なんでもない日の君と 仕事を終えてから家に来た村雨をいつも通りに出迎えて、ただいま、なんて言う彼をおかえり、と笑いながら招き入れた。
キスとハグはいつも通り手洗いとうがいを済ませてから。リビングに戻ってくるなり両腕を広げて、ん、とスキンシップをせがんでくる彼を、コンロの火を止めてから抱きしめに行くまでがいつもの流れだ。
これは最近だと真経津達がいてもお構いなしのルーティンになっていて、二人きりの時だけこの後にキスが入る。頬だったり、唇だったり、耳だったり。その時の彼の気分によって違うキスを受け止めてからそれに応えるのが、オレの好きな流れだった。
「今日のメニューを聞いても?」
「今日はエビチリと中華スープ。棒棒鶏とナムルも用意してあるぜ」
「あなたの料理を食べていると、そのうちどのレストランに行っても物足りない舌になってしまいそうだな」
「褒めてもデザートの杏仁豆腐しか出てこねーぞ」
ふふと笑う彼を離し、あと少しだった料理の仕上げをするためにキッチンに戻る。
今日のメニューなんて、彼の嗅覚にかかれば言わずとも玄関に来た時点で筒抜けになっているだろう。それでも毎回こうして聞いてくるのは、彼なりの甘えであり、オレを甘えさせてくれているのかもしれないな、と思う。
「そうだ。飯、チャーハンにするか? お前が来てから選んでもらおうと思ってさ」
「いや、今日は白飯のままでいい。海老を乗せて食う」
了解、と答えつつ、食器棚から彼の茶碗を取り出して米をよそっていく。マグカップや箸なんかはいつの間にかいつもの面々のぶんが揃ってしまっていたが、茶碗に関しては村雨のものだけだ。
よく食べに来るから、なんて理由をつけてはみたが、揃いの物がもう一つ棚の奥に存在しているのは彼等にもバレているだろう。彼等の前で使うことが無いだけで、別に隠しているわけではない。
「どーぞ」
「ありがとう」
最後の皿をテーブルの上に並べ終えて向かいの席に腰を下ろすと、いただきます、と彼は静かに手を合わせてから口にした。一般的な成人男性の夕食よりもいくらか多い量が並ぶテーブルと、そこに箸をのばす彼を見つめてオレは緩む口元を隠しもせずに笑う。
丁寧な箸さばきで黙々と彼の口に運ばれていく料理は、何処かの料理人が作ったものではなく、オレが作ったものだ。それがどうにも嬉しくて、つい見つめてしまう。
普通こんなに見つめられていたら気になってしまうだろうに、彼はオレを止めたりはしない。しっかりと噛んでから飲み込んで、いつものリズムで食べ進めていく。その合間にオレの方を見て、美味しいと言ってくれるのだ。なんと言うか、こう。 ぐっと来るものがある。
「困ったな。あなたに胃袋を掴まれすぎている」
「オレの飯以外じゃ満足出来ないって?」
「そうなるのも時間の問題だろう」
「そりゃ良い事聞いた。 もっとレパートリー増やしとくか」
そんな軽口を交わしながらも食事は進んで、食べ終わりに彼は必ずごちそうさま、と言う。米粒ひとつ残っていない皿をその言葉と共に受け取って、オレはまたじわりとこみ上げてくる喜びに唇を緩ませるのだ。
——何でもないことだろう、そんな一瞬がオレはうれしい。
二人で今日の事をあれこれ話しながら片付けて、その間に湯を張っておいた浴室に足を向ける。二人で一緒に入る日もあれば、別々の時もある。オレが先にシャワーを済ませている日も勿論ある。今日はたまたま、一緒に入りたい日だっただけだ。
二人分のタオルと寝間着を脱衣所に用意して、服を脱ぐ。そういう雰囲気になることもあるが、今日はならない気がする。 ただの勘だが、こういう時は不思議とよく当たるのだ。
湯船こそオレがゆったり入れるようにと買ったものの、浴室自体はそう広々としたものでもない。一般的な一戸建てよりも少し広い、と言うくらいだろうか。
「獅子神、座れ」
「へいへい」
今日はされるよりもする気分だった彼に座らされて、丁度よく調節された湯を上からかけられる。洗うのも洗われるのも、その時々だ。
全力で甘えに来る時は完全に身を任せてくるので、大抵はオレの体がスポンジ代わりだし、そのまま盛りあがって一回抜いたりもする。
今度マットでも買うか、と冗談混じりに口にしたら、色はどうする、と返ってきた。マジかよと笑ったら、いつもの顔でマジだ。と返された。今度二人で選ぶことになっている。
まあるく整えられた爪の並ぶ彼の指に丁寧に洗髪されて、トリートメントまですすぎ終わってから額にキスが降ってくる。
「交代?」
「ああ」
眼鏡のレンズを挟んでいない彼の目を見上げて問いかけ、もう一度優しいキスを受けてから立ち上がって入れ替わる。
何度もこうして一緒に入浴していて今更なのだが、この男の髪がどうなっているのかは未だによく分かっていない。このカラーリングと髪型を作り上げているプロ、本当に凄いと思う。
しっかりとした手触りの彼の髪を洗うのに、本来はオレのシャンプーを使うのは良くないのかもしれない。
カラーリングのこともあるし、自宅で使っているものと同じものを置いておくか、と尋ねたこともある。まあ、然程こだわりはないので別にいい、で話は終わってしまったのだけれども。
彼がしてくれたのと同じようにシャンプーとトリートメントを済ませてから、彼の頭を抱くように後ろから腕を回した。濡れたこめかみに軽くキスをすると、笑って頬を撫でられる。
「こっちはどうする?」
「今日はいい。冷えないように先に洗ってしまえ」
「へーい」
細くはあるが決して薄くはない胸板を撫でて問いかけると、首を横に振られた。キスやスキンシップはあるが、今日はそういう気分ではないらしい。まあ、オレも特に準備をしていたわけではないのでお互い様ではあるのだが。
場所を交代してボディタオルで体を洗い始めると、彼は湯船のへりに腰かけて軽く腕を伸ばし始めた。少し眉を寄せて肩を回すと、こき、と小さな音がする。
「寝る前に軽くマッサージでもしてやろうか」
「……あなた、何でも出来るのだな」
「いや、トレーニングの一環っつーか……。ストレッチの事のついでに調べた事あるからさ」
「言葉に甘えさせてもらおう。今日は少し、疲れが溜まっている気がする」
そう言いつつ、背を擦ろうとしたオレの手から彼はボディタオルを奪っていく。そのまま丁度いい具合で背中を擦られて、思わず、あー、と声が溢れた。くく、と笑う声がするが、文句を言うものでもないのでそのまま彼の手に背を任せておく。
首の裏や腰を擦られるのは少しばかりくすぐったかったが、まあ、その気が無い時の動きなら十分堪えられた。これが彼に少しでもその気がある時だと、本当に堪える間もなくあれこれ言わされてしまうので、非常に分かりやすい。
しばらくして、後ろからタオルが返ってきたのを受け取った。自分の体にまとわりついた泡を流すついでに振り向いて彼の手の泡を流してやると、ちゅ、と鼻の頭にキスが降ってくる。
する気は無くてもこういった甘い仕草が出来る、と言うのもなかなか凄いのではないだろうか。もしかしたら、彼の素なのかもしれないけれど。
「先生サンキュ。オレもやってやろーか」
「体が冷えないうちに湯に入っていろ。それに、背中を抉られるのはあなたの爪を立てられた時だけで十分だ」
「タオルで擦ったくらいで削げたりしねーし、爪も毎回切ってるっての」
「冗談だ」
どけ、と言わんばかりに寄ってきた彼に場所をあけ渡し、促されるままに湯船の中へ足を踏み入れた。ゆっくりと座ると、オレが入ったぶんだけ水位が上がっていく。当然のことであるそれが、何だか面白い。いつもはシャワーで済ませてしまうので、物珍しいのかもしれない。
湯船のへりに腕を乗せて、どんどん泡まみれになっていく彼の様子を眺めていた。初めて会った時は彼の異質さばかりが目についたが、いつの間にかこんな姿を見られるような距離にまで辿りついてしまった。人生何があるか、本当に分からない。
細身ではあるものの、ちゃんと成人男性らしい体つきをしていることだとか、眼鏡を外すと悪い目つきが更に酷くなることだとか。汗で濡れた髪と洗いたての髪は、随分と違うことだとか。
何故か知ってしまった彼の内側に、オレはまだ慣れきっていない。
「あまり見つめられると、そこから穴が空いてしまいそうだな」
「仕方ないだろ。惚れた男が目の前にいるんだから」
「言うようになったな」
ふふ、と笑ってから彼は泡を流し、周囲へ飛んだ泡がないか見回して流してから湯を止めた。裸眼の彼が見えているとは思えないのだが、不思議と彼の目視は正確だ。
湯船に入ってくる彼の場所をあけようと膝を立てると、湯からとび出した膝を掴まれる。その時点で何がしたいのかは分かったので、緩く押されるがままに足を開いた。
足の間に収まるように——実際、全く収まってはいないのだが——彼は背を向けて座り、そのまま寄りかかってきた。ざあっと溢れた湯が流れていって、ふちのぎりぎりのところで止まったぶんが、水面の揺れに合わせて流れ出す。
いい年の男が二人して、何をしているんだろうか。けれど、案外悪くない。
「せんせーのえっち」
「足を曲げて窮屈に収まるより、効率がいいだろう」
「だからって裸で足開かせようとすんなよな」
「いいだろう、私になら」
「それはまあ、そう」
同じ匂いのする髪をオレの体に擦りつけて、彼はゆっくりと息を吐いた。それと同時に触れてきていた体から感じる重さが少し増して、力を抜いてくれているのだ、とオレに感じさせる。
何をするでもなく、こうして彼と二人、静かに過ごす時間が好きだった。何をしていても、していなくても。このひとはオレを愛していてくれるのだ、と知ったときから。
無償の愛と言うやつだろうか。いや、そんな優しいおとこではない。彼はオレの中の何がしかを彼のために整えていて、オレは彼のそばにいるのに都合がいいからそれを受け入れている。利害の一致、と言うやつだ。そうに違いない。
そんなどうでもいいことを考えていてもいい、と思える程度には、オレは彼に対して心を預けられているのだろう。
「明日は天気が良いらしい。何処か出かけるか」
「そうだなあ。ゆっくり寝て起きて、いい気分だったらドライブでもすっか」
「運転は?」
「交代。目的地ごとでもいいぜ」
彼の体を挟むように伸ばしている手足を、白い指先が軽く撫でていく。いやらしさはなく、ただ少しだけくすぐったい。肩に頭を押しつけるようにして此方を向いた彼に口付けると、ふふ、と愉快そうに笑った。
湯の中から持ち上がった手がオレの首にかかり、わしわしと後頭部を撫でてくる。
ちゅ、と音が浴室の中で響いた。湯で温められて、いつもより血色のいい顔をした彼がオレの腕の中でくつろいでいる。それがどうにも、愛しい。
「村雨」
「何だ」
少し考えてから、なんでもない、と答えると彼は肩を揺らして笑った。そのまま再びオレの頭を撫でて、キスをして、何を言うわけでもなく見つめ合う。彼は、オレの無駄も受け止めてくれる。
何も無いなら話しかけるなと——仮に用があっても聞いてくれはしないのに——怒鳴りつけたりはしない。
ほっと息を吐いたオレの唇を、その吐息ごと彼は食んでくれる。オレは彼に愛されている。濃い隈を飼っている目を覗きこめば、それで十分理解出来てしまうくらいに強く、深くまで。
ぎゅう、と一度強く彼を抱きしめてから、そろそろ上がる、と伝えた。寄りかかってきていた彼はすんなりと足元のほうに移動してくれたので、そのままざばあと音をさせて立ち上がる。
人一人ぶんの質量が減れば当然、上がっていた水面の位置も元に戻る。
「あなたは本当に逞しい男だな」
「あ?」
急にどうした、と思いながらシャワーを片手に振り返ると、すっかり湯量の減ってしまった湯船の中で彼が足を組んで座っていた。風呂としての体裁を保てていない、とまでは言わないが、ついさっきまでなみなみとしていた場所と同じとは到底思えないだろう。
そんな中に座って、彼は穏やかにオレに視線を向けている。普段見るレンズ越しのそれとはまた違う、少し見づらそうに細められた眼差しで。
「……たっぷりあった方が嬉しいだろ、オレの質量も」
ぽつりとそう呟けば、違いない、と答えた彼は湯船のへりに腕を乗せ、幸せそうに笑っていた。