猫の九つ むかしむかしの遠いある日、とある御山のとある祠に一匹の狐が住みつきました。
狐は陽の光を織ったような金色の毛並みをした珍しい一匹でしたが、不思議と狩りをする里の衆の目に留まりません。それもそのはず、狐はただの狐ではなく百を生きた妖の狐だったのです。
しかしその長い獣の生の中、何度も何度も狙われてきた彼は人間を恐ろしいものだと認識しており、妖として生まれ直してからも人里には立ち入ろうとしませんでした。
狩りをする人間にさえその身を見せなければ、長くを生きた彼の知恵には大きな熊や狼、鷹さえも簡単には近づけません。
そうしているうちに狐は更に歳を重ね、いつからか御山の主のような立場になっておりました。
とは言え狐は御山の動物達を率いるわけではなく、人の領域には近づくな、と言い聞かせるだけ。初めは御山を広げてくれるのでは、なんて勝手な期待をしていたものもおりましたが、十年、二十年と経つうちにいつしかいなくなっていきました。
狐は野山を駆け回り、子供が生まれたものの巣に実を届け、増えすぎた虫を減らし、減りすぎたものを守りました。
居心地の良い山には動物が増えましたが、増えれば当然人間に見つかります。けれど狐は相変わらず、人には全く近づきません。
増えたのならば、減るのがさだめ。人が捕りすぎたりしない限り、狐は何かをするつもりはありませんでした。
そんな山の主――と言うよりは管理人のような事を続けていた狐の前に、ある日馴染みの狸がやって来ました。
彼もまた妖で、若い頃の狐とちょっとばかりコャコャポンポンやりあったこともありますが、今ではそれなりに仲の良い相手です。
「いきなり何だよマフツ。厄介事はいらねーぞ」
「大丈夫だよシシガミさん。今日は紹介したいのがいるんだ」
そう言って狸が示した先には、すらりとした黒い毛並みの猫が一匹。頭のあたりの毛が少し長くて、真っ赤な目をした不思議な猫がいました。
「何だこのチビ」
「チビではない」
「うわ、喋った。何だコイツも妖か?」
「今はなりかけかな。ほら、尻尾の先が割れてきてるでしょう」
言われてみればと狐が見れば、確かに猫の尻尾の先が二又に分かれかけて来ています。
とは言えしかし、化け狐のもとに化け猫を連れて来てどうするのか、と狐は首を傾げました。猫は、どちらかと言えば人間のそばで生きているものです。狐の中でも人嫌いの彼とは、特に違っているでしょう。
何なんだ、と狐が考え込んでいると、猫は急に距離を詰めてきました。思ったより目つきの悪い、生意気そうな顔をしています。
「な、何だよ」
「あなたとつがいになりに来た」
「へ?」
「あなたとつがいになりに来た」
「聞こえてるわ! 一人で山彦すんな!」
先と寸分違わぬ声で言う猫に狐が声を上げると、ふふふ、と狸は笑って目を細めました。
「仔猫の時にシシガミさんをたまたま見かけて、一目惚れしたんだって」
「はぁ?」
思わぬ一言に、たまらず声がひっくり返った狐が一匹。
つがいになりたいと言われたって、目の前の生き物はどう見たって狐ではなく猫。しかも、声の様子からして雄でしょう。
群れの中でそういった奴が出てくることはあっても、狐自身にそんな気持ちはありません。
ううん、ううん、と狐が悩んでいるうちに、鼻先に猫はぴたりと顔をくっつけてきます。少しいい匂いがしました。
「……若気の至りだろ」
「失敬な。猫の九つ賭けてでもあなたとつがうと宣言する」
「あ、賭け事? ボクもやりたい」
「やめろバカ」
ぴん、と長い尻尾を立たせての自信満々な宣言に、狐は深くため息をひとつ。
もうすぐ猫又ということは、狐よりはずっと年下なのです。そんな若い猫の気の迷いを、真正面から否定するのは気が引けました。
うんうん悩んでいる間も、猫は構わず狐にぴとり。狸も面白がって混ざろうとしましたが、猫の前足におでこを押さえられました。
「お前が自分でそう言うならオレは止めねーよ。でも、オレがその気になるかは別の話だ」
「分かっている。勝算のない真似はしない」
「本当に分かってんのか?」
相変わらずな猫の反応に、狐はまあいいか、と諦めることにしました。何をするつもりなのかは分かりませんが、少なくとも攻撃されるようなことはないでしょう。
山の主をするようになってから、狐は他の動物にもよく懐かれるのです。それと同じだと思えば、じゃれついてくるのも可愛らしいもの。
長く生きたからこそ、胸を貸してやるべきだ。そんな事を考えていた狐のそばに、狸がススス、と近づいてきます。
「シシガミさん、若い猫だからって甘く見てるでしょ」
「……見てねーよ」
「気をつけたほうがいいよ。目的の為なら、毛皮を着替えるのにも躊躇がないから」
「毛皮……?」
「うるさいぞマヌケ」
こそこそと話しかけてきた狸の言葉がよく分からず、狐は首を傾げます。
まあるい赤い目を歪めながら狸に向けて口を開く猫は妖になりかけの普通の猫にしか見えません。毛皮を着替える、と言うのはどういうことなのでしょう。
猫のねぐらはやはり人里の方にあるらしく、また来る、と宣言して帰って行きました。
にこにこと楽しそうな狸を放っていつも通りの日常に狐は戻りましたが、その次の日から、おおよそ五日ほどあけて猫は祠にやってくるようになりました。
何をするでもなくそばにいることもあれば、鳥なんかを狩って持ってくることもあります。
狐は初めこそ落ち着かない気持ちでいましたが、いつからか猫が来るのを待ってしまうようになりました。つがいだなんだの話は別として、猫は話していて楽しい猫だったのです。
しかしある日、猫はなかなか二又に分かれない尻尾を揺らしてこう言いました。
「この毛皮も、どうやら猫又には辿り着けないようだ」
「……別に、猫又にならなくたっていいじゃねーか」
「それではいけない。猫のままではいずれ、猫の寿命がきてしまう。私はもうかなりの歳だ」
猫の黒い毛には確かに最近ちらほらと白い毛が混じってきています。なりかけにまで辿り着いたおかげか足腰はまだ元気ですが、雨が降ると少し辛そうにしています。
猫は狐の頬に頭を擦り付け、ふかふかの尻尾に自分の尻尾を絡ませました。どこか不安げな顔をした狐に、猫はなんてことのない話をする声で話します。
「少しの間留守にする。乳飲み子のままではあなたのもとに辿り着けないから、半年……いや、一年ほどは来られない」
「乳飲み子って、いや、おまえ」
「大丈夫だ、シシガミ。すぐに帰ってくる」
鼻の先を一度ちょんと触れ合わせてから、猫は去っていきました。祠に残された狐はぽかんとしたまま、秋も半ばに差し掛かった山を眺めます。
秋が終われば春が来て、また山は賑わっていくでしょう。新たな仔が生まれて、育っていくのでしょう。
どうしようもない胸騒ぎを抱えたまま。
狐はひとり、今までと同じように冬を越えました。