徒恋というもの 人間は飯の準備をしてくると言って居間から出ていった。旦那は父ちゃんに向けた文を書いている。断りの文が書かれていると思うと切ないが、すぐ追い出されるわけじゃない。なんとかこの数日で旦那に気に入ってもらう方法を探さなければと考えていると、旦那の隣で遊んでいる赤ん坊が目に入った。継母が必要だとみんなが言っていたのを思い出す。この子に気に入って貰えれば風向きが変わるはず。そう思い、そっと近づいて声をかけてみた。
「坊ちゃん、こんにちは」
こちらへ振り向いた途端に赤ん坊の口がへの字に曲がる。うわーんと甲高い声が上がり、旦那によく似た大きな目から大粒の涙が溢れ出した。
「どうした!?鬼太郎!!」
人間がすっ飛んできて赤ん坊を抱き上げる。赤ん坊はわんわんと泣きながら人間の首ったまに縋りついた。いきなり大声で泣かれてしまったことと、駆けつけた人間の勢いとに呆気に取られていれば、旦那が困ったような顔でこちらに声をかけてくる。
「お嬢ちゃん」
「あの、…あたし、何も、何もしていない」
「わかっておるよ。驚かせてすまんのう。今、鬼太郎は人見知りが酷くてな。ワシと水木と、あとは砂かけたち特別親しい者以外にはこうなるんじゃよ」
「よしよし、もう大丈夫だ。泣くな泣くな。良い子だな」
耳をつんざくような泣き声は、人間にあやされて徐々に下火になっていく。ぎゅっと縋る赤ん坊を抱きしめ体を揺らす人間の姿はまるで本当の親みたい。
ああ上手くいかない、自分は近づいただけで大泣きされてしまったと言うのに。
「鬼太郎、ワシのお仕事は終わったからこちらへおいで。水木は鬼太郎のまんまを作っている途中じゃからな」
「イヤ!」
旦那が手を伸ばすと、赤ん坊が顔を背けてまた必死に目の前の人間に縋り付いた。
「なんでじゃあ、鬼太郎」
それに旦那が悲しげな声を出せば、人間が勝ち誇った様に、可笑しそうに笑う。
「悪いな、ゲゲ郎」
「くぅぅぅ、水木め!」
旦那がガバリと赤ん坊を抱く人間の腹に腕を回して抱き上げて、そのままグルグルとその場を回り始めた。振り回された人間が声を上げる、
「うわああああ、こら、やめろ!!ゲゲ郎!!目が回るだろ!!おろせ、おろせ!」
「この悔しさ晴らすまでやめんぞ!!」
聞き入れるどころか、さらに速く回ると赤ん坊から歓声が上がる。
「きゃーーーー!!」
「どうじゃ、鬼太郎、楽しいか!?」
「バカ!本当に!吐きそうなんだよ!!」
「仕方ないのう」
必死の叫びにやっと動きが止まる。今度は旦那が勝ち誇ったように笑って、グルグルと目を回している人間に言う。
「まいったか」
「……まいりました……」
悔しそうにする人間を抱き締めたまま、その人間の腕の中でケラケラと喜ぶ赤ん坊と同じような顔で、酒の席でも見たことない楽しげな顔で旦那が笑っていた。こんな少年のような顔をすることがあるのか。
人間の目線が定まってきても、旦那の腕は解かれない。それどころか先ほどより密着しているように見える。長い腕に包まれてくたりと旦那に寄りかかったままの人間は、呆れたような、でも楽しそうな顔で旦那を見上げていた。
旦那と人間と、赤ん坊。
穏やかで完璧な三人だけの世界。
同じ部屋にいるのに、数歩歩けば三人に届くところにいるのに、あたしだけ別の世界からこの光景を覗いて見ているようで。
苦しくなった胸を着物の上から抑える。ここにいるのが奥方なら、あの奥方ならきっとこんな風にならなかった。人間のくせに、人間なのに、人間なんかが、何でそこにいるのよ。
どれだけ恨めしく見ていても、ふたりはあたしの視線に気づかない。赤ん坊が腹が減ったと泣き出すまで、隙間なくべったりとくっつきあっていた。
「はいどうぞ。口に合いそうなら食ってくれ」
差し出されたのは油揚げの乗ったうどん。きつねうどん。上手く化けられる様になった頃、父ちゃんが連れて行ってくれてた人間の蕎麦屋で食べたことがある。すごく美味しかった。でも、目の前の、この憎たらしい人間が作って差し出してきたものだと思うと食べたくない。
「いらない、あんたが、人間が作ったものなんて食べたくない」
そう言って丼を遠ざけると、冷たく厳しい声が飛んできた。
「お嬢さん、それはあんまりじゃ。これはお主のためにと水木がわざわざ作ってくれたもの。その言い方は見逃せん。水木に詫びて頂きたい」
有無を言わせない声色だった。その迫力に身がすくむ。
「……はい……。すみませんでした」
泣きそうになりながら何とか絞り出す。いつも穏やかだった旦那にこんなふうに叱られてしまうと思わなかった。そして何よりも、旦那がすぐにこの人間を庇ったことが悲しかった。目に溜まる涙を誤魔化して、人間にも小さく謝れば、肩をすくめてため息をつかれた。その仕草にも腹が立ったし悔しかったが、それを表に出せばまた旦那に叱られるだろう。
この水木という人間は旦那の何なのだ。
旦那が身内の様に扱って振る舞って、大事にしていて。旦那の子に懐かれて、その子を可愛がっていて。
――まるで旦那と所帯を持っているみたい――
何を馬鹿なと頭を振る。砂かけだって旦那の「無二の親友」だと言っていた。その親友と暮らし共に子どもを育てているのだから、家族のように見えるのは当たり前のことだろう。
気がけばふたりはこちらなんて一切見ていなかった。短く切ったうどんを一生懸命に啜る坊ちゃんを、ふたりして「上手、上手」と誉めそやしながら蕩けそうな目で見守っている。蚊帳の外の気分でそれを眺めているとふとこちらを見た水木が言った。
「何も食べてない子の前で俺たちだけ食べるというのは気が引ける。一口だけでも食べてくれないか?」
……そこまで言うなら仕方ない。旦那の手前、渋々頷いた。断じて出汁の匂いに腹の虫が鳴ったからじゃない。そう心の内で言い訳をしながら油揚げにかぶりつく。……美味しい。
気がついたら丼の中身は空っぽになってしまった。見栄があっさり食欲に負けた……。屈辱ではあったが一応の礼儀として「ごちそうさまでした」と小さく伝えたら、「お粗末さま」と旦那からも水木からも、坊ちゃんに向けるような笑顔で返された。
三人が買い出しを兼ねて腹ごなしの散歩に行くというので、きちんと人間に化け直し、耳も尻尾もしっかり隠して着いていく。
「見事なもんじゃ」
旦那に褒めらて嬉しくなる。こんなことも簡単にできるようになった、あたしもう大人になったのよと言いたかった。でもその浮かれた気持ちは旦那の次の一言であっさり萎んでしまう。
「初めてお主に会ったのはお主のお父上に誘われた河童の相撲大会の観戦じゃったものな。もう何十年も前のこと。こうやって成長もするはずじゃ」
そんな。違うよ、旦那。忘れてしまったの?あの雪の日のこと。小さかったあたしを助けてくれた日のこと。あたしが旦那に初めて会った日のこと。あの出来事は、あたしにとって衝撃的で大切な思い出だった。でもそうだったのはあたしだけ。旦那にとっては覚えてもいないくらいの些細な出来事だったのだ。
今ももう旦那の視線はこちらにはない。息子と息子を挟んで手を繋ぐ男にだけ注がれていた。
気分はどん底だったけれど途中で帰る訳にもいかず仕方なく三人に着いていく。しかし、民家の路地裏を抜けて、ごちゃごちゃとした商店街の中に入るともうとにかく必死で、落ち込んでいる暇もなかった。旦那たちを人混みの中で見失わないようにしつつ、こんなに大勢の人間がいる前で術が解けないようにと気を張り続ける。水木の家に戻れた頃にはもうクタクタだった。
あまりに疲れていて、術どころか、人型すら保てず、子どものころに戻ったみたいにただの狐と変わらぬ姿になってしまった。思えば山の家を出てから丸二日もほとんど休まずだったので、こうなるのも仕方がない。そのまま居間の隅で丸くなっていると、坊ちゃんが近づいてきた。ニコニコと笑って、ふくふくとした手で頭を撫でてくれる。好きにさせつつ、もしかしたら慣れてくれたのかもと淡く期待をした。けれども少し休んで人型に戻ればまた近づくだけで泣かれる。やはり動物に触りたかっただけで、懐いてくれたわけではないらしい。狐姿の時だけ好かれても何の意味もないのにね。
家を出てくる時に溢れていた期待や自信はここ数時間でほとんどなくなってしまっていた。
買い出ししてきた惣菜が並ぶ食卓。山奥では見慣れない食べ物がたくさんあった。今度こそ見栄を張りたい気持ちもあったけど、好奇心に負けて箸をつける。どれもこれも美味しくて夢中になって食べてしまった。ふと我に返って、おそるおそる旦那と水木を見る。やはりふたりはこちらを気にするそぶりもないが今回ばかりはありがたかった。見られていたとしたら昼飯の時同様恥をかいた。何事もなかったようにして、気取ったふうに箸を進めつつ、ふたりを盗み見る。
「ゲゲ郎、これ半分やる」
「おお!良いのか!?」
水木が自分の皿からおかずをとって旦那の皿に移すと、旦那は満面の笑みを浮かべ早速それに箸をつけ始めた。その様子を碧い瞳を柔らかく細めて水木が見ている。
「美味いのう。あそこの店はこのコロッケが一番美味い」
「本当に幸せそうに食うよな、お前」
「そういうワシの姿が好きなんじゃろう、お主は」
「よくいうぜ。全く……」
「ほら、お返しじゃ。アーン」
今度は旦那が箸でおかずを摘んで差し出すのを水木は戸惑いなくそのまま口に入れた。
「すぐ飲み込むでないぞ。ゆっくり食うんじゃよ」
「わかってるよ」
モゴモゴと咀嚼しながら不貞腐れたように返事をする水木の少し膨れた丸い頬を、旦那の長い指がするりと撫でる。
食べさせたものをごくりと嚥下しても、旦那の視線はずっと水木に注がれていた。その眼差しは過去に奥方に向けていたものと似ている。でもあの春の日差しのようなものとは少し違っていて……。
そこには背筋がゾワリとするような、湿った熱っぽさが浮かんでいた。
……まさか。
女の勘はよく当たる。母ちゃんの口癖が頭をよぎる。
いや、まさか。