それらすべて気の狂う日常「お兄ちゃんと言ってみろ」
「お兄ちゃん」
答えた瞬間に出た、長い長い村雨の溜息は過去最大級のものだった。大抵の場合、村雨の言動にはなんの前触れもない。初めて獅子神と村雨の出会った時、真経津が「耳が聞こえていても話が通じない」と言ったのもあながち間違いではなかった。
「もっと弟らしく心からの信頼と憧れを込めて言えんのか」
「ちょっとよく分かんねえ、説明しろ」
「私ほどの弟ともなれば周りが勝手に兄になるからな」
村雨曰く、弟の立場しか味わったことのない身として、知見を広げるために一度兄の立場に立っておくべき、らしい。
(聞いてもよく分からねえ……)
考えようとすればするほど獅子神のこめかみ辺りがツキツキと傷んだ。あのタッグマッチ以降、少しばかり成長したと思っていた自分の甘さを痛感する。ともに過ごす時間が長くなっても、村雨礼二という男は未だ底知れない。
あのとき、間違いなく村雨は自分を導いてくれた。その村雨の行為に、意味のないことなどあるものか、いや無い。弟つまり一般的に庇護されるべき対象、そう、弱者としての臆病さを失わぬ強者になれ、そういうことに違いない。
(そうか、オレの成長を促すために……)
自分の弱さを知った獅子神は強い。村雨という医師の診断に、従うと決めたのは自分なのだ。どこまでもこの医者に付き合おうではないか!
「すまねえ、もう一回やらせてくれ、お兄ちゃん」
「語尾をもっと甘くしろ」
「礼二お兄ちゃん♡」
「獅子神、小遣いをやろう。何がいい、車か?」
言うやいなや村雨は財布からブラックカードを取り出した。あまりにも軽率すぎる言動だった。
(なるほど、弱者をナメてかかるとよくないって教訓なんだな……)
「兄というのもなかなかに悪くないと理解した。時に獅子神、私はそろそろ弟に戻りたい」
「兄貴に電話してみたらどうだ?」
「マヌケ、生活の違いがある。それに今更二十八にもなって兄が恋しいなどと言えるか。つまり獅子神、あなたが兄役をすれば万事解決ということだ」
「俺が……兄役!?」
「そうだ、兄の気持ちになって私を呼んでみろ」
「れ、礼二くん……?」
「もっと兄らしく親しみを込めて言え」
ギャンブラーとして嗅ぎ取れる村雨の気配すべてが、獅子神を睨みつけていた。視線の刃が幾重にも刺さって、こめかみの辺りがツキツキと傷む。
先ほどの経験を経て己の強みを再認識したはずが、自分の甘さを痛感する。やはり村雨礼二は未だ底の知れない男である。
弟になりたいなどと、確かに二十八の男が言うには突拍子が無さ過ぎる願望だ。村雨は診断を違えない。村雨の行為に、意味のないことなどあるものか、いや無い! 兄という立場が示すもの、つまり村雨は獅子神に人の上に立つとはどうであるかを示そうとしているのだ。帝王学を学び更なる強者として脱皮しろと、そういうことに違いない。
(やっぱり、オレの成長を促すために……)
「すまねえ、もう一回やらせてくれ、礼二」
「もっと久しぶりに会った年の離れた可愛くて仕方ない弟に言うように」
「礼二、久しぶり。こんなに大きくなってオレびっくりしちまったぜ」
「甘やかされる準備はできている」
言うやいなや倒れ込んできた村雨の頭は、見事獅子神の発達した胸筋へ収まってしまう。手のひらを返したように従順な行為は、余程最近肉親への愛に飢えていたのだと窺えた。
(なるほど、心理的安全性が相手の懐に潜り込む秘訣ってわけだな)
「ありがとうな、村雨、また気を遣わせちまって……」
獅子神以上に、兄も弟も堪能した村雨の方が満足げに見えた。照れ隠しに鼻の下を擦りながら言う獅子神に、村雨は深く頷いた。
休みの日だというのに時間を惜しまず付き合ってくれる。村雨の面倒見の良さは付き合いが深くなるほど実感できるものだった。
「気にするな。ところで獅子神、あなたか礼二さんかダーリンかハニーか礼二くんかどれでもいい、言ってみろ。私は夫婦の気分が味わいたい」
「成る程!? 信頼関係を醸成して次のタッグマッチに備えようって訳だな?」