般的なものではなく、カーヴェの好みそうな、オーダーメイドの品である。ここは彼が設計した、若しくは彼の手によって大幅なアレンジが加えられた家なのだろう。

    「(この間取りは……)」

    ドアと窓の位置を幾つか確認する。部屋に残されていた間取り図の通りだ。彼は夢の中で新居を再現するために、わざわざ現実世界で図面を引いたらしい。やはり彼の心は、夢に囚われている。

    「木彫りはまったく趣味じゃないけれど、このアランナラの置物は一周回って可愛いじゃないか!」

    奥の部屋から聞き慣れた声がする。鍵のかかっていない、扉の隙間。やっと見つけた。ようやく確かめることができる。しかし、安堵の吐息は途中で止まった。

    「……一周回ってしまったら、元に戻るだけだろう」
    「じゃあ半周! 君も冗談を言えるんだな」

    光景を認識するのに三秒。状況を理解するのにまた三秒。食い入るように目詰めてもなお、夢の主――カーヴェはこちらに気づかない。木彫りのアランナラを指で弄び、一通り眺めまわしてから青色の液体が注がれたティーカップの隣に置物を置いた。

    ――関係ないだろ、あれは君のじゃない。

    こちらを一瞥もせず放たれた言葉が脳内に蘇る。俺ではない“誰か”のためのバタフライピー。嗚呼、成程。そういうことか。けれども何故、どうして、こんなことをする必要があったか。ない、そんなものは。君は、違う、正しくない。理解できない。したくない。絶対に――

    『アルハイゼン』

    彼女に呼び止められなければ、衝動的に踏み出そうとした右足を止めることはできなかっただろう。点と点が線となって繋がる瞬間、胸の内にこみ上げたどす黒いものが己の理性を焼き滅ぼした。

    『このまま私とお話しましょう。心の中で思うだけで良いわ』

    草神に諭されてようやく、目の前の光景から目を背けることができたが、心臓は狂ったように早鐘を打ち続けている。あの景色は自身が想定しうる中で最も見たくなかったものだ。薄らと脳裏に過っても否定する理由をかき集め、無視し続けていた可能性のひとつ。皮肉にも“見たくなかった”という解答にたどり着いたのはまさに直視したその時だったのだ。そして未だに、“見たくなかった”の理由を見出せずにいる。

    『カーヴェといったかしら。彼は、夢の中で貴方と過ごしたかったのね。でも、貴方はそれが心の底から赦せないでいる。ここまでは合っているかしら』
    『……はい』

    カーヴェの夢境には、必ず人の痕跡があった。七聖召喚のデッキ、料理の皿、ティーカップ、砂上の足跡、荷物、ただの一度も例外は無く、二人分。つまりカーヴェは、夢の中で誰かと一緒に過ごしていたのである。アルハイゼンの思考力を以てしても、その“誰か”を定めることができなかった。

    彼が夢中になっていた相手は他でもなく、自分自身――アルハイゼンの虚像。わざわざ買い足したバタフライピーは、夢境の人形の為に在った。事実を頭の中で整理しただけなのに、再び激しい憎悪が胸の内で渦巻く。冷静にならなければ、と意識する程に黒い感情は激しさを増した。

    『アルハイゼン、貴方は間違いなく聡明な人よ。目を閉じれば、情報の波に囚われることなく、真実に辿り着けるでしょう。それでも私、今の貴方を助けたくて仕方がないの。私を救ってくれた御礼なんかではなくて、本当にただのお節介なのだけれど……私の我儘を聞いてくれないかしら』

    ただの一言だけで良いから、と彼女は続けた。俺はゆっくりと首を縦に振る。

    『たった今、貴方の胸の内に込み上げた感情の名前は嫉妬と言うの』

    俺は彼女が知恵の神だと改めて思い知った。言葉の通り、ただの一言で腑に落ちたのだ。何故こんなにも激しい憎しみが胸を焼くのか。どうして己の虚像を、そして虚像を前に微笑むカーヴェを赦せないのか。答えを得たのを察した草神は言葉を続ける。

    『この夢境は旅人と一緒に対処したものに比べればごくごく小さなもの。私の力があれば、すぐにでも終わらせることが出来る。でも……』

    それではだめなのだ。言葉にしなくとも、彼女はすぐに理解してくれた。

    『行ってらっしゃい。決して悔いのないように。私は貴方の大切な人が、永久に虚像に囚われることが無いよう願っているわ』

    ***

    「この俺というものがありながら、君はそんなところで何をしている?」
    「…………は?」

    とんでもない光景、想像を絶する発言。僕はまず、自分の性癖を疑った。だって、夢境は理想を具現化するものだから。

    「(略奪されたり複数人の相手に求められるシチュエーションに憧れは……無い、流石に無い……と、思う!)」

    そういった内容の恋愛小説を読んだことはあるけれど、特に滾るものはなかった。本当だ。

    「(じゃあ何だろう、挟まれたいとか!? いやいや、もっとありえないだろ。でも実際に出てきちゃってるし。まさか、これが僕の潜在的な欲望だとでも……!?)」

    目の前で起こったことを説明しよう。夢の中でアルハイゼンと楽しくお茶をしていたら、扉が開いてもう一人のアルハイゼンが現れた。開口一番「この俺というものがありながら」などと、絶対に言わないような言葉を並べ立て、物凄い剣幕で睨めつけてくる。

    「勘弁してくれ、夢の中でまで君に怒られるなんて……」
    「夢だと分かっているならとっとと醒めてくれ」

    なんと酷いことを言う。まるで現実世界のアルハイゼンが僕を叩き起こしに来たみたいだ。こんな無愛想で可愛くない代理賢者様を呼んだ覚えはない。望んでいない。こちらの視線が冷ややかになったのを感じ取ったのか、更に顔を険しくした。

    「(落ち着け、僕……嫌なら消えろって念じればいいだけだろ)」

    状況が突飛で驚いたけれど、ここは夢の中だ。現実のアルハイゼンが乗り込んでくるなんてありえない。おそらく、これは自分の設定ミスである。僕はすぐに冷静さを取り戻し、やるべきことを判断した。

    「……どうして可愛くない君が出てきたのかは知らないけれど、ここは僕の夢だ。邪魔をしないでくれ」

    消えてほしい、と念じる瞬間ちくりと胸が痛む。態度が冷たくたって、姿形は自分の想い人。いなくなれ、なんて酷いことを口に出すのは忍びなくて、心の中で思うに留めた。しかし、目の前の男はいつまでたっても視界に留まったままこちらを見下ろしている。

    「(嘘だろ、何で消えないんだ?)」

    夢境が僕を裏切ったことは一度もなかった。行きたい場所、やりたいこと、欲しい物、そして真面目で可愛くて優しい恋人、思うがままに与えてくれる……はずだった。想定外の状況に対応できず、さっきまで話していた“恋人”に助けを求めようとした。後ろを振り返ろうとした僕の頭を、目の前の男ががっちりと掴む。

    「っ、あ……痛ッ! 何を……離……」

    離せ、と叫ぼうとした唇は動かなかった。アルハイゼンは怒っている。とても怒っている。今まで殴り合いになったことはあるけれど、それをも通り越した憤怒が彼の瞳から滲んでいた。買ってきたばかりの新書の山をコーヒーで全部だめにした時だってここまで激昂しなかった。

    「君に、それは、必要ない」

    低い声。一字一句を脳内に刷り込むような威圧感を孕んでいる。分からない、やめてほしい。どうして夢の中でまで怖い思いをしなければならないのか。

    「君は本物を前にして、紛い物の人形に執着する程愚かだったのか?」

    もしかして、この男は本当に現実からやってきたアルハイゼンなのかもしれない。もしくは、現実の彼と向き合うことを止めた罪悪感が、本物の彼が言いそうなことを再現しているとか。どちらにせよ、甘い夢を見続けていた自分に、突然の現実は受け入れ難いものだった。

    「……良いじゃないか、夢の中でくらい楽しく過ごさせてくれ」
    「こんなお人形遊びが君の理想だとでも?」
    「本当に嫌な奴になったな君。僕は眠っているだけだ、迷惑はかからないだろ。そのうち目が覚めるさ。気が向いたらな」
    「気が向くのはいつだ? もう随分と夢境を楽しんでいるようじゃないか。わざわざ新居の設計図まで描いて」

    ぐしゃりと感情が潰れる音。本物の彼は冷たい。僕の好きなものに興味を持ってくれない。借金まみれで家に転がり込んだ自分が厄介者扱いされていることは理解している。でも、それでも、酷過ぎやしないか。誰にも迷惑をかけず夢を見ていた僕を無理矢理目覚めさせてどうするつもりだ。十数年の想いが明るみになる恐怖より、目の前の男に対する憤りが勝った。

    「意味が分からない……どうして僕が怒られなきゃいけないんだ。居ない方がいいって言ったのは君じゃないか! 夢の中くらい好きにさせてくれ! 君は合理性ばかり追求して僕の気持ちなんか何も考えない! 話も聞いてくれないし、そもそも僕に興味なんか無いだろ! 僕が居なくて何の不都合がある!?」

    目の前の男が現実かどうかなんて関係ない。これだけは言っておかねば気が済まない。

    「僕はこっちの世界で優しくて可愛い君と一緒に居た方が幸せだと言ってるんだ!」

    夢境で起きたことの全ては、現実の君とやってみたかった事だ。不可能だったからこそ、夢を見ている。どうして分かってくれないのだろう。

    「それなら、君の大好きなロマンとやらに則って叩き起こしてやる」

    彼の顔が迫ってくる。怒りのあまり、頭を両腕で掴まれていたのを忘れていた。目を閉じる暇もなく、唇と舌の感触。あまりに生々しい熱は、彼が虚像でないことを示す証拠。つまり今口付けしている相手は、間違いなく、現実世界の、ルームメイトのアルハイゼンではないか?

    「(どうして)」

    問いかけに応えるものはいない。夢境でぬるま湯のような幸せに浸っていた者には強すぎる刺激だった。

    彼は知っていたのだろうか。想い人の虚像を恋人と設定していたにも関わらず、それらしい行為は一切行えなかったことを。自分が望めば口付け以上の……身体の関係だって再現できた。彼の口から愛の言葉を囁かせることも、抱き締めてもらうことも可能だった。それをしなかったのは、彼を汚すような気がしたから。

    結局のところ、自分が愛してしまったのは無愛想で可愛くなくて、変わり者で合理主義者で、性格の悪い、どうしようもない男なのだった。アルハイゼンという存在を、壊したくなかった。

    「(ああそうさ、これが僕の本当の望みなんだ。現実の彼にこうして……でも、それなら、やっぱりこれは夢なんじゃないか?)」

    現実の彼が口付けをしてくる理由なんて、たとえ草神様のご加護があったとしても見出せる気がしない。息が苦しい。視界がだんだんと暗くなるけれど、口付けの感覚は残ったまま。愛する人に唇を奪われて窒息。ロマンティックなのかふざけているのか判別の難しい死因だ……などと戯けたことを考えていたら、目の前には寝室の天井があった。

    「良かった。夢境を解いた後も暫く目が覚めなかったから、心配していたの。もしかして、もともと疲れていたんじゃないかしら? 貴方が優れた建築家なのは知っているけれど、仕事ができるからといって無理ばかりしては駄目よ」
    「…………ぅえ?」

    見慣れた部屋にいる、見慣れない少女。花のような瞳、艶やかな髪の毛、柔らかそうな頬。

    「ごめんなさい、お話するのは初めてだったわね。私のことは……ナヒーダと呼んで頂戴」

    幼い見た目に関して、落ち着いた声からは知性と温かみを感じる。謎多き今の状況も忘れて、将来美人になるだろうと心の中で賞賛を送った。

    「アルハイゼンに頼まれて、彼を貴方の夢の中に案内したの。あのままでは、いずれ目覚めなくなっていたかもしれないから」
    「……!」

    少女の言葉で、突然現実に引き戻される。いや、既に目覚めて現実世界には居るのだけれど。彼の名前が出てきたことで、与えられた熱の感覚、感触が蘇った。

    「夢の中に……ということはつまりアレは本当のアルハイゼン? いやいや、嘘だろ、何をどうやったら僕に、き……」

    キスなんて、という言葉を無理矢理飲み込んだ。危ない。初対面の少女の前で何を口走ろうとしているのか。

    「(……落ち着け僕。いや無理だ、状況が分からな過ぎる! 彼女がアルハイゼンを僕の夢の中に連れてきた? それなら既に事情がバレている!? でも、こんな子知らないし……っていうかアルハイゼンは何処に行ったんだ)」

    困惑を隠せない僕を見て、ナヒーダと名乗る少女は予め答えを用意していたかのように言葉を繋いだ。

    「彼は貴方の為に夕食の材料を買いに行ったわ。だから、私が代わりに見ていることにしたの。夢の中で貴方たちの事情を垣間見てしまったのだけれど、誰にも言ったりしないから」
    「……」

    どこからどこまで、という質問に対し、ナヒーダは「最初からよ」と答えた。自尊心が音を立てて崩れていく。

    「私のことはあまり気にしないで……というのも無理な話ね」

    男同士の痴情の縺れを初対面の少女に見られたらアルハイゼンだって卒倒すると思う。ちなみに、僕は既に意識が遠のいている。

    「けれど、やはり貴方は私より先に向き合うべき人がいる。もうすぐ帰って来るから、それまでにきちんと考えておかないと……きっと、とても苦労することになると思うわ。私も、知ってしまった者として、これ以上すれ違いで苦しむ姿は見たくないの。時には答えから知ることも大切よ」

    決意を新たにしたような雰囲気で、少女は告げる。真面目な空気に流されて、いつの間にか聞く姿勢を整えてしまった。

    「どんなに慣れ親しんだ道であっても、迷ったのなら地図を開くべきだわ。分かっている筈、という思い込みは人を盲目にしてしまう……貴方は、アルハイゼンがどうしてあんなに怒っていたのか今も分からないでいるのね」

    黙って首を縦に振る。これもまた理由が見出せないのだが、素性の全く分からない少女に、己の全てを見通されている気がするのだ。

    「もしも貴方の愛する人が、目と鼻の先にいる自分を放ってその虚像と遊んでいたらどう思うかしら。人情の機微に触れられる貴方なら、答えを出すのは難しくないはずよ」

    言葉の意味を理解するのは非常に簡単。両片思いにありがちなすれちがい。恋愛の絡む小説を読めば誰でも分かる、お決まりのシチュエーションだ。しかしこれを自分とアルハイゼンの関係に当て嵌めようとすると、脳が情報処理を拒否する。

    「いやいやいやいや!? ありえない、うそだ、まさか、あいつが……? 僕のことを……夢の中の自分にヤキモチを焼いたとでも!? 日頃そっけない態度を取っておきながら、僕が夢の中で虚像の彼と遊んでいたら気に食わないって?」

    仮に、もし仮に、砂浜で特定の砂粒を見つけ出すぐらいの確率で、アルハイゼンが自分に好意を抱いていたとする。同居をはじめてから、彼が好意らしいものを示したことは、一度もない。

    「だめだ、無理だ、信じられない。構ってくれなくなった途端拗ねるなんて、アルハイゼンがそんな幼稚な発想をするなら世の人間は全員頭がキノコン以下になってる……」
    「思慮深い彼にあるまじき行動であることは私も理解できる。けれど、彼が自分の気持ちに気づいたのは、貴方が夢の中で虚像と語らっているのを見た瞬間のことなの。突然湧いて出た感情に、思考が追いつかなかったのね」

    この瞬間、絶句、という言葉の意味を誰より深く理解した自信がある。

    「は……そんな理不尽なことがあるか!? アルハイゼンのやつ、夢の中で僕のことを……その、す、す……すきだと、おもって……その場で怒って、あんなことを!?」
    「貴方の不満は当然の権利ね。彼にとって貴方への好意を自覚するのは私を救い出すのよりもずっと難解だったみたい。灯台下暗し、という言葉の通りなのかしら」
    「救い出す……?」
    「その件についてもきちんと説明したいところなのだけれど、本当に時間がないの。これから彼と向き合う貴方に、もうひとつだけ助言をしてもいいかしら」

    少し厳しい話になるかもしれない、と彼女は続けた。こちらは既に処理能力を超えた情報の濁流で頭が爆発しそうなのに、更に厳しい事態が待ち受けているとでも? ちょっと待ってくれ、と口に出す前に彼女は話を続けてしまった。

    「彼の感情を形容するにおいて”ヤキモチ”という可愛い言葉ではあまりにも役不足だわ」

    少女の言葉が終わったとき、がちゃんと鍵の開く音がした。玄関扉が軋み、足音が響く。

    「ええと、その……頑張ってちょうだい」

    申し訳なさそうな少女の表情は、ほんの僅かな準備時間が終了したことを示していた。足音はこちらに向かっている。確実に、近づいてくる。今すぐ布団を被れば寝たふりもできただろうに、動揺して思い切り物音を立ててしまった。

    「カーヴェ、起きているのか?」

    心臓が壊れたように脈打つ。顔も耳も、燃えるように熱い。口付けの、舌の感覚が蘇る。目を合わせられる気がしない。かける言葉も思いつかない。むりだ。あんまりだ。こんな急展開聞いていない。お願いだからもう少し時間が欲しい。今すぐに気絶したい。

    「(逃げよう)」

    そうだ、寝室の窓をぶち破ろう。決意したまでは早かった。しかしその二秒後、シーツに足を引っかけた僕は無様に転倒し、ベッドの下に転がっていた。顔を上げると、直視するのも憚られるその人とばっちり目が合ってしまう。言葉の通り、呼吸が止まった。

    「口付けで目覚める気分はどうだ、お姫様」

    「応援しているわ」と頭の中で少女の声が響いた。ナヒーダと名乗る女の子が座っていた椅子にはもう誰も居ない。多分、おそらく、絶対に、誠に残念ながら、僕は詰んだらしい。

    「起きたばかりで喉が渇いただろう。夕飯の前に、君の大好きなバタフライピーでも淹れようか?」
    「(ね、根に持ってる……!)」

    近くに居過ぎると見えないものもある、という少女の言葉は正しかった。

    「き、きみが何を思っているかなんて僕にはわからない。言いたいことがあるなら言えばいいだろ」
    「では率直に聞こう。夢の中で、俺と何処まで、何をした?」

    でも、灯台の下にこんな爆弾が埋まっているなんて聞いていない。

    「言え」

    羞恥に勝ったのは恐怖だった。この王子様、信じられないぐらい嫉妬深い。
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