春コミ新刊サンプル カツン、カツン、と廊下を歩く自分の向こう側から誰かが向かってくる気配に、シライは視線を向けた。その瞬間、まさに雷が落ちたかのような衝撃がシライを襲った。息も忘れ、自分の方へ向かってくる女性から視線が離せない。長い水色の髪に、右側につけた眼帯は巻戻士の証だ。かっちりとしたスーツではなく、柔らかな曲線を描くワンピースを着ているからきっと非番だったのだろう。
その姿に何か不審な点があったわけではない。ただ、ただ、突如被雷した衝撃に動けなくなった。
走ってもいないのにドクドクと高鳴る心拍数を抑えつけて、シライは呆然と呟いていた。
「かわいい……」
隣に浮かぶクロホンが「はぁ!?」と驚愕の声を上げたのも耳に入らないまま、シライはその女性を見つめた。その一瞬一瞬がスローモーションのように動き、蛍光灯に照らされた廊下が眩しいくらいに輝いて見える。
ふわりとなびく髪がシライの横を通り過ぎていく。シャンプーに混じった花の匂いが鼻腔をくすぐった。
咄嗟に、過ぎ去っていく彼女の腕を掴んだ。
「え」
引き留められたことに、その人は大きく目を見開きながらこちらに振り向く。視線に、自分が写り込む。歓喜に胸が打ち震えた興奮のまま、シライは震える声で言った。
「連絡先、交換してもいいか?」
*******
夕暮れの差し込む執務室で、空と同じ様にたそがれている男が一人いた。シライである。
物憂げな溜息が一つ、こぼれる。視線はどこか遠くを見つめ、まさに心ここにあらずの様子だ。 ペンは握られているものの、その手が動く様子はなく。書類の山は今朝から一枚たりとも減ってはいなかった。
扉を開けてから変わらないどころか、こちらの存在に気がついていないような態度をとるシライに、クロノとアカバとレモンは、不審な目を向けた。
「おじさん、この間の任務の報告書持ってきたよ」
「おー……」
「シライさん!この後、わしと特訓をしましょう!」
「わかった」
「シライ、隊長から今日が期限の申請書を早く出せと催促が来ているわ」
「そうだな」
上の空な返答に、三人は顔を見合わせた。
「おじさん、どうしちゃったんだろ……」
「何か深刻そうな顔をしておるが……」
「様子を見ていても仕方がないわ。それに見て、シライの様子」
レモンの言葉に促され、シライに視線をやればまた一つ、深い溜息を吐いていた。あからさまに物憂げな様子を浮かべるシライは極めて稀だ。自分たちにもわかるようにわざとしていることだけが少し引っかかるが、悩みがそれだけ大きいのかもしれない。
「たしかにあんなおじさん見たことない。心配だな……」
「ここは話を聞くのが最良の最短ルートでしょうね。それに、このままじゃシライの仕事も進まないわ」
「そうと決まれば!シライさん、わしで良ければお話を聞きます!!」
胸を張りながら「ドーンとなんでも相談して下さい!」と豪語したアカバに続くように、クロノは真剣な表情でうんうん、と頷く。ただ一人、レモンだけが冷静な表情を崩さずにジッとシライを見つめていたが、話を聞く姿勢になっているのは一目瞭然だった。
「お前ら……」
自分を思いやる三人の姿に、シライは目頭が熱くなったのを感じた。ジン……と胸に響き渡る感情を嚙みしめるように俯いた次の瞬間。
ガチャリと鍵の閉まる音が響いた。
「え?」
「は?」
「いつの間に……」
目にもとまらぬ速さでクロノたちが入ってきた扉を閉めたシライはニッコリと怪しげな笑みを浮かべる。
「話を聞かないってのは、なしだからな」
退路を断たれた現状に、藪蛇だったか……と内心で後悔しながら三人は「わかった」と頷いたのだった。
「一目惚れした」
お茶だけでなく、茶請けのケーキまで出されてじっくりと話を聞く態勢を整えたところで、開口一番に飛び出た言葉に三人は「は?」と首を傾げた。
「一目惚れって、このケーキに?」
「これは隊長が客用に買ってきたのを拝借してきたやつだ」
「それは拝借とは言わないわ。窃盗よ」
「食べたお前らも共犯だな」
「シライさんと……共犯……!」
「アカバ、冷静になれ。主犯どころか、悪いのはおじさんだけだから」
「シライさんが悪いわけないじゃろうが!!」
わちゃわちゃと開幕から話がそれてしまった現状を見ながら、レモンは「それで」とシライに続きを促した。
「相手は?」
「知らねぇ」
きっぱりと言い切ったシライの態度に、三人はポカンと口を開けた。
「知らないって……誰かもわからない相手に一目惚れしたの?」
「少なくとも顔と所属している組織はわかってる」
クロノの怪訝そうな言葉に、シライは少々悩まし気な表情を浮かべながら言葉を返す。レモンは、少し考えこむ様子を見せた後、シライに視線を向けた。
「じゃあ完全に知らない人というわけではないのね。それで、どこの人なの?」
「巻戻士」
「は?」
端的に返したシライの言葉に、またしても揃って首を傾げた三人に「だから、本部に所属している巻戻士だってのはわかってる」とシライは眉間に皺を寄せながら答えた。
それに首を傾げたのはクロノだ。
「なんでそんなことわかったの?」
「その人に出会ったのは本部の廊下でな……そんな場所で眼帯を付けているのは十中八九、巻戻士しかいないだろ」
トントン、と自身の右目を指差すシライに、クロノとアカバは感心したように声を出した。
「そう。なら、後は資料を確認すればいいだけね」
出されたお茶を傾けながら、レモンは淡々と語る。しかし、その言葉にシライは渋い顔を向けた。
「それは……まぁ、そうなんだが……」
不自然に口籠るシライに、クロノはサッと顔色を変えて立ち上がった。
「もしかしてスパイだったとか……!?」
「それはないから安心していい。チャイヌの件で今まで以上に厳しくなってるからな」
安心させるように手をひらひらとさせたシライは「それに」と言葉を続けた。
「クロホンに頼んで、どの階級の巻戻士とか、裏はないかとか……まぁ色々と確認はしてもらっている」
「流石シライさんじゃ!相手の身辺調査までしっかりと終えているとはのう!」
「で、そこまでしておいて何で口篭もったの?」
「それは……その……」
またしても、何かに躊躇するように言葉を詰まらせるシライに、クロノは身を乗りだした。
「言ってよ、おじさん」
口よりも雄弁な目がシライを見透かすように見つめる。その視線の強さにシライは観念したかのように目を伏せると、ポツリ、ポツリと口を開いた。
「一方的に相手のこと知っているのを知られたら……気持ち悪がられるかもしれないだろ」
部屋の中に奇妙な静寂が訪れる。数拍置いた後、シライの純情な少女のような理由を理解した三人は、深いため息を付いた。
「そうだったのか。確かに、相手に嫌われたら本末転倒だもんな」
「貴方……相手のことをそこまで思いやれる気持ちがあったのね」
「シライさんは、紳士じゃのう!」
「その生暖かい視線を辞めろ! 仕方ないだろ……勢いで話しかけたのに結局、連絡先を交換できずに別れちまったんだから……」
意気消沈するシライは、今まで見たことがないレベルで落ち込んでいる。これは相当本気だな、と理解した三人は、改めてシライに向き直った。
「それで、プライベート情報を手に入れられてるのに見ることが出来ないわけね」
「まぁ、おじさん。元気だしなって」
「そうじゃ! 一目惚れとはいえ、シライさんはお相手のどんなところに惚れたんですか?」
「そうだな……改めて出会いを説明するか。とはいっても、出会いと言えるほどの話じゃないんだがな」
シライは手に持ったフォークをケーキを切り取りながら、普段よりも饒舌に語りだした。
「さっきも言ったが、出会ったのは本部の廊下でな。彼女が走ってきたのを見た瞬間、衝撃的だった……あんなに可愛い人がいてもいいんだろうか。いや、実際にいるんだからいていいに決まってる! もしダメならあの人は天使に決まってるなんて思わず真剣に考えちまったくらいだ」
「そんなに可愛かったのね」
適当なレモンの相槌に、うんうんと頷きながら、クロノは、シライがそこまで言う相手はどんな人なんだろうと少し気になった。
――でも、おじさんはよく店員さんにも可愛いと言っては失恋してるしな。きっとその人にも恋人がいるくらい可愛いんだろうな~
なんてことをチラリと考えながら、話の続きを待つとシライは大真面目な顏を浮かべた。
「可愛すぎるなんてもんじゃなかったぞ! 焼けすぎても白すぎてもいない健康的な肌に、大きな目。ちょっと瞳孔が小さめだったけど、そこも愛嬌があってグッときた」
「へ~……」
長々とシライが語りだした容姿を頭の中に浮かべていく。瞳孔小さめで愛嬌があるってどんな顔だろうか。
「それにサラサラと指通りの良さそうな水色の長髪に、ふわりとなびく白いワンピースがよく似合っていてな……ヒールのある靴を履いていたが……アレは、だいたいクロノと同じくらいの身長だろうな」
「え?」
シライの言葉に、思わずクロノが呆けた声を上げた瞬間。両足を左右から思いきり踏まれ、声にならない悲鳴を上げるクロノに、さらに両隣から無言の圧が掛かる。
「どうした? クロノ」
ブンブンと首を横に振りながら「な、何でもない。続けて」とクロノは必死に笑顔を取り繕った。そんなクロノの様子に首を傾げながらも、シライは気を取り直したように言葉を続けた。
「変な奴だな。まぁ、いい。続けるぞ……後は、少しだけ話したんだが、声も良かった。高すぎない聞き取りやすいアルトボイスでな、出来ればずっと聞いていたかった」
その時のことを思い返しているのか、シライは夢見心地のままうっとりと熱いため息を吐く。かと思えば情緒不安定に「でも、すぐにどこか行っちまったんだよな……」と、どんよりと重い空気を背負った。
「そんなに連絡先が交換できなかったことがショックだったのね」
「そのうちまた会えますよ!元気出してください!」
明るいアカバの励ましの言葉が、どこか無責任に響く。それでも、シライは気を取り直したのか、力なく頷いた。
「そうだな……そのうち、また……そう思ってもう一週間も経っているけど、諦めなければ……」
「今のおじさんにポジティブな言葉は逆効果みたいだな」
ジメジメとしながら「あの時にリトライできればどんなに良かったか!」と悔しがるシライは本気で悔しそうだ。
「どうにかして、もう一度だけでいい! 俺は彼女に会いたい! 出来ればデートしたい!」
慎ましやかな態度に見せかけながら、ちょっとばかり本音を見せるシライの姿に三人は顔を見合わせた。重病だ。恋の病に聞く薬はない。
心配して損した。このケーキを食べ終わったら解散しよう。こそこそと話あっていると、突如、ドン、と机を叩く音にピタリと三人は動きを止めた。恐る恐る音の発生源を見れば、シライが据わった目でこちらを見ていた。
嫌な予感に、ゴクリと誰かの喉が鳴った。
「頼む! このまま一人で探し続けるのも限界だ。かといって個人情報をプライベートの為に勝手覗いて嫌われるようなこともしたくない。ついでにそんなことしたら隊長にしばかれる!」
「隊長にしばかれるのはついでじゃないと思うわ」
「どうにかして合法的に連絡先が知りたい! お前たちにしか頼めないんだ……!」
「わ、わしにしか頼めない……!? シライさんがわしを頼りにして……!?」
「落ち着いて、アカバ。誰にでも言っている言葉よ」
「師匠命令だ。任務に支障がないように彼女を探せ」
「横暴だよ、おじさん!」
ケーキを食べながら「とにかくこれは決定事項だ。いいか、くれぐれも内密に動けよ」と権力を振りかざす大人に三人は顔を見合わせた。
「どうするの? クロノ」
「て言っても……」
「お任せください! わしがシライさんの期待に応えてみせます!」
「こんな感じだしやるしかないだろ」
「それもそうね」
ハァ、とため息が重なった。渋くないお茶を顔をしかめて飲みながら、シライからの依頼を渋々受け入れたのだった。
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