頂点眼を溢す外は夜から白い太陽を連れてきていて、どうしようもないまま思考も散り散りに。特に誰への配慮も無くしてオエッ、とえづく。喉元に胃酸が逆流する。ああ、また吐いてしまうのだろうなとオレは考えていた。
「好きだ」
そう言われたのは昨日の事だ。けれどきっとオレの考えている好きと村雨の言う好きは別の物で、アイツはそんな合わないピースを無理矢理はめ込もうとパズルを壊していったのだ。端的に言うならば唇を奪われた、それだけの事。勿論そんないびつな形を受け入れる事が出来ないオレは、アイツを拒絶する事で自分を守った。そう、守っただけなのだ、なのに、何故、こんなにも苦しい。逃げるオレに、それを許さない村雨。肩を掴まれて「あなたが必要だ」と迫られ再びキスをされた。いやだ、嫌だ、このままで居たい、痛い、と思うたびに吐き気が込み上げて来て、そしてそれは塞き止める事も出来ずに地に落ちる。
アイツの目の前で吐いた時、村雨はとても心配してくれたが、それよりも失望の色が濃いように思えた。何を期待されていたのかは、分からない程にバカじゃない。あれからオレは一人でもその事を思い出すと吐いてしまう。また、掃除が面倒だよな、と遠く思う。それよりも関係を壊されたことに悲しめと狐が怯える。雑用係にいう事も出来ずに一人で贖罪のようにその感情をただ受け止めては零していた。なんでオレが悩まねえといけないんだよ。そんな愚痴と共にオレはずっとずっと心で涙を流していた。今回もそんな吐き気かと妙に達観しつつも急いで洗面所にダッシュ。便器に吐くつもりは毛頭ない。だって吐瀉物が付着するかもしれない場所に座りたくはないからだ。いつも、いつも、見えるところも見えないところも矜持で綺麗になりたい気持ちは誰かに理解されたいとは思わない。人造石で作ったシンクの黒色が目に眩しいがそんな事も気にせずにオレは吐いた。くる、と思った時には既に口腔の奥からなにかがせり上がってきていた。真っ白になる頭、異物感による嫌悪のみが脳内をジャックする。辛抱堪らずにそれを口から離す。
───ピチッ、音がした。えっ、とオレが先程の吐瀉物を見やればシンクの上に吐瀉物の代わりに金魚が一匹。どういうことだ、これはオレの口から出たのだろうか。そいつは確かにまだ生きていた。殺すか、飼うか。そんな、甲斐性もねえし、こいつをどうする? そう考えながらもオレは既にその魚を手近な透明の瓶に入れて、水を足していた。余計なものは増やしたくないのによぉ、とブツブツ独り言ちながら、何故かもうそいつに愛着が湧いて仕方ないのだった。それはきっと、ギャンブラーを買うような気安さと同時に、その金魚の赤に差した模様のようなハート柄が可愛かったとかそんな単純な理由なのだった。
その日のうちに砂を洗って入れて、海藻をかざり、フィルターやポンプも買ってきた。見栄えのいい場所に水槽の設置場所も決めたらそこはもうお前のお城。水泡がぷくぷくと浮かべば、死にかけのコイツも生き生きとし始めた。
「そう言えば名前を決めていなかったなあ」
何にしようか、オレから出てきたから自分に因むか? そんな時に、ふと村雨の呼ぶ「マヌケ」が耳にこびり付いた。じゃあ可哀想だけれどマヌケでいいか。オレから吐き出されたオマエはそんな一生だ。短絡的な思考回路の欠陥に危惧する自分の声が挙がる。そしてそんな警報を余所に自然と、村雨のことに思考がぐるっと回っていた。しかしオレはそんな自分を見ない振り。
「マヌケ、マヌケか……」
自分が呼ばれた時はなんとも思っていなかったが、呼んでみると案外愛着が湧いてくる。部屋を暗くして、水槽の明かりだけで照らされる室内は存外悪くないものだった。金魚の瞳がぎょろりとオレを見る。思わずゾッとしたけれど、それが何を訴えているのかまでは理解する事が出来なかった、いや、理解する気が起きなかったというべきか。所謂ペットは、ペット以上でも以下でもない。そもそもこれをペットを呼べるかも甚だ疑問だった。大体人の口から出てきた生き物ってなんだよ、下の口からなら子供だったのかもな。おっと、オレはそんな下ネタを嗜まない人間なのに、どうしてこういう事を考えているんだか、くだらねえ思考に囚われる。
それにしても子供か、とまたオレは金魚を眺める。オレにはとんと縁が無いものだと思っていた。村雨はどうなんだろうか、女じゃなくてオレにああいうことを迫る位なんだから子供なんて要らないよな。って、それはオレが決める事ではないんだけれど。ふと、考え込む。あれ、さっきまではこういうことを考えるだけで吐き気が込み上げたものだが、今はどうだ。
「マヌケがオレの吐き気を全部持っていってくれたのかもな」
そうだったら嬉しい。吐きすぎは健康に良くないからだ。マヌケはそんなオレの思惑を余所に悠々と泳いでいる。赤が綺麗に水で揺らめき、海藻の緑に戯れていた。オレがあの時、村雨のキスを嫌がらずに受け入れていたらどうなっていたんだろう。オレらの関係は変わっていたのかな。明日は誰かが自宅に訪れるだろうか、来訪中に吐かないだろうか。もし、そんな事をしてしまったら絶対に怪訝な目で見られるんだろうな、それこそ村雨にも。その前にアイツは家に来てくれるんだろうか。告白を拒んだことが引き金に村雨に嫌われたら、もう二度と会えないのだろうか。
それは嫌だ。明瞭な自分の心の声に思わずびっくりしてしまう。村雨に嫌われるのも嫌だし、今あるカラス銀行で出来たギャンブラーの絆が瓦解するのも嫌だ。仮令、ギャンブラーでなくなったとしても、村雨と一緒に居たい。手術の助手でもなんでもやるから、村雨の隣だけはオレのものであって欲しい。それは事実だった。同じ分だけの好きも返せずになにが共に居たいとほざくのか。けれど仕方がない、一緒に居たいというエゴと言われる俺の自我は消せないのだ。オレが欲しいのは一緒に寝る時の安らぎであったり、此処に居ても許されると言ったりした証なのだ。それにもしかしたら、オレだって村雨と同じだけの好きを返せる日が来るかもしれない。……来ないかもしれないけれど、頭ごなしに無いと決めつけるのは良くない傾向だろう。だって、人生には希望というものが必要なのだ。
「邪魔をする」
「……どーも、上がれよ」
オレがこんなにも悩んでいるのを余所に、村雨はいつもと寸分違わずと言った姿で家に上がって来た。この男の神経を疑ってしまう。オマエ、だってオレとキスしたその口で喋るんだろう。オレはそれが出来ないから何かと都合をつけて彼を避けてしまっていた。本業が忙しい、とか、軽い体調不良があるとか。あいつに踏み込む隙を与えないようにしていたつもりだ。けれどコイツはギャンブラーで、その前に医者だった。オレの用意した小細工にも満たない言葉は「私が様子を見る」という言葉だけで完結した。オレはその提案を無碍に出来なかったのだ。自分の撒いた種である。
「風邪ではないな、不定愁訴の類だろう。仕事のし過ぎだ、少し休め」
嗚呼、このノータイムで適切な回答を寄越してくれる村雨は流石だ。オレたちどうして仲間の一線を越えなきゃ居られなかったんだろう。ぼんやりとしていると、村雨は興味深そうに一点を見つめていた。
「獅子神」
「なんだよ」
「何か飼うのか?」
「ああ、金魚だよ。名前は……マヌケ」
思わず言いよどんでしまう。見れば分かる事を何故村雨は聞くのだろう。それに彼が自分を呼ぶ名称をペットにつけるなんて。自分でもあんまりだと分かっている、だからこそあまり言いたくなかったのだが、隠しても怪しまれてしまう一方だ、だから吐露してしまった。
「マヌケか、あなたらしいな」
「へえへえ、そんなもんだろうが」
「ところで獅子神、あなたに金魚なんて趣味はあったか? 世話係が二人だけで寂しいのか」
「それは……」
昨日、口の中から出てきたんだ、と言うところでストップした。いや、普通に説明不十分にも程がある。それに村雨と会ってない時間に吐いていた事を気取られるのも嫌だった。
「なんでも、いいだろ」
「まあ、良いが。あなたは趣味が良い」
ドキリとした。その声のトーンがあの時、オレにキスを迫った時のソレに酷似していたからだった。二人きりでいると、なんだか落ち着かない。誰か来てくれないだろうか。そうじゃないと、また村雨にキスをされるんじゃないかと思わず身構えてしまう、そんな自分が嫌いだ。
「金魚は好きだ。赤も良いが、金が尚の事好きだ」
ぽつりと村雨が話し始める。それをどうしても聞いていられなくて、胸がドキドキしてしまって、あれ、こういう時ってどうすれば良かったんだっけ。何も思い出せない。急な眩暈で目がチカチカする、真っ白になる。どこか遠くで、「あなたの色だから」と言った村雨にオレは縋った。
「助けて、助けて村雨」
それだけ言って、オレの意識は途切れた。縋った手をきつく抱きしめられるのは、存外、悪い気分はしないものだ。
気が付いたらベッドの上に寝かされていた。真白の天井が目に刺さりそうなほど眩しい。あれ、オレはどうして此処に居るんだろうか。記憶を思い返せば、そこには簡単にぶち当たった。オレはまた一つ村雨に迷惑を掛けてしまったのだろう。何がトリガーだったのだろうか。確か、彼がオレの金魚を見て、それで何か言って、そこで記憶は途切れている。
瞬間、浮かんだのは嫌悪だった。オレ以外の色を見て「好き」だと言う村雨への不信でもあった。なんだよ、お前、オレが好きなんじゃないのか。浮気者め。いや、まだオレと村雨は付き合って居ないから浮気も何も無いのかもしれない。……まだ? それじゃあいつか付き合うみたいじゃないか。そんな事、考えた事も無かった。思わず、自分の中で、村雨がぶつけてくるパズルピースに合う欠片を探してみる。顔が好き、声が好き、一緒居てくれるとオレだけを見て笑ってくれるところが好き。ああ、存外あるじゃないかよ。
「獅子神、起きたか」
枕元を見れば村雨が不敵に顔で笑っていた。オレは彼に向き直ろうと身体を起こす。しかしそれすら村雨に制止されてしまった。
「病人は寝るのが務めだ」
「別に病人じゃ……まあ、名医には従うけどよ」
「そういえば、獅子神。金魚を飼うのと、私がしたことは関係があるか」
村雨の目は真っ直ぐオレを貫いていた。なにか言葉を紡ぎだせないか、オレの口はパクパクと空を泳ぐ。でも結局なにも出てこなかった。
「……やはりいい、気にするな」
「村雨。それは、何に対する謝罪だよ……適当に謝っておけばいいって言うのは、オレは、あんまり好きじゃねえ」
今度は村雨が言葉を失う番だった。けれど視線だけは確りとこちらを向いていて、彼の赤黒い瞳に吸い込まれそうになる。
「あのさ」
オレは漸く、喋り出せる気分になった。彼がオレに好きだというのと、この金魚のマヌケに直接の関係があるかどうかは分からない。けれど彼ならなにか知っているかもしれない。
「この前、あるじゃん、キスされた日。あの後に何度か吐いたんだ。そんで吐いて吐いて吐きまくってたら、このマヌケが出た。そんでよく分からないけど今は飼ってる。質問は受け付けねえぞ、だってオレだってよく分かってねえんだ」
「待て、獅子神」
急に村雨が慌てた様な声をあげる。彼が見ているのはマヌケの泳ぐ城だった。
「この水槽まだ何も入っていないだろう?」
「……は?」
何を言っているんだと、村雨の視線を追えば、そこには空っぽになった水槽があった。どれもこれもオレの空想だったとでもいうのか。待て、でも確かにオレは金魚を吐いた。砂利も買ったしポンプも買った。レシートが、レシートが何処かにある筈だ。村雨は何か言いたげだったが、オレはそれを無視して探す。マヌケの居た形跡を探る。でも無い、何処にもない。心身追い詰められて本当の間抜けになってしまったのだろうか。
「なあ、獅子神」
「違う、違うんだ、ちょっと待て」
普段、張ることが少ない声を吐き出す。そう一喝すれば、村雨は流石に黙る他ならない。誰のものか分からないスマフォの通知がピコンと鳴る。確かに魚が居るにしては雑用係は何も言ってこなかった。本当に本当にこれは全部、オレの妄想だったんだろうか。
思わず膝から崩れ落ちる。
「なんだこれ、なんなんだよこれ」
「獅子神、落ち着け」
「なあ、村雨、オレって本当におかしくなっちゃったのかよ」
「おかしくはない、先程も言った。疲れから、僅かにナーバスになっただけだろう」
「……オレのこと見捨てない?」
「それは私に対する挑戦状か? この程度で好いた相手を見捨てるような人間性ではない」
村雨はへたり込むオレを抱きしめてくれた。もう、嫌悪感は無かった。マヌケが消えると同時にオレの中に渦巻いていた何かが消えた。壁が、消えたのだ。そこからは夢中で村雨を求めた。抱きしめ返して、肩に顔を埋め、彼の香りを嗅いで、泣いた。村雨はそんなオレの醜態に文句の一つも言わず、ただ真摯に受け止めてくれた。そんな夜の日。オレと村雨のピースが一つに合致する。
「結局その金魚はなんだったんだろうな」
オレと村雨は同じ布団で横になりながら語らう。こんな風に熱を分け合う事なんて知らなかった幼いオレを、村雨は少し先で待つようにリードする。なんか好かないなぁ、と思うと同時に絶対的安堵も覚えていた。
「オレが聞きてえ、変な病気じゃないといいんだがな」
「私の診断に間違いはないさ、安心しろ」
「身体はそうかもしれねえけど、精神の方は分からないだろ。このままオレが本格的に病んじまったら、どうする?」
「その時は私があなたをずっとサポートしよう」
ニコリと村雨は笑う。オレもそんな村雨を見て笑う。ふわりと頭を撫でられてなんだか夢の中に居るようだった。実際夢の中なのかもしれない。オレが村雨と分かりあえる、そんな夢。オレのプライドの隅から隅まで壊せば、村雨が好きだと言う原石のみが残る。ふと、村雨を見れば、彼の目は赤黒くぎょろりとしていた。ゾッと、身体が固まる。なんなんだこれは。
「獅子神、聞いてくれるか」
「なんだ、よ?」
「私も金魚を飼って居るんだ」
もしかしたらそれも妄想なのかもしれない。と続ける村雨は普段なら気が付かない程度に震えていた。オレは声を出すことが出来なかった。
「へ、え……いつから」
「昨日だな。獅子神と同じくらいだろう。あなたに拒否されてから、自分ってものが不明瞭になった、そうしたら気持ち悪くなって吐いていた。医者の不養生だと笑うか?」
思わぬ告白にオレは目を丸くする。そうか、オレがオレで悩んでいたように、村雨も村雨なりに悩んでいたのか。
「悪い……」
「謝って欲しい訳ではない、でも、なんか、獅子神の方と状況が似てるから、この事実を告白した。本当は私も怖いのだ。ここから帰って、私の水槽も空かもしれない、全てが空想の産物の可能性がある」
村雨の目は血走っていた。倒れる前のオレの目もきっと血走っていたのだろう。オレはそんな村雨が傷つかないように、怯えないように、そっと抱きしめる。
「大丈夫。オレがいるから」
「獅子神……」
「なあ、キスをしよう。何もかもが忘れられるように」
ごくりと、唾液を飲み込む音がする。目の前の友が雄になる瞬間だった。オレは軽く目を閉じる。瞬間、村雨の唇がオレを蹂躙した。彼なりに気を使ったのかなんかのか分からないが触れるだけのキスを沢山する。もっと奥に入ってきても良かったのに、とオレは数多のリップ音を受け入れる。
「獅子神、嗚呼」
「分かってる、村雨」
今宵、オレらが二人の金魚。お互いの唾液に溺れながらこの狭い孤独に揺蕩っていた。