Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    hiko_kougyoku

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 38

    hiko_kougyoku

    ☆quiet follow

    若やまささ+知霧……他
    「己が役目」
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※モブ貴族がいます。
    ※流血描写あり。

    己が役目 1

     長次郎からすると、厳原金勒という人物は失態からかけ離れた男だった。堅気という言葉そのままの男は護廷十三隊の知を担い、実地だけでなく雑務までこなし、時には元柳斎の代わりに他の隊長格への指示も行う。
     そんな影の立役者に長次郎は憧れを抱いていた。だからこそ、隊長たちの視線を受けて神妙な面持ちで頭を下げる彼の姿を見るのは意外であったし、衝撃でもあった。
     それは長次郎と年の近い知霧も同じだったのであろう。「盗まれた?」と漏らした声には内容よりも金勒がその結果を招いたという事実に対する驚愕がありありと滲み出ていた。
    「詳しく話せ」
     静まり返った一番隊執務室に、元柳斎の重々しい声が響く。その声を受けて頭を上げた金勒の、額に浮かぶ汗は夏の終わりに燻る熱気に炙られたものではなく、自らの過ちを掘り下げる時に表れる精神的なものであるとは傍目にも分かった。珍しく眼鏡の向こうの目に動揺を宿した金勒は、狼狽を声に乗せながら訥々と答える。
    「俺が管理していた書類のいくつかが盗まれた」
    「どんな書類だ」
    「隊舎の見取り図と、最近受けた任務の報告書の一部。いずれも内容は頭に入っているから失っても職務に支障は来さないが、何せ盗まれたというのが気になる。どこに流れるのか分からないからな」
     元柳斎の隣に控えていた長次郎は、覇気を無くした金勒の声を聞いて唇を引き結ぶことしかできなかった。通常ならば隊首会議の場に長次郎が同席することなどない。しかし此度の内容は、知るべきものは一人でも多い方がいいと言う理由から、元柳斎に連れられて参加することとなったのだ。
     長次郎は上座にいる元柳斎の前に並び、向かい合って座る隊長たちの顔を盗み見た。皆一様に表情を硬くしているのだか、どうも頭数が少ない。これも長次郎がこの場にいる理由の一つだ。何故だ。事の重大性とは裏腹に明らかに空席が目立つ隊首会議を、長次郎は訝しく思った。
    「あの、何人か姿が見えないのですが」
     長次郎と同じ疑問を抱いた抜雲斎がおそるおそる手を上げるのが見えた。その質問を受けた元柳斎はぐるりと部屋を見回すと、
    「有嬪は不老不死と弾児郎と任務に言っていると聞いておる。千日はこの件に関して調査のため出ておる。だが……卯ノ花と逆骨はどうした」
    「どうせさぼりじゃね。多分その辺ほっつき歩いてるぜ」
     軽い調子で答えた乃武綱の声に、元柳斎は思わずため息を吐いた。卯ノ花と逆骨の気ままさにはもう慣れたものの、いなければいないで懸念となる。だが今はそんなことを気にしている場合ではないというように、雨緒紀が「仕方のないやつらだ」と呟くと、場の空気は再び会議の色を帯びてゆく。
    「状況を整理する。盗まれた書類はいずれも厳原の部屋で保管されていたものだという。昨日の昼に確認をした時はあったが、今日職務をはじめようとした時に見たらなくなっていたと。そうだな?」
     雨緒紀の目配りに、金勒が頷くのが見えた。その顔にはもう先ほどまでの憔悴は浮かんでおらず、不始末をした自分ができる最善を尽くすと言う決意が見て取れる佇まいだった。通常に戻った金勒の姿にほっと息を吐いた煙鉄が「普通に考えれば夜に盗まれたって考えるのが自然だよな。寝てる時に侵入者の気配とかなかったのか?」と目を向ける。
    「夕べは酒が入っていたから……朝まで一度も目覚めることなく眠ってしまった」
    「厳原先生がそんなに呑むなんて、珍しいですね」
     知霧の発言に、長次郎は昨日のことを思い出す。自分が昨日最後に金勒を見たのは、職務が終わった時間帯。ふらりと一人で門を出て行く後ろ姿……。
    「そういえば厳原殿、夕方頃どこかに出かけていましたよね。呑みに行っていたのですか」
     すると金勒は口元を歪め、苦々しい顔になった。思い出したくないことを思い出してしまったという表情だ。何があったのか。考えていると「昨日はちょっと呑まなければやってられないことがあってな」とため息交じりの声が聞こえてきた。
    「お前が? 珍しいじゃねえか。どうした?」
     弱っている姿を見ることがあまりないからか、他の隊長と同じように深刻な顔を作っていた乃武綱が途端に興味を浮かべ、身を乗り出して金勒に尋ねた。その笑みは完全に面白いものを見つけた子どもの笑みだ。
     そんな乃武綱の顔を視界に入れた金勒は、途端に目を吊り上げ、憤怒を孕んだ目を向けた。
    「お前がふざけた報告書を出すからだろ」
    「俺の報告書のどこがふざけてるって?」
    「なんで報告書に絵なんて描いてあるんだ。しかも下手だわ分かりづらいわところどころ墨が滲んでるわでとてもじゃないが読めたものじゃない。解読するのに半日掛かってしまった」
    「そんなことで怒るなよ」
    「そんなことで怒らせるな」
     一歩間違えば取っ組み合いの喧嘩に発展しかねない一触即発の空気に、隣に座っていた知霧と煙鉄が腰を上げかけるのが見えた。だが元柳斎が大きく咳払いをすると場の空気は一変し、乃武綱と金勒の動きがぴたりと止まる。
    「お主ら、喧嘩はやめよ。それで金勒、そこで普段より呑んで来た、と。苛ついていたとはいえお主が珍しい」
     会議の様相を取り戻した執務室にいる全員が、金勒を注視する。乃武綱から視線を引き剥がした金勒は、今度は元柳斎の方に向き直ると、
    「隣に座った男が変わっていてな。俺の愚痴を聞いてくれただけでなく妙に羽振りが良くて、何故かやたらに酒を進めてきて……」
     そこまで話したところで、全員が「あっ」と声を上げた。「その男、怪しくねえか」煙鉄の言葉に知霧も反応する。
    「眠り薬とか盛られたのではないですか?」
     可能性としてはないことはない。もし相手がやり手ぞろいの護廷十三隊に盗みに入るつもりでいたならば、真っ向から勝負を仕掛けるよりも確実性を取るだろう。特に隊長格ならば、例え手練れを送り込んだとしても返り討ちにされるのが関の山。ならば力以外の方法を取る可能性というのは、選択肢の中に含まれるであろう方法だった。
     しかし金勒の頭からはその考えはすっかり抜けていたようだ。図らずも重ねられた自分の失態に、しまったとばかりに顔を顰めると気まずそうに顔を伏せた金勒は「余計なことは喋っていないだろうな」という不穏さを含ませた雨緒紀の声に、おそらく、と小さく返すことしかできなかった。
    「その男の行方を追え!」
     元柳斎の厳然とした声に、部屋の壁が揺れた気がした。戦いを思わせる引き締まった雰囲気に、長次郎を含めた全員が弾かれたように立ち上がった時、「いや、その必要はないと思うぜ」とその場にいないはずの声が耳に飛び込み、踏み出しかけた足がたたらを踏んだ。
     天井の板が外れる小さな音が、重厚感を増した空気の中で大きく響く。音もなく降りてきた人影を見ると現れたのは調査に出ていたはずの千日だった。
    「どういうことじゃ」
     厳めしさを崩さないまま元柳斎が訊き返すと、千日は全員の顔を見回し、目だけで座れと促した。そうして皆がどうした? と疑問を浮かべながら腰を下ろしたのを確認すると千日は元柳斎の正面――部屋の下座にあたる部分にどかっと胡坐をかき、おもむろに口を開いた。
    「実は、最近隠密仲間から妙な噂を聞いたんだ。四楓院と既知のとある貴族が、やたら情報を集めてるって」
    「情報? どんな……」
     「護廷十三隊の内情だ」千日の答えは、皆を驚かせるには十分な内容だった。何のために? という自問で揺れる空気を感じ取っていくうちに、長次郎も自分の中でじわじわと事の重大性が膨張していくのが分かった。隣を見ると、元柳斎の眉間の皴が一層深くなっている。
    「ここ数日、隊舎の周りをうろついてる変なのがいる。俺も何度か見た。さっきもそこで……」
     真剣さを表出しながら、千日が話していた時だった。ひた、ひた、と廊下を歩く音が聞こえ、その場にいた全員に緊張が走った。控えるような足音は昼間にも関わらずどこかおどろおどろしく響き、突如気配を放った得体のしれない存在に長次郎は思わず身構えた。侵入者か。すぐに戦えるよう膝を立て斬魄刀に指をかけるも、どういうわけか千日が手で制す。
     障子戸が開き、ぬらりと姿を現したのは卯ノ花だった。卯ノ花は無感情な目を動かし千日の姿を確認すると、持っていた何かを無造作に放り投げた。ごとり、と床の上で重い音がする。
     男の、首だった。乾いていない鮮血が小さな玉となって周囲に散ると、まだぬくもりのある肌の感触が伝わって来るような気がして、長次郎は目を見張ることしかできなかった。自分のすぐそばに首を投げられた状態となった千日は、眉を潜めて卯ノ花を見上げる。
    「情報を吐かせるから殺すなって言ったろ」
    「……面倒だったので」
     感情のない声が、静寂に落ちる。首を見ても表情一つ変えない隊長たちよりも更に冷たいその声は、長次郎の背筋を鋭く撫で上げた。首などに用はないと言わんばかりの卯ノ花をよく見ると、真っ白な死覇装の裾が僅かに赤く染まっている。おそらく収められた斬魄刀もそうなのだろう。
     「ここの掃除の方が面倒じゃねえか」そんな中で発せられた千日の言葉は、この状況では異様とも言える響きをしていた。
    「誰が床拭くと思ってるんだよ」
    「長次郎です」
    「わ、私ですか?」
     いきなり名前を出された長次郎は、思わず頓狂な声を上げてしまっていた。「汚したのは卯ノ花殿でしょう!」そう返せば、卯ノ花は何を言っているのだと言わんばかりの顔で長次郎を見下ろす。
    「ここは一番隊舎ですから、あなたが掃除をするのが道理というもの」
    「しかし」
    「隊長命令です」
     理不尽さと恐ろしさに泣き出したい気持ちになった長次郎は、唇を噛み締めると助けを求めるように元柳斎を見た。だが元柳斎は、眉を下げ長次郎に同情の視線を向けると、諦めろと軽く頷き、再び前を見据えてしまった。その時の自分の顔がよほど情けないものだったのだろう。たまりかねた乃武綱が脇から「俺も手伝ってやるからよ」と声を掛けてきたが、何も返すことができなかった。
     諦めるしかないと腹をくくって元柳斎の視線を追えば、千日が転がった首の髪を掴み、皆へと向けてきたところだった。苦痛に歪み、目玉をぐるりと上に向けたまま絶命した男の顔がはっきりと見える。「厳原、この顔に見覚えがあるな?」千日が発したその問いは、問いというにはやけに確信的だった。
    「……間違いない、夕べの男だ」
    「俺もこいつを見たことがある。さっき言った、貴族の家の人間だ」
     千日は首を置くと今度は元柳斎に向かって言う。
    「山本、お前も覚えてるだろ。この護廷十三隊を作る時にぜひ自分の家を隊長にとしつこく自薦してきた貴族を。あそこだ」
    「ふむ、あの家か」
     護廷十三隊の創設に関しては、長次郎も知っている。最終的に隊長格の決定をしたのは元柳斎だが、その過程の話を断片的に聞いたことがある。家格よりも実力を重視した結果が今の体制なのだが、そこに至るまでに多くの人間が元柳斎のもとを訪れたそうだ。
     護廷十三隊は尸魂界の護衛から虚の討伐まで多くの任務をこなす必要性がある代わりに一定の社会的地位が保証される。その地位を狙って、裏で手を回そうとした輩も多かったと元柳斎がぼやいていたのを思い出した。詳細を教えてもらうことはついぞ叶わなかったが、長次郎はどういう理由で千日が言うその貴族が護廷に入れなかったのかふと疑問に思い、元柳斎に尋ねた。
    「何故その家が護廷十三隊から外れたのですか? 貴族の家を入れれば資金繰りもしやすいですし、大きな戦力にもなりましょう」
     「その戦力というものが、必ずしも良いとは限らない」長次郎の疑問に答えたのは雨緒紀だった。
    「貴族とはただふんぞり返って権力を守っているだけの自己中心的な考え方ではいけない。それぞれの家にはその家の名に恥じぬふるまいをいなければならない。すなわち、為すべき職務を全うし、守るべき町の人を守り、時には救済するということ。これこそが貴族の役割と言っても過言ではない。それをきちんとやることができるならば、山本も彼らを歓迎しただろう」
    「ということは、そうではなかったのですね」
     今度は向こうの方から声が聞こえた。千日だ。
    「あの家、元は四楓院と同じ隠密を生業とする家でな。昔一緒に働いたこともあるんだが……うちの者が何人か消された。血の気の多さなら俺らも負けちゃいねえが、あいつらの場合は自分にとって邪魔な人間は容赦なく消すから厄介なんだ。そういう人間が組織の中にいると、必ず崩壊する」
    「護廷十三隊に入っても、何をやらかすか分からぬ」
     そう話す元柳斎の顔はあまり良い心情を抱いているというものではないことから、問題のある家だろう。
    「でも、そんな家が何故今頃護廷十三隊の内情など調べているのでしょう」
    「護廷への恨みと言ったところか。それでも詳細は分からないから対処のしようがない」
     「実は困っていることがもう一つある」千日は懐をまさぐると紙を取り出し、皆に見えるように顔の前で掲げる。細く折りたたまれたそれはどうやら文のようだ。そうして前に進み出ると、その紙を元柳斎の前にそっと置き、千日はもとの場所へ戻っていった。
     周囲の注目を一心に集めた元柳斎は紙を広げ、中に目を通す。黒々とした墨で縷々と書かれた文章を読むのを固唾を呑んで見守っていた長次郎は、元柳斎が読み終えた頃に「何と書いてあるのですか?」と聞いてみた。それはこの場にいる人間の疑問を代弁していたようで、他の隊長たちも元柳斎の声にじっと耳を傾けている。
    「……その貴族からの依頼じゃ」
     すると乃武綱から「家に乗り込むちょうどいい機会じゃねえか。早速……」と膝を叩く音が聞こえた。だが即座に「お前は駄目だ」と千日に拒否され、勢いをくじかれた乃武綱は不満を漏らす。
    「なんでだよ」
    「今回は隊士を指名されてるんだよな」
     千日は隊長たちに視線を巡らせると、最後に長次郎の顔を見た。意味ありげに口角を上げる千日に嫌な予感がした長次郎は、顔をひきつらせたまま、ただ真っ直ぐに千日を見つめることしかできなかった。すると視線が外され、今度は知霧が同じように緊張した面持ちになる。
    「長次郎と……それから志島。お前たちだ。十日後、その貴族の家に行け」
     周りの人間が一斉に長次郎と知霧を見る。中でも金勒は驚きを隠せないと言った様子で口を開いた。
    「珍しい組み合わせだな。理由は?」
    「夜の任務だから若い男がいいとのこと」
    「おい、いかがわしいものじゃないだろうな」
     乃武綱が唸ると、千日は声を上げて笑った。
    「安心しろ。そういうのじゃない。簡単な話だ。年寄りだと夜に弱いだろ?」
    「そういや逆骨のじいさんも日が落ちれば眠ったように死ぬからな」
     「馬鹿者、それでは死んでしまっているではないか。死んだように眠っている、だろう」雨緒紀の突っ込みに頭を掻いた乃武綱に、煙鉄が苦笑したのが見えた。「どうだ二人とも、行ってくれるか?」千日の問いを受け、長次郎はまず最初に元柳斎を仰ぎ見た。行ってもよろしいでしょうか、と小声で尋ねれば、元柳斎は力強く頷いた。それを見て、むくむくと膨れ上がった使命感に、それまでこわばっていた体を弛緩させた長次郎が、明瞭な声で答えた。
    「行きます」
    「志島は」
    「自分も行きます。その貴族の企みを暴いて見せましょう」
    「おっ、頼もしいな」
     千日が満足そうに言うも、「待てよ」と異を唱えた人物がいた。乃武綱だ。乃武綱は長次郎たちの間に割って入ると、「こいつらで大丈夫か?」と憂いを滲ませながら口を挟んできた。
    「相手は何考えてるか分かんねえ連中なんだろ?もう一人くらい誰かつけたほうが……若いのがいいなら、不老不死はどうだ?」
     「あいつは確か、その日は夜通しの任務が入っていた」と、頭の中で隊長の予定を思い出していた金勒が答える。それを受けて「じゃあ別の人間は」と言ったところで、そばかす顔に鬱積を含ませた知霧が乃武綱を睨みつけた。
    「自分らでは力不足だと」
    「そういうことを言ってるんじゃねえ。お前たちの実力は十分だ。でもな、今回は何が起きるか分からない。相手がこっちに敵意を持っているなら、尚更だ。お前たちをどんな手を使ってでも陥れようとするだろう。だから……」
    「執行の言う通りだ。責任を持って依頼を受けるとはいえ、死んだら元も子もない。危険を感じたらすぐに抜け出してこい」
     乃武綱の話を引き継いだ雨緒紀に、知霧はなおも食って掛かる。
    「護廷十三隊とあろうものが、敵に背を向けるというのですか」
    「時には撤退も必要だ。集めた情報をもとに体制を立て直し、万全の状態で攻め込む。これも戦術というもの」
     冷静に、しかし諭すように言う雨緒紀には有無を言わせぬ圧があった。その圧を真正面から受けた知霧はさすがに言い返すことなどできないと思ったのか、憮然とした顔を崩さないものの、それ以上何かを言うことはなかった。
     納得がいかないという心情を隠すことなく空気に溶かし込む知霧に小さく笑った千日は、次には長次郎に視線を映す。
    「いいか、決して無理をするな。お前たちの身の安全が最優先だからな。分かったか」
     長次郎と、渋々といった態度の知霧が頷いて、隊首会議はお開きとなった。


    「長次郎、お主は残れ」
     部屋を出て行く隊長たちに追従しようとしたところで背中に元柳斎の声が投げかけられ、長次郎は立ち止まった。鋭くこちらを見る目の奥に長次郎を案ずる時に宿すほんのわずかな温もりを確かめ、戸惑いと驚きを感じつつも、長次郎は元柳斎の真正面に腰を下ろす。
     去りゆく隊長たちの死覇装の擦れる音すら届いて来そうな静寂が、執務室に下りる。部屋に誰もいなくなり、近くに人の気配を感じなくなってなお、元柳斎は長次郎を難しい顔で見つめたまま口を開くことはなかった。
    「あの、元柳斎殿、何か……」
     気まずい空気に耐えかねた長次郎が尋ねれば、元柳斎は黒々とした髭の下に隠れる唇をようやく動かし、話をはじめた。
    「長次郎。此度の任務だが、乃武綱が言っていた通りやつらはどんな手を使うか分からない。そしてこちらの情報は筒抜けと思うて良い」
    「はい」
    「お主のこともだ」
     思ってもいなかった言葉に、長次郎はぽかんと口を開けてしまった。考えてみれば当然だ。護廷十三隊には長次郎も含まれる。しかも総隊長である元柳斎の側近となれば、その存在は決して小さなものではなく、その情報の重要性は一気に増す。あらためて自分の置かれた立場の重みを実感した長次郎は、ごくりと生唾を一つ飲み込むと、膝の上に置いた拳を強く握る。
    「お主が儂のために身命を賭す心持ちでいることなど、今やこの尸魂界にいる人間のほとんどが把握している。敵対する人間ならばまずそこを突いてくるだろう。良いか。もし敵が儂の名前を出し、利用しようとする素振りを見せたなら、まずは疑え。儂はそう易々と敵に弱みを見せるつもりはないし、隙は見せぬ。それでもお主自身が身の危険を感じるようなら、迷わず戻って来い。雨緒紀や千日の言う通り、時には退くことも肝要だ」
    「しかし……」
    「何じゃ、儂の言葉が聞けぬのか」
     低くなった元柳斎の声に。長次郎は反射的にその場で平伏し、床に頭を付けた。
    「いえ、そういうわけではございませぬ! ですが尻尾を巻いておめおめと逃げてくるなど、許されぬような気がして」
    「お主はそう言っていつも綱の切れた犬のように突っ込んで行くじゃろう」
    「うっ」
    「それで怪我をこしらえて帰って来ると」
    「……返す言葉もございませぬ」
     痛いところを突かれた長次郎は、居住まいを正すもただただ項垂れることしかできず、視線を床へと落とす。色褪せ木調が薄くなった板を見つめていると、頭上の空気が震えたのが分かった。元柳斎が小さく笑ったのだ。
     「任務も大事じゃが、お主の役目はなんぞ」ゆるやかに揺れた声でそう問われ、長次郎は思考を巡らせる。自分の役目? 護廷十三隊として恥じぬ戦いをすること? それとも、責任を果たすこと? いや、側近として元柳斎を守ること……いくつも浮かび上がる言葉のどれを掬えばいいのか分からず黙り込んでいると、今度は大きく息を吐くのが聞こえた。
    「儂の手の届かぬ部分を補うと言うておったではないか」
    「あっ……」
     思わず声を上げた長次郎を元柳斎がねめつける。
    「まさか忘れておったわけでは……」
    「そんなことは決してございません! ただ、それを私の役目としていただけているとは思っていなくて……」
    「何年お主に付き纏われていると思っておる。毎日のように聞かされておれば嫌でも耳に張り付くわい」
     やれやれという口調の中に自分を見守るあたたかみを感じ取ることができる。まだ自分が卍解を取得する前、元柳斎のもとに通い詰めていたあの頃から口癖のように言っていた言葉が、いまやすっかり自明のものとして存在している。長い時間を掛けて二人で築き上げてきたものの重みが胸の辺りにのしかかるのを心地よく思い、長次郎は自然と自分の頬が緩んでしまうのが分かった。
    「それに、此度は憂慮すべき点もある」
     にやけ顔の長次郎に呆れたような視線を向けながら、元柳斎は厳と続ける。真剣みを帯びた声に、長次郎は上がりっぱなしだった口角を結んだ。
    「その貴族とは何度か会うたことがあるのだが、傍に控えていた男が相当な手練れのようでな」
    「相当な、とは……」
    「大男じゃ。有嬪や乃武綱と同じか、それ以上の……体つきを見る限り、化け物じみた力を持っているようじゃ。くれぐれも気をつけよ」
     「元柳斎殿以上の化け物ならば、ぜひ見てみたいです」正直に口を突いた言葉が失言だと気付いたのは、元柳斎が立ち上がったのが見えた時だった。自分の顔から血の気が降りるのを感じたところで足音が近付き、傷だらけの裸足が目に入り、一瞬の後に渾身の拳骨を落とされると、目の前に無数の火花が散った。
    「ともかく! 己の本分を忘れるでない。良いか、必ず無事に儂のもとへ帰ってこい! 儂の目の届かぬ場所で散るなど、許さぬ」
     放たれた厳命に、長次郎は熱を持つ頭を押さえながら「はいぃ」と情けない声で返すしかなかった。

     2

     そんなやりとりがあったのが、十日前。
     朝、隊舎を出立した長次郎と知霧は昼過ぎには千日が話していた貴族の屋敷に到着し、そこで満面の笑みを浮かべた主人による出迎えを受けた。着いたばかりでお疲れでしょう。まずは体を休めてください。任務の仔細はまたのちほど……そう言って通された部屋はこれまた奢侈をつくされており、二人はただただ目を丸くするしかなかった。
     依頼の時間は夜。にもかかわらず指定よりも早く屋敷に入ったのは他でもない。貴族の動向を少しでも探る目的があったからだ。せめて盗まれた書類の場所だけでも把握できれば……そう意気込んでいた長次郎だったが、実際は理想とは程遠い。
     長次郎は、渦中の貴族の屋敷の縁側で横になっている。
     残暑と言うには過ごしやすく、秋というには暖か過ぎる気候。来る時よりも幾分かやわらいだ日差しを受けて今にも夢の世界へ転がり落ちそうな意識を何とか引き戻し、口を突いた言葉はなんとも間の抜けた響きとなった。
    「志島殿、さっきのあんみつ、美味しかったですねー……」
     隣で全身を大の字にしていた知霧が、これまた脱力した声を返す。
    「おお、あの餡が最高だな。ありゃあいい小豆を使ってる」
    「上に乗っかってた白くて冷たいやつが美味しかったです。甘くて口の中で溶けました……!」
    「知ってるぜ。あれ、現世の西洋の甘味なんだ。〝あいすくりん〟ってやつだ」
    「なんと! 西洋にはあんなに美味しいものがあるのですか……!」
     そこまで話してようやくおかしいと気付いた長次郎は、重くなった瞼を無理矢理こじ開けると、勢いよく起き上がる。
    「志島殿、これ、本当に任務ですか」
     「そうだよ。これはれっきとした任務」仰向けに寝転がったままの知霧の銀髪は丁寧に磨き上げられた床に広がり、日光を浴びて白い波模様を描いている。そのすっかりだらけきった様子は戦闘に特化した護廷十三隊の隊長と呼ぶには毒気がなく、そして幼くも見えた。隊首会議の時に見せたとげとげしさは一体何だったのだろうか……疑問に思いながらも長次郎は、自分が任務でこの場所にいることを思い出すと、目を閉じたままの知霧に向き直る。
    「でも、来てそうそうこんなにいい部屋で休ませてもらって、おやつももらって、夜は夕餉を頂いてから任務なんでしょう? その間何をしていれば」
    「寝てようぜ」
    「そういうわけにもいかないでしょう。この家のことを調べるとか……」
     言ってから、長次郎は辺りを見回して人の気配を探った。どうやら近くに屋敷の人間はいないらしい。ほっと胸を撫で下ろすと、その様子を見ていた知霧がごろんとこちらを向き、
    「この家、貴族ということもあって使用人がたくさんいる。しかも隠密の家。どこに誰が潜んでいるか分からない。下手に動けば目を付けられるし、最悪捕まる可能性もある」
     先程までのだらけを思わせない声色を作る。
    「いいか、表向きはこの家の依頼を受けに来たということになっている。だから怪しまれたら終わりだ。今はじっとしてろ。機を見て、それで調査だ」
     体を起こした知霧は、長次郎の耳元に顔を近付けると声を潜めて言った。なるほど、敵を油断させるのか。そう解釈した長次郎は知霧がそうしたように再び横になると、その時が来るまで寝ていようとそっと目を閉じる。
     その時、庭の方からにゃあと声がして、遊離しかけた意識を手繰り寄せることとなった。見ると、いつの間にか長次郎たちのすぐそば、鈍色の踏石の上に白い毛並みの猫が一匹、行儀よく座っていた。猫は月を思わせる丸い金目をこちらに向け、二人の様子をじっと見つめている。
    「志島殿、猫がいます」
     長次郎が弾んだ声を上げるも、知霧は猫には目もくれないまま「猫くらい珍しくもなんともないだろ」と適当に返す。「でも、真っ白で綺麗ですよ」そう続けたところで知霧は驚いたように目を見開き、こちらを見る猫の姿を確認した。
     猫を視界に入れた知霧は、次には嫌なものを見たとばかりに思い切り顔を歪めた。表情の変わりように長次郎が唖然としていると、知霧は素早く猫の首根っこを掴み上げ、金目と目線を合わせた。
    「アンタ、何でいるんですか」
     「志島殿、知っている猫ですか?」問うも、知霧は長次郎には答えない。
    「今日は長次郎と自分の任務だって言ったじゃないですか。いいですか。手出しは無用ってやつですよ」
    「猫相手に何を言っているんですか」
     長次郎が呆れた目で見るも、知霧は猫を睨みつけたままその場を離れない。そうしていると猫の方も機嫌を損ねたのか、小さな前足で知霧の頬をひっぱたくと、するりと抜け出して庭の奥へと逃げてしまった。
    「猫をいじめるからですよ」
     言うも、知霧は猫が去った方向をじっと見据えたまま長次郎を見ない。
    「いいか、何としてもこの任務を成功させるぞ」
     落ち着いた口調とは裏腹に、漆喰の塀を見る胡乱な目には戦いに身を投じるものだけが持つ底意地が滾っていた。それは吹き抜ける風を思わせる飄々さを兼ね備えた隊長たちの中で、知霧だけが時折見せる感情だった。言うなれば、澱。けれども沈殿するだけでなく、密かに浮上する機会をじっと待っているような胆力も持ち合わせている。何が知霧をそこまで駆り立てるのか……。考えているとふっと息を吐く音が降って来た。知霧の口元に不敵な笑みが刻まれている。
    「大丈夫だ、この志島さんに策がある。だからお前はどんと構えてろ。明日にはきっと、山本の旦那にいい報告ができる……」
     策とは何でしょうか。長次郎はそう口を開きかけたが、廊下の先に人影を確かめて慌てて噤んだ。どうやら屋敷の使用人のようだ。こちらを見ていた使用人は、長次郎たちの視線を受けると半ば慌てたように踵を返し、角を曲がり屋敷の奥へと引っ込んでいく。
     話を聞かれたかもしれないという懸念が頭をかすめる。長次郎が隣を見ると、知霧は眉を潜めたまましばらく何かを逡巡していたが、やがてぱちんと両手を叩くと、「長次郎、刀を持て」と自分の斬魄刀を手元に引き寄せた。
    「志島殿、一体何をするつもりで……まさか……」
    「素振り」
    「……は?」
     予想を大きく外れた返しに、長次郎が短い声を上げた。知霧は真剣な面持ちのままこちらを見ると、はっきりとした口ぶりで続ける。
    「いいか、さっきのあんみつを見ても、この家はとても羽振りのいい家だと分かる」
    「はい」
    「つまりだ、夕餉もさぞ豪華なのだろう」
    「はい」
    「もちろん、食材は一級品ばかりだし、料理人も玄人揃い……」
     長次郎は先ほどのあんみつを思い浮かべると、口腔内に湧き出た唾液を一気に呑み込んだ。ごくり、と喉が鳴り、体中の血液の巡りが活発化したのを感じるやいなや途端に胃袋が収縮し、ぐう、と腹の虫が目を覚ます。
    「動くぞ!」
    「はいっ!」
    「腹減らすぞ!」
    「はいっ!」
    「食うぞ!」
    「はいっ!」
     長次郎は部屋に置いてあった斬魄刀を急いで掴むと、いつもより伸びた猫背を追いかけ庭に飛び出した。

     3

     そろそろ日が落ちるという頃、屋敷の主人が長次郎たちの部屋に現れた。見るだけで上物と分かる羽織袴を身に着けた主人は、昼間出迎えた時と同じく顔に笑みを貼りつけ、脳に心地良い振動を与えるような低い声で、ようやく今夜の任務の内容を説明しはじめる。
    「今回護廷十三隊のお二人方をお呼びしたのは見張りのためです」
    「見張り……ですか。夜盗とか、ならず者でもいるのですか?」
     知霧が尋ねると、主人はいいえと緩く首を振る。
    「相手は……幽霊です」
    「幽霊?」
    「ええ。この屋敷の一番奥に、開かずの間と呼ばれる部屋があります。夜な夜なその部屋から幽霊が現れ、屋敷のものを悪夢へ誘うのです。お二人方にはどうかこの開かずの間を見張っていただき、幽霊の退治をお願いしたく思います」
     長次郎は主人の顔を見る。柔和な笑みから一見すると人の良い男に見えるが、こちらを映す目に媚態が混じっていると知覚した瞬間最初の印象ががらりと変わり、得体の知れない気持ち悪さが湧き上がるのが分かった。護廷の頂点に君臨する元柳斎に対してならまだしも、一体、何故自分たちにそんな目を向けるのだろうか。
     長次郎の首筋を撫でる、ねっとりとした視線。まるで餌を見つけた蛇を連想させるそれに、隙を見せればたちまち丸呑みにしてやるという害意を察知すると、真面目な顔で話す主人とは対照的に、長次郎は背中に薄ら寒いものを感じた。幽霊などただの方便だという直感が胸を占め、その疑惑が確信に変わるのにそう時間は掛からなかった。
    「幽霊に心当たりは? 例えば誰かを殺したことがあるとか、そちらに恨みを持つ人間がいるとか……」
     知霧の問いかけを、主人は素早く否定する。
    「私たちにそのようなことは……」
     千日の言葉を思い出すと主人の言葉の全てが白々しいものに思えてしまい、思わず目を伏せる。何だ。何が目的だ……二つ三つ質問をする知霧の隣で逡巡していた長次郎は、話を終えた主人が席を立つ気配で現実に引き戻される。「では、また夜に」最後にそう言い残して部屋を出た主人に一礼した長次郎は、足音が遠ざかるのを確認すると知霧の傍に寄る。
    「志島殿、やっぱりあの主人、怪しいですよ。幽霊退治なんて馬鹿げた依頼をでっちあげて、私たちを呼び出して……一体何を企んでいるのでしょうか」
     声を潜めるが、知霧は答えない。顔を俯けたままの知霧は、小さく「幽霊か……」と溜め息交じりにこぼすと、それきり何も言わなくなってしまった。
    「幽霊がどうかしたのですか?」
     そう返した瞬間、部屋の外がにわかに騒がしくなり、長次郎は顔を上げる。人の気配が集まる方角に意識を向け、耳を澄ませると数人の話し声と、それらに混じり一際低い声がする。主人の声だ。距離のせいか、声は長次郎の耳に届くころには雑音にしか聞こえない不明瞭な響きとなり、内容を判別することはできない。だがその雰囲気から、あまり良くないことであるとは察することができた。
    「私、様子を伺ってきます」
     未だ何やら思い悩む知霧を部屋に残し、長次郎は騒ぎのもとへと急ぐ。廊下を進み、いくつかの部屋の前を横切ったところでとある部屋が開け放たれていることに気付いた長次郎は、見つかるわけにはいかないと一度その手前で足を止める。すぐそばから人の声が聞こえたので、息を殺して耳をそばだてる。
    「……追い払え。こんな時に、全く」
     まず耳に飛び込んで来たのは主人の声だった。苛立たしげに震わせた声には先ほどの温厚さは微塵もなく、長次郎は本当にあの主人かと驚いてしまった。
    「もししぶといようならば、どうしましょう」
     部屋の中からもう一つ、男の声が聞こえる。来た時から長次郎たちに付き添っている使用人の男だった。主人はふむ、と逡巡すると、
    「奴を呼べ。所詮は旅の男。少し怖い思いをさせれば、どこかへ逃げるだろう」
    と強く言い放った。布が擦れる小さな音がし、畳の上を歩く音がし、長次郎は素早く踵を返して角を曲がり、近くの部屋に身を隠す。
     障子戸の向こうを二人分の足音が通り過ぎるのを聞き届けると、細く戸を開けて廊下に誰もいないことを確かめる。音を立てないようにするりと部屋から出ると来た道を戻り、縁側へと抜け、そのまま外へと飛び出すと、木々を渡って庭をぐるりと探索した。夕餉の支度のためか、それとも騒動のため出払っているのか、周囲に人の姿はない。枝を揺らすと生い茂る葉がざわ、と音を立て、それがやけに大きく聞こえるような気がした。使用人たちに見つからないよう注意を払いながら、長次郎は風を伝って聞こえてくる音を頼りに進む。
     音の源は門だった。塀の上からそっと覗けば、門前には数人の使用人と、その前で平伏する一人の旅人がいた。長い旅路を想起させるような薄汚れた格好の旅人は、遠くから見ただけで分かるその長躯を折り畳み、必死になって地面に頭をこすりつけている。貴族への恐怖のためか、それとも自らの境遇への惨めさのためか……長次郎の耳はそうしてしばらく震えていた旅人が、刀を手に睨みつけてくる使用人たちに向かって何かを訴えているのを拾い上げた。
    「お願いしますだ……泊まるところがねえんでさ……今夜だけでいいから、屋敷の隅っこでもいいから泊めてくんねえ……」
     笠を被っているため旅人の顔は見えない。しかししわがれた声と細い四肢から年寄りの男というのは分かった。時折鼻をすする音を混ぜながら弱々しく話す旅人に、使用人たちはお前を泊めるような場所はない、どこかへ行けと口々に喚き立てている。
     だが、旅人はそれでもその場所を動かない。痺れを切らした使用人の一人が、屋敷の中に向けて大声で叫んだ。
    「おい、奴を呼べ!」
     誰かが走り去る足音が聞こえる。奴とは何のことだ。さっき主人が言っていたことか……考えていると、屋敷から男が出て来た。しかしその体躯に、長次郎は思わず目を見開いた。
    「なんだ、あの男は……」
     現れたのは山のようなと形容するに相応しい大男だった。体の大きな男なら護廷十三隊にも有嬪や乃武綱、煙鉄といった隊長格がいるが、その男は彼らと同じか、下手したらそれ以上の体をしていた。その全身は何も贅肉だけで作られているわけではないようだ。丸太を思わせる腕で脈動する筋肉と、長次郎の何倍もある体幹、そうしてそれらを支える下半身……いずれをとっても並大抵のことでは崩れない、頑丈という言葉が歩いているような男だった。
     喜悦に歪んだ口元は、目の前の旅人をどう追い払おうかを愉しんでいるようにも見える。手に握られているのは、長次郎では到底扱えないような重々しい武器だった。それは男の暴力性を象徴したかのような様相をしている。
    「あれは、金砕棒……」
     金砕棒――通称〝金棒〟。寓話では鬼が持つものとされ、現世では十五世紀末頃に成立されたとされる『鴉鷺合戦物語』にも記述がある武器である。打撃による攻撃に使用される武器で、一般的には金属で作られている。男のものも例に漏れず鉄製で、しかも無数の棘が付いていることから、通常のものよりも殺傷能力が高いと推測される。が、それだけではない。驚くべきはその大きさで、おそらく長次郎の背とそう変わらない金砕棒を、男は片腕で振り回しているのだ。
     「ひいぃ」目の前に金砕棒を突き立てられ、頭を垂れていた旅人は驚きのあまり飛び上がり、腰を抜かしてしまった。大男がもう一度、今度は頭上で金砕棒を振り回し、旅人のすぐ横に落とす。地面に棒先がめり込み、抉れ、乾いた土が舞い上がった。するとすっかり委縮した旅人は、お助け下さい、命だけはと悲鳴に近い声を上げながら大男に背を向け、どこかへ逃げ去ってしまった。
     あんなもので殴られたら、自分だってひとたまりもない。そう考えると背筋が粟立つ思いがした長次郎は、大男と使用人たちが屋敷に戻るのを見ると、再び木々の間を縫いながら知霧のいる部屋まで戻る。
     庭から上がり込み縁側を横切って部屋に入ると、俯き加減で目を閉じていた知霧が緩慢に顔を上げ、長次郎を見た。
    「おう、戻ったか。どうだった?」
     長次郎は他の部屋に聞こえないよう声量を抑えると「実は」と門前でのできごとを話しはじめる。その話に黙って耳を傾けていた知霧は、一通り聞き終わると小さく息を吐き、困惑を滲ませながら言う。
    「まさかこの家にそんな偉丈夫がいたとは……隠密なのに随分と剣呑な話じゃねえか。他の隊長たちならまだしも、体格で劣る志島さんや長次郎だと苦労しそうだ。なるべくなら相手にしたくないな」
    「来る前に元柳斎殿からその男の話を聞いており……護廷十三隊の創設でこの家の主人が元柳斎殿と会った際、その男も同行していたとのことです」
    「じゃあただの用心棒なんかじゃなくて、この家でも古株ってことか。ますます厄介だな」
     顎に手をやり思考を巡らせる知霧の次の言葉を、長次郎は背筋を伸ばして膝の上で拳を握ったままじっと待っている。知霧は自分を納得させるように、うん、と一つ小さく頷くと、視線を畳に向けたまま口を開く。
    「この家、隠密を生業としていたからてっきり人海戦術が得意なのかと思ったが、そうじゃないらしい。広さの割には人が少ないんだ。多分二十人かそこらしかいない」
    「何故そんなことを」
    「さっき素振りするって庭に出ただろ? そこでちょっと辺りを窺ってたんだよ。家の中に十人、塀の外の警備に十人とちょっと、あとは数人が出たり入ったり……」
     知霧は唇を舐めると、今度は目だけで長次郎を見る。
    「これは憶測だが、使用人たちは最低限の戦いしかできないように思える。何と言うか、実践慣れしている感じがしないんだ。だってそうだろ? もしこっちに害を加えるつもりなら、昼寝していたときに仕掛けてくる話だ。隠密ってのは正々堂々戦うことを主とするんじゃない。任務を遂行して情報を持ち帰ることに重きを置く。だから相手の隙を突くはずだ。だがこの家にはそれがない。しかも使用人たちはこれ見よがしに帯刀している。なんていうか、戦が得意な使用人じゃなくて、使用人のかたわらで戦をするみたいな、そんな匂いがする。だから始末しようとすればすぐにできるだろう……大男以外は」
    「……使用人たちは始末しますか?」
    「いや、それだとここに来た意味がなくなる。この家の企みを暴く、それが今回の任務だ。だから主人たちの口から全て洗いざらい話してもらう必要がある。主人と使用人たちは最低限、話せる状態にはしておく必要がある。だが大男はそうはいかねえ。捕獲なんてあまっちょろいこと言ってると今度はこっちが御陀仏だ。だからいざという時は志島さんの指示に従え……いいな?」
     緊張を孕んだ声を真正面から受けた長次郎は、どくりと心臓がはねる音を聞いた。知霧の目は無感情を装っていたが、その下には決して表に出すことはない、恐怖という感情が停滞している。その恐怖の上に塗りたくられているのが、未知の領域へ足を踏み入れる時に現れる曖昧な不安に己が精神を汚染される屈辱だ。相反する感情に押し潰されぬよう自らを律するその様子は、まるで死地に行く兵のよう。一歩間違えば全てが破綻してしまいそうな禍々しい視線を浴びた長次郎は、脳裏に元柳斎の声を聞いた。
     必ず無事に儂のもとへ帰ってこい。儂の目の届かぬ場所で散るなど、許さぬ。
     あのお方が、私の帰りを望んでくれる。この命が散るその時まで、傍にいることを許してくれている。元柳斎の厳命に恍惚にも似た喜びが湧き上がり、身が奮い立つ心地になった長次郎は、決然とした気持ちを込めて知霧の言葉に頷く。
    「元柳斎殿のため、私は生きて帰らなければならないのです」
     その言葉に、知霧の瞳が小さく揺れた。一瞬だけ、人が涙を流す手前に見せる感情のぶれを感じ取ったが、それはすぐに消え去り、代わりに目の奥に小さな炎を見た。知霧の黒い目が、燦然と輝く夕日を受けて強い光を放っている。
    「そうだな。死ぬわけにはいかねえよな」
     呟いた知霧は、脇に置いた斬魄刀を強く握り締めた。鞘と鍔が触れる高い音が、僅かに軽くなった空気の中で小さく響く。その音に高揚よりも一粒の寂しさを感じ取った長次郎は、頭の中で違和感が広がっていく。なんだ、この感覚は……。その理由を確かめられないまま使用人が部屋を訪れ、夕餉が運ばれ、長次郎と知霧は幽霊退治の依頼を受ける人間の顔に戻り……そうして長い夜を迎えることとなった。

     4

    「いやあ、美味い飯だったな」
     夕方の緊迫感はどこへ行ったのか、部屋でごろりと横になった知霧は上機嫌で膨れた腹をさすりながら言う。横で斬魄刀の手入れをしていた長次郎は、使用人たちにはとても見せることなどできないだらしない姿に思わず息を吐いた。
    「志島殿、その細い体のどこに入るのですか」
    「入るところにはちゃんと入るんだよ」
    「食べ過ぎで具合が悪くなっても知りませんよ」
     すると知霧は、何を言っていると言いたげな顔を向けて来る。
    「あのなあ、食べることが良くないみたいに言ってるけどな、人間の体っていうのは食べたものでできているんだぞ。だから食べなければ体も作られないし力にもならない。そうしたら何も成し遂げられないじゃないか。いいか、食べるっていうのは大切だ。けれどもただ漫然と食べるんじゃなくて、食べ物に感謝しながら食べるんだぞ」
    「言っていることはまともなのですが、私の鰻を横からかっさらった志島殿のそれは食い意地が張っていると言うのですよ。鱧のお吸い物なんておかわりまでしてましたし……」
    「いいじゃんか。美味かったんだから」
     そう言うと、知霧はそれきり目を瞑り仮眠の体勢に入ってしまった。静まり返った部屋で、何をしようかしばらく逡巡していた長次郎だが、やがて知霧と同じように畳の上に寝転がり、瞼を閉じる。夜が更けるまでまだ時間がある。それまで体力を温存しよう。考えていると思考に靄がかかり、やがてしばしの眠りに入る。


     部屋の外に広がる夜の闇が濃密になり、部屋の温度から熱が抜けてゆく頃。再び意識を浮上させた長次郎たちは、障子戸の前に誰かの気配を感じると一瞬で身を起こし、脇に置いた斬魄刀を手に取る。しかしその気配が慇懃に「失礼致します」と言いゆっくりと戸を開けると、長次郎は上げかけた腰を静かに下ろした。
     現れたのは屋敷の使用人だった。使用人は膝を付いて仰々しく頭を下げる。
    「そろそろお時間ですので、開かずの間までご案内いたします」
     にい、と笑った顔が傍らの手燭の炎に照らされ、ぬらりと揺らめいている。影の部分は濃い墨色で、光の部分は眩い山吹色。二極に別れた色合いは、使用人の表情をくっきりと夜闇に浮かび上がらせ、その怪しさを強調している。まるで自分たちを黄泉へと誘うような禍々しさすら感じる笑みに薄寒いものを感じた長次郎だったが、その悪寒がすぐについにこの時が来たか、という興奮に上書きされ、心臓の鼓動が早くなるのを実感した。
    「行きましょう」
     そう席を立ち、先導する使用人の後に続こうとした長次郎だが、袖口を軽く引かれて動きを止めることとなった。相手は知霧だった。「さて長次郎、一つだけ伝えておかなければならないことがある」真剣な面持ちでそう切り出した知霧は、次にはこんなことをのたまった。
    「自分、幽霊が怖いんだ」
     思ってもみなかった言葉に、長次郎は「は……?」と、気の抜けた声を出す。
    「あの、怖いってどういう……」
    「実体がないのに人に危害を加えたり恐怖を与えるとか、恐ろしい以外感じない……!」
     ふざけている素振りも冗談を言っている様子も感じられない知霧の顔は普段のけだるさが微塵も見当たらない、本気としか言いようのない形相で、その勢いに圧倒されかけた長次郎は思わず「そんなことでどうするのですか!」と叫んでいた。
    「あなた、それでも隊長格ですか! もしかして、この世で一番怖いものは人の心とか思っているのですか?」
     すると知霧の顔がさっと青ざめ、
    「長次郎、それ……怖すぎるだろ……!」
    と、今にも泣きそうな顔で答えた。もしかすると、夕方ずっと思い悩んでいたのはこのことか。だとしたら、心配して損した気分だ……何とも情けない上官の顔に呆れを通り越して憐れみすら感じてしまった長次郎は、喉までこみあげた文句を何とか腹の底にしまい込み、憐憫を含んだ視線を向けた。
    「ちょっと、泣かないでくださいよ。大丈夫ですって。幽霊なんていませんって」
    「そんなの分からないじゃないか……! 夜だぞ? もしかしたら、本当に幽霊が出るかもしれない……!」
    「はあ、全く。任務はできますか?」
     「大丈夫だ、方法はある」力強く答えた知霧の言葉に、長次郎は「おお」と感嘆の声を上げた。やはり臆病でも隊長格は隊長格。身を乗り出してその先の言葉を聞く。
    「それで、どうするのです」
    「長次郎、志島さんから離れないでください」
     「馬鹿ですか」長次郎は即座にそう吐き捨てた。


     二人のやりとりを心配そうに眺めていた使用人を促し、部屋を出た長次郎たちは開かずの間への道を歩きはじめる。使用人が掲げる手燭の炎が目の前で小さく、けれども強烈に輝き、細い廊下をぼうと照らす。屋敷の人間はすでに就寝しているのか、廊下には隅から隅まで静寂が降りており、物音一つしなかった。
     その中で唯一聞こえるのは三人分の不規則な足音だった。足袋を履いている使用人と長次郎は足が床に触れる時の微かな振動音。裸足の知霧は、床から足裏が離れる時の摩擦音。一歩一歩踏み締めるという表現そのままのゆったりとした足取りで先頭を行く使用人の背中を見据えながら、長次郎は自分の腕の重さに意識をやった。
    「……志島殿、そんなにべたっとくっつかないでください。暑苦しいです」
     長次郎の左腕を両手で抱きしめるようにくっついている知霧に言うと、知霧は眉を下げたまま、媚びるような声を出す。
    「そんなつれないことを言わないでくれ。今度美味いもん食わせてやるからさ」
    「私は志島殿ではないので食べ物ではつられません」
    「あいすくりん……」
    「うっ……」
    「ほら、食いたいだろ?」
    「いやいや、耳元で喋らないでください。生温かい息が掛かって正直気持ち悪いです……」
     思わず小声で言い返すと、知霧はそれまで浮かべていた恐怖に険を乗せ、わずかに目を吊り上げて長次郎に言い返す。
    「なんでお前はそんな酷いことを言えるんだよ! 人でなし! 鬼! 悪魔! 執行乃武綱!」
    「最後のは許せません。志島殿は言って良いことと悪いことの区別も付かないのですか?」
     その時、長次郎は背後から視線を感じて振り向いた。廊下の奥には濃い闇が停滞しているだけでそこに人の気配はない。なんだ、今のは。使用人とも知霧とも違う視線は、言うなれば自分たちを見張っているような鋭いもので……その冷たさに撫で上げられた首筋を押さえながら、長次郎はじっと闇を見つめていた。
    「おい、なんで何もないところを見つめているんだよ」
     長次郎の様子に体を震わせた知霧が、弱々しくそう尋ねる。それに対し、長次郎が闇に目を向けながら「視線を感じませんか?」と問えば、知霧は喉からか細い声を上げた。
    「いやぁぁぁ……そんなこと言わないで……。執行乃武綱って悪態吐いたこと、謝るから……!」
     痛々しさすら感じる声に見ていられなくなったのか、前を歩いていた使用人が心配そうに振り向いた。
    「あの……志島様は大丈夫でしょうか?」
    「大丈夫です。この人には構わず早く行きましょう」
     こうなったら自分がしっかりするしかない。声に出さずそう決意した長次郎は、その場に座り込みかねない知霧の腕を力いっぱい引っ張り、使用人の後についてゆく。


     屋敷の奥へと進むにつれ感じていたおぞましさは、開かずの間まで続いていた。廊下のつきあたりに位置するその部屋は戸が固く閉められており、しんとした空気の中でも異様な存在感を放っていた。
     案内を終えた使用人は、長次郎が持っていた手燭に火を分けると、「それではお願いします」と頭を下げて廊下を戻って行ってしまう。闇の中に使用人の姿が見えなくなったのを確認した長次郎は、ひとしきり怯えたせいですでに顔に疲労を浮かべている知霧に向かって「でははじめましょうか」と声を掛ける。
     知霧は首を縦にすると、開かずの間の戸に手をかけ、軽く横に引こうとした。しかし、戸はびくともしない。今度は力を込めて動かそうとするも、結果は変わらず、一向に開こうとしない。
    「これは……」
     知霧の顔から表情が消え、声は深刻さを増す。その様子に自分の顔も固くなるのを感じた長次郎は、他の部屋に聞こえないよう「何か分かったのですか?」と声を潜めた。
    「この戸……開かないじゃないか」
    「開かずの間だって言ってたじゃないですか。話聞いてました?」
     長次郎の突っ込みを聞きながら、知霧はもう一度組子に指を掛ける。息を吸い、そして大きく吐いた知霧は、不意に視線を落とし、自分の足元を見た。
     その目が、少しだけ見開かれる。即座に膝を付き、床に顔を近付けた知霧は木の感触を皮膚で味わうように戸の根元に指を這わせると、はは、と気の抜けたような笑い声を上げた。
    「志島殿? どうしたんですか」
    「どおりで開かないわけだ。長次郎、見てみろよ」
     知霧が戸の下のほう――二枚の障子戸がちょうど互い違いになっている部分を指差すので、長次郎も手燭を近付け、その場所を注視する。最初は枯茶色の桟と同化しておりすぐには見つけられなかったが、やがて障子に掛かるように、何やら黒いものが互い違いの障子戸に引っかけるように設置されているのが分かった。触れてみると、冷たさが直に伝わって来る。金属製のようだ。
    「なんですか、これ」
    「たぶん、卍手裏剣に手を加えたものだ」
     知霧は金属に爪を掛け、外そうとしながら話を続ける。
    「手裏剣にはいくつか種類があって、その一つに卍手裏剣っていうのがある。その名の通り〝卍〟の形をした手裏剣だ。おそらくだが、これはその卍手裏剣の四本の刃先のうち、対する二本を取り払ったものだ。そうすると〝乙〟みたいな形になるだろ? その乙の形をした金属を、しっかり閉じた襖や障子の二枚の間に、床と垂直になるよう差し込んで、互い違いの部分で寝かせると……乙の字の曲がった部分がそれぞれ襖の角に引っ掛かって、戸を動かせなくなるんだ」
    「よく気付きましたね。というか、手裏剣のことなんてどこで……」
    「前に四楓院の若君に現世の道具を見せてもらったことがあって、少しだけ教えてもらったんだ。それにしても……」
     金属が動かないと分かると、知霧は外すことを諦め、悄然とこちらを見下ろす障子戸を睨みつけた。
    「……これは人の手によってわざと開けられなくなっている。どうも怪しいな、この部屋」
    「鬼道でこじ開けて、無理矢理入りますか?」
    「そうすると音で屋敷の人間が起きちまう。何か方法は……」
     膝立ちだった知霧がその場にどかっと座り込み、考える体勢を取った時だった。足元から小刻みの振動が伝わり、長次郎と知霧は顔を見合わせた。どたどたと聞こえる音は誰かが駆けて来る音のようで、大きくなる足音とともに小さく揺らめいていた灯りが近付くと、長次郎は何事かと顔を上げた。
     走って来たのは先ほどの使用人だった。慌てた様子の使用人は、二人の前で立ち止まると、びっしりと額に浮かんだ汗の玉を拭うこともせず「雀部様、大変です!」と息せき切ったまま言った。
    「今、瀞霊廷の山本様から緊急の文が届きまして……こちらへ来てください!」
    「元柳斎殿から……すぐに行きます!」
     長次郎は手燭を知霧に預けると、使用人の後に続いてその場を離れようとする。すると、それまで平静を装っていた知霧が急に狼狽えはじめ、再び先ほどの恐怖を顔に浮かべ、縋りつくような声を上げた。
    「長次郎様ぁ、自分を置いて行かないでくださいぃぃぃ……!」
    「緊急事態です! すぐに戻ってきますので、志島殿は一人でここにいてください!」
     長次郎から死刑宣告同然の言葉を聞いた知霧は、情けない悲鳴を上げながらへたりこみ、その場にうずくまってしまった。涙を溜めた知霧の目に射抜かれ、胸の中に可哀想と思う気持ちがなかったわけではない。だが、それよりも相手が元柳斎の名前を出して来たこの機を生かさない手はない、と長次郎は思っていた。
     切迫感を浮かべた使用人の顔を見る。蝋燭の火を受けた黒目を覗くと、その奥には深海を思わせる底なしの黒さが広がっている。しかしその黒は決して静謐ではなく、ほんの少し感情の揺らぎを示すように、蠢いた黒が震えているのが見えた。
     張り付けた表情の下に、別の思惑がある。そう確信した長次郎は口元を引き結ぶと、行きましょう、と使用人に声を掛け、開かずの間から離れた。

     5

     眠りにつく人々を見守るような冷たい夜闇とは対照的に、長次郎は自分の心臓が早鐘を打つ音を聞いていた。競り上がる緊張に今にもここから飛び出したい衝動に駆られたが、真一文字に閉じた唇の下で何とか抑え込むと、自分の動揺を悟られないよう、努めてゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「文、ということは瀞霊廷から誰か来たのですか?」
     すると使用人は、虚を突かれたような声で「え、ええ、先程」としどろもどろに答えた。前を歩いているためその顔は見えない。
    「それにしては玄関が静かだったようですが」
    「時間も時間なので、裏から参ったのです」
    「元柳斎殿からの連絡の際は隊長の誰かを寄越すことになっております。どなたが来ましたか?」
     問い返すと、使用人は言葉に詰まったのか、すぐに返事はなかった。さて、どう返してくるか。じっと待っていると、やや間を開けてから「白い隊長羽織を着ていましたが、暗くて顔は良く見えませんでした」と曖昧な答えが飛んできたので、長次郎は更に畳みかける。
    「隊長格ならば名乗るはずです」
    「わたくしも気が動転していたので、よく聞き取れず……」
     長次郎は斬魄刀に手を掛けた。手のひらに滲んだ汗が、夜風に触れて湿った皮膚をひやりと冷やす。
    「……もしかして、来たのは斎藤不老不死殿でしょうか。小柄で、髪を二つに結った……」
    「ああ、確かその人です」
     使用人が肯定した瞬間、長次郎はすばやく刀を抜き、男の首筋に当てた。手燭の炎を浴びて鈍く輝く銀色を視界の端に捉えた使用人は、その鋭さに短い声を上げると廊下の壁へと背中を預け、ずるずるとその場にへたり込む。恐怖を湛えた目が長次郎を見上げると、震える声で尋ねてきた。
    「雀部様、何を……」
    「斎藤殿は今日、夜通しの任務に就いているはず……ここに来るなどありえません。詰めが甘かったようですね」
     「立て」胸倉を掴み、足が言うことを聞かなくなった使用人を無理矢理立たせると、切っ先を向けたまま歩くよう促す。
    「主人のところに案内してください。あなた方の目的を話していただきます」
     長次郎の言葉に反応したのは使用人ではなかった。静寂の中から「言われずともそのつもりですよ」という声が差し込まれ、長次郎は声の方を見る。闇から染み出すように現れたのは屋敷の主人だった。主人は長次郎の横で顔を青くしている使用人を一瞥すると、すぐにこちらに視線を引き戻し「雀部殿、うちの使用人に手荒な真似はお止めください」と困ったように笑って見せた。
    「元柳斎殿の名を使って私を呼び出したそちらに言われる筋合いはありません」
    「争うつもりはございません……どうぞこちらへ」
     長次郎は、腹の底が見えない主人にどう返すべきか一瞬迷ったが、すぐに刀を鞘に納め、使用人を解放し、追従の意志を示した。すると満足そうに頷いた主人は、ついて来いと言わんばかりに長次郎に背を向けると、廊下を歩きはじめる。
     知霧は一人で見張りを続けられているだろうか。つい先ほどまで聞こえてきたすすり泣きがぴたりとやんだことに逆に不気味さを覚えた長次郎は、知霧の姿を思い浮かべる。知霧が幽霊に怯えるあんな姿など、いままで見たこともない。過剰とも言える言動に頭の片隅で違和感が引っ掛かった長次郎は、部屋の前で立ち止まった主人が障子戸を開ける音で現実に引き戻された。
     燭台にはすでに明かりが灯されていた。主が戻るのを待ちわびていたようにふるりと尾を揺らした炎は、くまなく見せつけるように部屋の中をぼんやりと照らしている。六帖ほどの座敷は一切の調度品が排され、物という物が存在しないためか酷く殺風景で、静けさに拍車を掛けているような気がした。部屋には掛け軸や床の間すらなく、四方は戸に囲まれている。廊下とその対面の縁側は障子戸に、他の二方は隣へ続く襖だ。
     神経を研ぎ澄ました長次郎は、部屋の周りにいくつかの気配があるのを察知した。縁側に三つ、隣室に四つか五つ。上手く誘い込まれたかと内心舌打ちをしたところで、部屋の中央に座った主人の「雀部様は酒は嗜みますかな」という声を聞いた。使用人を下がらせ、長次郎と二人きりになったにもかかわらず余裕を装った穏やかな声が却って自分を煽り立てているように感じられ、腹の底からじれったさが競り上がるのを知覚すると「単刀直入に聞きます。何が目的ですか」と直接的な言葉が長次郎の口をついた。
     主人は口元に刻んだ笑みをそのままに、手で自分の前を指し示す。どうやら座れと言っているらしい。ここまで来たらなるようにしかならない。覚悟を決めると、長次郎は目の前に腰を下ろし、何を考えているか分からない主人の顔を一直線に見た。主人は、相変わらずの声色で話をはじめる。
    「あなたの働きぶりは耳にしております。お若いのに山本総隊長の側近として、目を見張る活躍をされてらっしゃるとか」
    「……お褒めに預かり光栄です」
    「あなたのように実力があり、聡明な若者だからこそあの山本総隊長も信頼を置くのでしょうね」
     並べられた賛辞は、こちらに取り入ろうという魂胆が透けて見える色合いをしていた。自分が聞きたいのはそんな言葉ではない。なかなか本題に入らない話に苛立ちを感じているのが伝わったのか、主人は目を細めると自分の懐に手を入れ、小さな包みを取り出した。濃紫の風呂敷でくるまれ、いかにも大切なものを入れていると主張する包みは、長次郎の前にぽんと置かれ、開かれる時を待っている。
     長次郎は風呂敷の袷を摘み、そっと開いた。中からは更に白い和紙の包みが現れる。人の足跡を思わせる楕円形から、包封を開かなくてもそこに何があるのかなど容易に理解できた。小判だ。それも、重ねられた高さを見るに相当な数の。
     あっさりと出された大金に、いよいよ不穏が増したのを肌で感じ取り、長次郎は主人を睨みつけた。
    「……なんのつもりですか」
    「今回あなた方に任務を依頼した本当の理由はただ一つ。山本総隊長の懐刀であるあなたに相談があったからです」
    「私に何かをしろ、と?」
    「しろなどと乱暴な言い方は致しません。あなたがこちらの話を聞いてくれれば、ですが……」
     主人は腕を組むと、長次郎を矯めつ眇めつ眺める。まるでこちらが自分にふさわしいかどうか、命の価値を品定めするようないやらしい視線に、臓腑の奥で燻っていた苛立ちが怒りに変わろうとした時、ようやく主人が今回の本題を口にした。
    「山本総隊長と我が家を結んでいただきたいのです」
     「結ぶ……?」長次郎は訝しげに首を傾げる。
    「あなた方は護廷十三隊の創設の時、すでに元柳斎殿と顔を合わせているでしょう。今更私を介さずとも……」
    「分かりやすく言いましょう……四楓院の失脚にご協力願いたい」
     長次郎は息を呑んだ。内容だけではない。主人が顔に張り付けた笑みから穏便さが取り払われ、苛烈さと下劣さで一瞬のうちに劇的な色を帯びると、その変わりように背筋の産毛がぞわりと立ちあがった。部屋の隅で揺れる炎がまるで人の本性の汚らわしい部分だけを集約するための誘蛾灯のように思え、長次郎は途端に居心地が悪くなった。饐えた匂いが鼻を突く。屋敷の匂いというよりは、精神的な気分が、だ。
     そうして顔をしかめた長次郎に構わず、主人は顔の笑みを濃くする。
    「我が家も貴族ではありますが四楓院と同じ隠密を生業としていた家……かの家ともそれはそれは懇意にしておりましたのです。自惚れと言われてしまうかもしれませんが、実力もかの家とほぼ互角。優秀な家人もおりました。けれども護廷十三隊の隊長の選出は四楓院という結果となってしまった……」
     主人は一度息を吐くと、自らの境遇を哀れむような弱々しい目を作る。
    「これはきっと四楓院が裏から手を回したからに決まっております。そのように卑劣な輩が瀞霊廷を護るなどという大それたことを成し遂げられるはずがありません」
    「……四楓院を失脚させて、そのあとはどうするおつもりですか」
     長次郎が話に乗って来たことが嬉しかったのか、主人の顔に喜色が宿る。
    「我々が瀞霊廷のため、力を尽くしましょう」
    「仮に隊長格となって、そうしてやっていけますか? 隊長格は大罪人もいるほどの曲者揃い。この家は生き残れますか?」
    「我らも辛酸を舐めながらここまで生き残って参りました。並大抵の困難など、どうということは……」
    「舐めたのは辛酸ではなく、世の中では? 目の上のたんこぶを排するやり方が快く思われるとでも?」
     主人の顔から笑みが消えた。ふつふつと湧き上がる怒りを目の奥に確かめると同時に室外の気配がざわめくのを感じ取った。来るかと思いながらも、長次郎は主人から目を離さなかった。ここで気圧されたはいけない。毅然とした態度を貫こうと自らに喝を入れると、鋭い眼差しのまま言い放つ。
    「あなたの所業はこの家を見ればわかります。戦いに不慣れな使用人と、明らかに少ない人員。おそらく邪魔になった人材は密かに始末してきたのでしょう。もしくは、逃げられたか……そんな家に何ができましょう。私どもは、あなた方が四楓院の人間を消して来たのも耳に入れております。味方を平気で蹴落とすような家を、元柳斎殿が迎え入れるとでも?」
     首筋に、ひやりとしたものが当てられた。主人が刀を抜き、こちらに向けて来たのだ。すっかり敵意に染まった目に射抜かれるも、長次郎は怯むことなく、それどころか思考が鮮明に研ぎ澄まされていくのを感じながら、決然と言葉を紡ぐ。
    「あなたのご相談、お断りします。厳原殿の部屋から盗んだ書類も返していただきます」
    「断れる立場とお思いかな。言うことを聞いたほうが身のためだぞ。さあ、協力しろ」
     それが主人にとって最後通告だということはすぐに分かった。一際輝く刀身を視界の端に見ながら、長次郎はどうするべきかと逡巡する。
     部屋の外の人間と主人を会わせて、十人。一度に相手をしてもいいが、果たして勝算はあるだろうか。屋外ならばまだしも、ここは狭い空間。一斉に切りかかれたら上に逃げるという選択肢はなくなる。ならば、大声で知霧を呼ぶか……いや、あの状態でまともに戦える保障などない。今ここで主人を斬り伏せてしまうか。だがそれはつまり、この任務の失敗を意味してしまう。何かいい手はないか……。
     いっそのこと、ここで一度従う素振りを見せ、相手を油断させようか。そんな考えがよぎるが、すぐに頭を振って取り払った。それはつまり、嘘でも四楓院の失脚に協力すると誓うことになるからだ。
     脳裏にお前たちの身の安全が最優先だ、と言った千日の顔が浮かび、長次郎の決意は固まった。ここで従ったら、自分たちの身を案じてくれた千日に顔向けできない……!
    「私は、四楓院殿を裏切ることなどできない」
     すると、主人の顔が愉悦に歪められ、長次郎に向けられた。まるでその言葉を待っていたかのような反応に、長次郎は何か取り返しのつかないことをしたのではないかという不安が競り上がり、頬をこわばらせる。
    「……つまり、他の仲間を見捨てるということだな」
    「それは一体、どういう……」
     長次郎が呟いた時だった。遠くからぎゃあああ! という叫び声が闇を引き裂き、耳に飛び込んで来た。その声は先程、幽霊に震えていたあの声と全く同じもので、長次郎は弾かれたように立ち上がった。
    「今のは志島殿の!」
     部屋から飛び出そうとした時だった。入り口以外の三方の戸が一斉に開き、刀を構えた屋敷の人間が現れ、長次郎を取り囲んだ。数にして、ちょうど十人。統率の取れた動きに自らの浅薄さを恨んだ長次郎は、刃の向こうに立つ主人を睨みつけることしかできない。
    「なんのためにお前をここまで追い込んだと思う。幽霊などと馬鹿げた恐怖に震える人間など取るに足らない……あのもやし男を人質にするためだ」
     潔癖を通し、馬鹿正直に答えた結果がこのざまだ。そのせいで知霧を危険な目に合わせてしまった……絶望に打ちひしがれ頭を垂れるしかない長次郎に、主人は蔑みを浴びせかける。
    「流石は血も涙もない護廷十三隊。仲間など簡単に捨てられるその非情さ、我らとどう違う?」
     重ねられた失策に自分の敗北を掘り下げられる心地となった長次郎は、無意識に奥歯を噛んでいた。主人の言葉を認めたくないという意地が喉までこみ上がり「一緒にしないでいただきたい」と絞り出すことしかできなかった。
    「何が違う。お前も山本重國と同じということだな。人の心を持たず、他人の命など物同然に扱い、世界を火の海に包む化け物。先の滅却師との戦いを見てみろ。この尸魂界は屍が焼ける匂いと鮮血に満たされ、地獄もかくやという光景になった。あの紅の世界を生み出した元凶は山本重國その人だ」
    「元柳斎殿を侮辱するな!」
     主人の口から哄笑が噴き出る。それは部屋の空気を震わせ、長次郎の後悔を炙り、腹に鉛の重さが沈んでゆく。
    「おい、あのもやし男を連れて来い。もう不要だ。お望み通り、こいつの目の前で斬ってくれよう」
     廊下から足音が聞こえ、部屋の前で止まった。誰かが戸の向こうに佇んでいる気配がする。しかし気配は部屋の前で留まったまま戸を開けることなく、部屋には奇妙な沈黙が降りる。「どうした、早くしろ!」痺れを切らした主人が怒鳴ったところでようやく障子戸が開かれ、部屋の中に人影が飛び込んで来た。
     畳の上に転がされた男を見て、主人だけでなく長次郎も瞠目した。そこには長次郎を誘い出したあの使用人が、虫の息になっていたからだ。
     その場にいた全員の注目が、部屋の入口へと注がれる。
    「いやー、助かりましたよ。ちょっと幽霊が怖いと怯えてみせただけですっかり油断してくれたんですから」
     そう言いながら廊下から現れたのは知霧だった。さっきまでの怯えはどこ吹く風。普段のけだるさを取り戻した知霧は、唖然とする一同に向けて「おかげで屋敷の探索も進みました」と飄々と言い放ってみせた。
    「そっちには三人送ったはず!」
     泡を食った主人の問いを、知霧は鼻で笑ってはねのけた。
    「たった三人ですか。護廷十三隊の隊長が舐められたもんですねえ。桁が一つ足りねえんですよ」
     知霧は手に持っていた紙の束を主人に掲げて見せた。紙にはまるで書物のようにびっしりと文字が羅列されており、縷々と何かが記されている。それが何か理解したのか、紙の束を目にした主人は蒼白を通り越して青くなった顔に焦りを滲ませながら口をぱくぱくと動かし「それをどこで」と小さく漏らした。
    「開かずの間で見つけました。護廷十三隊全員の情報。落ちぶれても隠密。よくもまあここまで集めましたね」
     知霧はそう言うと、紙を何枚か捲って内容をあらためる。
    「志島知霧、四番隊隊長。そばかすに猫背。幽霊が怖い。食い意地が張っている……悪かったですね」
     紙を一枚捲る音が部屋に響く。
    「雀部長次郎。一番隊。山本重國の側近。白毛で実直。声が大きく良く吠える……長次郎は犬か何かですかね?」
     読み上げた知霧は再び紙を捲り、文字に目を落とす。
    「執行乃武綱。七番隊隊長。顔色が悪い髭面の男。中年~壮年。最近枕からおっさんの匂いがするのが気になっている……これはまあ事実なのでいいでしょう」
     にやりと悪どい笑みを浮かべた知霧は、今度は別の紙束を取り出し、何も言えなくなった主人に畳みかけた。
    「ふざけた内容だけじゃなくて機密書類もありますね。それだけじゃない。四楓院を含めた他の貴族のものまで。凄いですね。これ、表に出たらそちらの立場が危うくなるのでは?」
     仮にこの情報の内容が衆目に晒された際、真っ先に声を上げるのは知らず知らずのうちに内情を調べ上げられた貴族たちだ。人は決して明るい道ばかり歩くわけではなく、時には後ろ暗い世界に足を踏み入れなければならないこともある。大なり小なり、何らかの罪を抱いて生きている。その罪を弱みと付け込まれ利用される生など、選びたい人間はいないだろう。
     ほんの少しの時間で自分の置かれた立場が逆転してしまったことを理解した主人は、「お前たち、こいつらを仕留めろ! 私は奴を呼ぶ!」と周囲の使用人に命ずるとこちらに背中を向け、隣の部屋に逃げ出してしまった。あっさりと尻尾を巻いた負け犬に拍子抜けしながらも長次郎が斬魄刀を抜くと、使用人たちがじりじりと距離を詰めて来る。刃は知霧にも向けられているはずだが、どういうわけか知霧が斬魄刀に手を掛ける素振りは見せない。
    「うーん、こちらも聞きたいことが山ほどあるので倒すわけにはいかねえし……」
     ぽりぽりと頭を掻きながら唸っていると、やがて知霧はぽんと手を叩き、思い付いたと言わんばかりに表情を明るくした。
    「あ、そうだ……いいか、長次郎。頑張って解くんだぞ」
     満面の笑みを浮かべて発せられた意味深な言葉に、長次郎が何をですか、と尋ねようとした時だった。
    「縛道の一〝塞〟」
     知霧が縛道を発動し、長次郎を含めた部屋にいる人間全員の体を後ろ手で拘束した。突然体の自由がきかなくなった使用人たちは縛られた衝撃で刀を落とすと小さくたたらを踏み、皆一様にその場に崩れ落ちた。縛られた腕を力づくで解こうとするための、喉から絞るような呻き声が部屋のそこかしこから聞こえる。
     それは長次郎も同じだった。
    「なんで私まで!」
     抗議の声を上げると、知霧は「悪いな」と悪びれもなく答えた。
    「いくら志島さんでも、一人だけ抜かすことなんてできないんだ」
     知霧が斬魄刀を鞘から抜くと、細い金属音が落ちて来る。小刻みに揺れる切っ先を見た長次郎が刀身を辿って持ち主の手元に目をやると、白い手がかすかに震えていることに気付いた。視線を更に上に向ける。先程までとは打って変わって、知霧は顔からすっと笑みを消し、主人が去った方に目を据えていた。それまで抱いていた一切の感情を拭い、暗闇を掬い取るといわんばかりに神経を集中させた知霧の口角は僅かに下がっており、それが極度の緊張の表れだと理解するのに時間は掛からなかった。
     長次郎の視線に気付いた知霧は、無理矢理口角を上げ、なんともぎこちない笑みを作ってみせると、固い声で言う。
    「この先には、きっと奴がいる。お前が言ってた偉丈夫が……伝わってこないか? 強大で、凶暴な気配を。志島さんは今から向こうに行く」
    「ならばこれを解いてください。尚更私がいた方がいいでしょう」
    「いいや、連れて行かない。お前は足手まといになる」
    「……なんですって」
    「お前はそれを解いたら、山本の旦那のところへ戻れ。そして他の隊長を連れて来い。志島さんは、こいつらを逃がさないよう見張っているから……」
     言い残すと、知霧は主人の後を追って隣の部屋へと向かってしまった。乾いた足音が遠ざかる音につれ強烈な焦燥感に襲われた長次郎は、縛道を解こうと必死に体をくねらせながらその場でもがいている。
     知霧は最初からこのつもりだったのだ。夕方言われた、指示に従えという言葉の意味をはじめて正しく理解した長次郎は、悔しさに唇を噛む。最初から自分を逃がすつもりでこんな手の込んだ真似をしたのだ。そう実感すると、目の前の暗闇がぼんやりと滲んだ。悔しい、ただ悔しい。知霧の思考が、これが最適解だとはじき出したゆえの結果だとは分かっていても、だ。
     だがそれだけではない。知霧の胸を占めているのは隊長の矜持――意地と呼ぶものだ。たとえこの地で殉じようとも、意地を貫きたいという思いがひしひしと伝わり、長次郎はいてもたってもいられなかった。
    「解けろ……早く解けろ……!」
     縛られた手に意識をやるが、縛道はなかなか解けない。下級の術とはいえ、知霧の霊力を込められているならば相応の力を持っているはずだ。おそらく周りで足掻いている使用人たちはしばらく自由にはなれないだろう。
     こんなことで足止めを食らうとは……力が及ばない自分への苛立ちと焦りが肋骨の下でない交ぜになり、汚濁となって停滞し、意味のなさない呻きとなって歯列の間から漏れ出る。早く、早く行かなければ、知霧が危ない。長次郎の目尻から熱いものが一粒、頬を滑り落ちた。涙が畳に落ちる微かな音が、耳朶を打った時だった。
    「仕方ねえな」
     どこからともなく声が聞こえると、長次郎の腕が自由になった。縛道が解けたのだ。信じられないという顔で自分の手を眺め、握ったり開いたりを繰り返した長次郎は、誰がこんなことを、と声の主を探すべく辺りを見回した。
    「ほら、頑張れよ」
     知霧の声ではない、しかし耳馴染みのあるあたたかな声が聞こえ、長次郎の頭は混乱した。すると巡らせていた視線の端に白いものが見えた。するりと闇を縫うその動きは、動物が逃げる時の動きそのもの。例えるなら、猫のような小動物が……。
     考えていた長次郎は屋敷全体を揺るがすような地響きを体に感じ、我に返る。知霧が向かった方向から夜にそぐわない野太い雄叫びが聞こえ、直後にみしみしと何かが折れる音が続く。
     長次郎は急いで立ち上がると、わななく足を奮い立たせ、音の出処へと向かった。

     6

     それは二つ隣の部屋で起こっていた。大男が襖や柱を巻き込みながら金砕棒を振ると、そのたびに屋敷が悲鳴を上げていた。遠心力を利用して水平に叩きこまれた金砕棒を斬魄刀で受け止めた知霧だったが、体格差で劣る人間が衝撃に耐えられるはずもなく、あっさりと庭に投げ出され、細い体は地面の上を転がることとなった。
    「破道の三十一〝赤火砲〟!」
     咄嗟に赤火砲を放った知霧だったが、大男は火球に怯むことなく、眼前の蠅を叩き落すようにあっさりと弾き返してしまった。放たれた威力そのままに返って来た火球は知霧のすぐ横に着地すると地面を深く穿ち、細かな石が顔に飛び、ぱらぱらと砂が舞い落ちる。
     土煙が晴れないうちに知霧の前に立ち塞がった大男は、真上から金砕棒を振り下ろそうと大きく腕を上げた。その気配を察知した知霧は真横に避け、再び鬼道を使おうと手を掲げるが、意外にも素早い大男の動きがそれを阻止した。
     大男は金砕棒を持たぬ左腕を鞭のようにしならせ、知霧の横っ面を張り倒した。
    「どうした! 大口叩いていた割には大したことないな! さっさと降参しろ!」
     離れた場所から眺めていた主人の高笑いが、耳に入って来る。殴られた衝撃で頭を押さえていた知霧は、数瞬平衡感覚を失ったようにふらふらとよろめいていたが、やがて素足を地面に縫い付けるように真っ直ぐに立つと、口の中に溜まった血を吐き捨て「ここで逃げるわけにはいかねえんです」と返した。
     大男に切りかかろうと斬魄刀を振り上げる。しかし、斬魄刀は金砕棒であっさりと弾かれて手から離れ、あらぬ方向へ吹き飛び、地面に突き刺さった。丸腰になった知霧は大男に胸倉を掴まれると持ち上げられ、そのまま宙づりにされる。地面から足が離れて間接的に首を絞められたせいか、知霧の顔が苦悶に歪む。
    「どうやらうちの人間の方が腕が立つらしい。何故お前のようなひよっこが隊長に選ばれ、うちが外れたんだ」
    「……分かりませんよ、なんで自分なんかが隊長になれたかなんて」
     窮地の中で絞り出された声が、夜の庭に響く。
    「山本の旦那に声を掛けられ、自分にそんな大役ができるのかって思いましたよ。実際戦いだとか雑務だとか苦労ばっかで、嫌になったことも一度や二度じゃない」
     知霧はゆっくりと腕を上げると男の手首を掴み、締め上げようとする。だが丸太のような腕が、弱りきった小枝に害されることなどなく、大男は余裕の笑みを浮かべて知霧の足掻きを眺めている。
     それでも、知霧は目に光を滾らせていた。破滅的な光の奥には、絶対に諦めてなるものかという強い意志が込められている。その意志を爆発させたかのように、知霧は大声で叫んだ。
    「でもな、そんな自分にも助けてくれてありがとうって言ってくれる人がいたり、見守ってくれる仲間がいるんだ! この力を信じて、隣に立ってくれる連中が……! だったらその人たちのためにこの力を使うのが、志島知霧の役目ってもんじゃねえかと思いますがね!」
     その声は長次郎の耳を打ち、胸を震わせた。役目とは何か。それは道標だ。自分がこの先どうあるべきか、どう進むべきかを指し示してくれる、たった一つの小さな光。死地にあろうとその輝きは失われることはなく、心の暗闇を照らしてくれる……。
     ならば、雀部長次郎の役目とは何か……それは元柳斎の手の届かぬ場所を補うこと。いや、それだけではない。その先にある、元柳斎が目指す未来を造る一助になること。そのためには、今ここで乗り越えなけれなならない壁がある……。
    「志島殿!」
     腹の底から叫ぶと、吊るされていた知霧の瞳が長次郎を捉え、わずかに揺らぎ、見開かれた。「馬鹿野郎、何やってんださっさと逃げろ!」全身を声にした知霧は、必死の形相のまま長次郎を怒鳴りつける。
    「お前には、山本の旦那の右腕になるって役目があるだろ! それが今だ! 今なんだよ! こんなところでくたばっちゃいけねえ! これは……隊長命令だ!」
     そうだ、自分はここで散るわけにはいかない。元柳斎にも言われたではないか。いざとなったら戻って来いと。目の届かぬ場所で散るなと。知霧も自分を逃がすために手を回してくれた。ならば、その気持ちを汲むべきだ……。
     だが、長く付き合ってきた意志――他人が頑固と呼ぶ心の最も固い部分から、それはいやだという叫びが聞こえ、全身の血液が逆流するような高揚感が脳内を駆け巡った。勝利までの道筋など見えない。しかしただ一つ、逃げたくないと言う思いに揺さぶられ、気付いた時には長次郎は知霧の方へと走り出していた。
    「破道の四〝白雷〟!」
     長次郎が放った白雷は夜闇を閃き、知霧を掴む腕へと一直線に飛んだ。突然のことに驚いた大男はすぐに知霧を捨てて避けようとするがこちらの方が一歩早く、白雷は男の二の腕を貫き夜の空気へ溶けてゆく。
     大男が痛みに呻いた隙に知霧を抱えると、長次郎は大男から距離を取り、自分の斬魄刀を掲げて男の前に立ち塞がった。
    「早く逃げろよ……馬鹿長次郎」
     その声に、長次郎は大男に目を向けたまま「逃げません。私は頑固者ですから」と返す。すると知霧からふっと緊張が緩んだ笑みが聞こえ、それにつられて長次郎も口角を上げた。二人がかりなら勝ち目はあるか? 頭の中で戦略を練っていると、屋息の中から複数の足音が聞こえ、それまで動いていた思考が急停止した。
     知霧の縛道で足止めを食らっていた使用人たちが、拘束を解いてこちらにやって来たのだ。庭に出た使用人たちは大男の両側に並び、長次郎と知霧を取り囲むように散開し、皆一斉に刀を構えた。主人と大男、そして十人の使用人。圧倒的な数的不利を目の当たりにし冷や水を浴びせられた心地になった長次郎は、祈るように頭上を仰いだ。
     空の真ん中に満月が浮かんでいる。満月は下半分が東から流れてきた雲に覆われ、今にもその全てを隠されようとしていた。月を透かした雲が夜空に溶けるようにぼんやりと蠢き、徐々に存在感を増してゆく。やがて雲は大口を開け、月を丸呑みするようにその姿を腹の中へと収めると、周囲に本当の闇が降りた。感覚を澄ませばかろうじて近くの人間の気配が感じ取れる程度の、何層にも束ねられた重苦しい闇。その闇が、自分のこれからを暗示しているようにも思え、長次郎は誰にも聞こえないほどの声量で「元柳斎殿、お許しください」と呟いていた。
     たとえ四肢がもげようと、自分がどんな姿に成り果てようと、諦めたくない。必ず戻ってやるんだ。自分を傍に置いてくれる、あの方のもとへ……。
     一か八かの闇討ちを決め、刀を握る手に力を込めた――その時だった。
     塀の向こうからこの場にそぐわない、しわがれた声が聞こえた。
    「あのー、すいません」
     その場の空気が一瞬にして不審へと塗りかえられてゆく。
    「お貴族様、さっきの旅人です。お願いですからやっぱり一晩だけ、泊めてくれはしませんかね」
     どうやら向こうにいるのは夕方門の前で頭を下げていた、あの旅人のようだ。上がりかけた士気に水を差された形となった主人は、苛立ちを隠しもしない声色で「ええい、こんな遅くになんだ! さっさとどこかへ行け!」と叫んだ。しかし旅人はその焦燥をものともせず、困ったような声を上げ続ける。
    「この先には宿もなく、真っ暗闇で困っているんです。どうかお情けを……」
    「ええい、くどい! 叩き切るぞ!」
     主人が感情のままに喚き散らした声は夜闇に轟き、反響し、やがて元の静寂へと戻っていった。旅人からの返事はなかった。しんと静まり返った空気が逆に不気味さを醸し出し、一体何が起こっているんだと自問した長次郎は、次の瞬間蛙がひしゃげたような悲鳴を聞いた。主人の声だ。
     視界が効かないせいで主人の状況を確認できない使用人たちは、なんだ、と疑問を浮かべる一方、正体の分からない存在への怯えを表出し、場の空気に溶け込ませた。長次郎は、主人の立っていた方へ聴覚を集中させる。すると、先程よりは明瞭になった声が、場の人間を戦慄させた。
    「――そんなこと言わねえで、顔くらい見てくれよ」
     塀の向こうに居たはずの人間が、どうやってここまで。長次郎の頭に瞬歩という言葉が浮かび、静まりかけていた心臓が一つ、大きく鳴ったのを聞いた。
     雲が夜空を這い、満月は再び世界を照らす。その月光は屋敷の庭にも降り注ぎ、視界を鮮明にし――まずはじめに長次郎は主人の姿を仰ぎ見た。
     主人の後ろに、誰かが立っている。薄汚れた旅装束が包むのは、大男と変わらない長躯。背後から主人の首に刀を当てるその顔は、旅人と呼ぶには色が悪く、目に涙を浮かべる主人よりもあくどい顔をしており……長次郎は驚きのあまり声を上げた。
    「執行殿っ……!」
     そこにいたのは、乃武綱だった。
     長次郎の声を聞いた乃武綱は、二人と視線を合わせるとにやりと口角を上げ、高らかにこう言った。
    「長次郎、知霧! 若者のよしみで加勢に来たぜ!」
     その言葉に、長次郎は思わず眉を潜める。
    「若者……? 執行殿が……?」
     思わず出てしまった訝しげな呟きに、隣にいた知霧もありえないという声色で「いや、それは無理があるでしょう」と漏らすのが聞こえた。
    「お前ら相変わらず言いたい放題だな」
     大袈裟に溜息を吐いた乃武綱は、次には「ま、それだけ言える余裕があるならまだ大丈夫だな」と声を上げて笑った。思ってもいなかった伏兵に心臓を握られすっかり委縮した主人は、全身から恐怖を滲ませながら「や、屋敷の周囲の見張りは!」と悲鳴に近い声を出した。
    「全員ひっくり返ってるぜ」
    「手練れの者十人だぞ! あれだけの人数を、お前一人で……」
    「十人ぽっちじゃ肩慣らしにもならねえぜ。それにしてもご主人サマよぉ……」
     乃武綱は主人の首に更に刃を押し付ける。日焼けを知らない白い肌に赤い線が走り、いくつもの血の玉が線の上で弾ける。
    「さっきから見てればお前いっこうに戦おうとしねえな。腰の刀は飾りか? 大方、戦いはてんで駄目で人を駒として使うことしか考えない典型的な御飾りさんのようだな」
     口を動かしながら恐怖のあまり立ち尽くす使用人たちをねめつけた乃武綱は、用済みだと言わんばかりの乱雑さで主人を突き飛ばし、恐怖から解放した。地面に尻もちを付いた主人はできる限り頭を上げ、夜空に向けて伸びる長身を見上げながらじりじりとあとずさりし、必死に距離を取ろうとしている。
     乃武綱はその様子を路傍の石を見る目付きで見下ろすと、斬魄刀を肩に掛け悠然と歩き出す。
    「護廷十三隊の隊長っていうのはな、お前が馬鹿にしたひよっこみてえに敵を恐れず戦える人間じゃないと務まらねえんだよ」
     今にも反吐を出しそうな顔になった乃武綱は、主人から視線を引き剥がすと使用人たちの前を堂々と横切り、長次郎たちへと歩み寄る。その顔は二人の前に立った時にはすでにいつものにやけ面に戻っており、長次郎はその温度差に何も言えなくなってしまった。
     こちらの戸惑いが伝わったのだろうか。頭の上から聞こえた声はひどく穏やかな響きをしていた。
    「山本からの追加指令だ。殺すな。可能な限り傷付けるな。全員ふん縛っておけとのことだ」
     言い放つと、乃武綱は満身創痍の知霧に手を伸ばし、起き上がるのを手伝った。よろめきながら立ち上がったその顔は申し訳ないという思いをありありと浮かべた、陰鬱なものだった。
     知霧は乃武綱を一瞥するとすぐに顔を伏せ、ぼそぼそと自信なげに言葉を紡ぐ。
    「……すみません。せっかく自分らに与えてくださった任務なのに……」
    「何言ってんだ。任務はまだ終わっちゃいねえ」
     「それにお前、かっこよかったぜ」乃武綱は大男たちの方へと振り返り、こちらに注ぐいくつもの視線の一つ一つを眺めながら話を続ける。
    「それにな、役目なら俺にもある」
    「執行殿の、役目……?」
    「そうだ……お前らを生きて帰すって役目がな」
     大男と真正面から向き合った乃武綱は、ただ一人恐れを浮かべなかった黒目を覗き込む。自分と同じ背丈の人間が珍しいのか、大男は若干の居心地の悪さを顔に宿すと、下げたままだった金砕棒を握り直し、振り回そうと力を込めた。危ないか……長次郎が乃武綱に声を掛けようとしたが、予想に反して金砕棒が動くことはなかった。乃武綱が、面白いものを見たと言わんばかりの口ぶりで大男に話し掛けたからだ。
    「お前、見たことあるぞ。護廷十三隊を作った時にご主人サマと一緒に山本のところに来てたな。あの時も思ったが、結構いい体してるじゃねえか。お前ならうちでも十分やっていけそうだ。どうだ? 俺の部下から入るっていうのは」
    「……本当か?」
     大男の口がはじめて開かれたのを聞いて、乃武綱が一度頷く。
    「お、乗り気か? でもそこのご主人サマは駄目だ。戦えねえ奴はいらん。お前だけ。どうだ?」
     長次郎が乃武綱の隣からそっと覗き込むと、思わぬ勧誘話に胸が躍ったのか大男の目がぎらと光ったのが確認できた。大男は眼球を動かして主人を見、もう一度に乃武綱に視線を向ける。その目に映っているのはもう、乃武綱の姿だけだった。
     それをどう思ったのか、乃武綱はくつくつと喉で笑うと「ま、主を平気で裏切ろうとする奴の実力なんてたかが知れてるけどな」と、言ってのけた。あっさりと返された手のひらに、ようやく揶揄われたと理解したのか、大男は瞬時に目に憤懣を滾らせると、地鳴りを思わせる大声で咆哮した。
     大男の注意が乃武綱に向いたのを好機と見た長次郎は、すぐさま地面を蹴ると先程弾かれた知霧の斬魄刀のもとへと向かい、刀を手中に収めた。そうして長次郎の動きを目で追っていた知霧に向けて放ると、知霧はしっかりと柄を握り締め、始解のための解号を唱えた。斬魄刀の形状が変わり、臨戦態勢となる。
     それを見た乃武綱が顎で大男を示した。
    「俺は雑魚を貰う。お前らはそのでくの坊と主人をやれ」
     その声を聞いた長次郎は一瞬、知霧と視線を合わせた。私が主人を捕えます、と込めれば知霧が小さく首を縦に振り、大男を見上げる。それを見たのを最後に長次郎が主人のもとへ駆け寄れば、抜けた腰をようやく立たせた主人は最後の足掻きと言わんばかりに刀を抜き、切りかかって来た。
     真上から振り下ろされる白刃は、普段相手にしているどの相手よりも遅く、そして鈍かった。これならば霊術院の生徒の方が余程良い相手になる。そもそも比べること自体が生徒たちに失礼か……そんなことを考えながら主人の刀に自分の刀を力強く打ち付け、振り抜く。主人の手からすり抜けた刀は回転しながら宙を舞い。屋敷の柱へと深く刺さってしまった。
    「覚悟――」
     長次郎が主人の腕を捕まえようと手を伸ばした瞬間、真横を何かがかすめ、頬にちりと灼けたような感覚が走ったのを知覚すると、何が起こったのか分からないまま目の前を凝視した。一度それを引っ込め、次の機会を伺う主人の手に握られていたのは細い棒だった。針のように先が尖っているが、それにしては太く長く、短刀にしては細く短い。金属製の串。そんな表現が当てはまるそれは、おそらく暗器の類なのだろう。
    「私も全く戦えないわけではない。護身のための備えくらい持ち合わせている」
     言いながら暗器を眼球めがけて突き出して来たため、長次郎が思わず目を瞑る。その隙を狙っていたのか、主人は素早くこちらに背を向け、縁側を上がり、屋敷の奥へと逃げ去ろうとした。
     だが、長次郎が気付くほうが早かった。
    「雷鳴の馬車、糸車の間隙、光もて此を六に別つ! 縛道の六十一〝六杖光牢〟!」
     周囲に線状の眩い六本の光が現れたかと思えば、光は主人めがけて闇を走り、胴を捉え、その動きを封じる。衝撃に体を押し倒された形となった主人はかろうじて自由の利く手足をばたつかせ、畳の上を泳ぐように前方へと進もうとする。
     その進行方向へ回り込んだ長次郎は、地を這う逃亡者の鼻先に刀の先を向け、動きを牽制する。
    「逃がしません。部下を置いて自分だけ逃げるなど、許しません。だから部下に見捨てられそうになるのですよ」
     長次郎を見上げる主人の顔に、最後の抵抗と言わんばかりの冷笑が浮かぶ。諦めの悪い、というよりも悪あがきと言うほうが当てはまるような皮肉めいた口ぶりで「お前、ろくな死に方をしないぞ」と言葉を投げつける。それに対し、自分の心中が温度を失ってゆくのを知覚した長次郎は淡々として口調で返した。
    「私は、綺麗に死ぬつもりなどございません。最後まで元柳斎殿のために身命を賭すだけ」
    「お前はきっと、山本重國の側近になったことを後悔する。あの男は用済みになった人間など簡単に捨てる。そういう男だから……」
    「もし元柳斎殿が私を見捨てるならば、私の力が及ばないせいでしょう。私の未熟さは私の罪。そうなってしまった時は、潔く……」
     先の言葉が喉の辺りで引っ掛かり、何も言えなくなった長次郎は一度言葉を切った。潔く受け入れます。そう紡ごうとした言葉に、頭の中でそれは違う、と叫ぶ自分の声を聞いた。受け入れるのがお前の意地か、と。
     長次郎は、ゆるりと頭を振る。
    「……潔く、一からやり直します。どれだけ時間がかかっても、どれだけ血のにじむような思いをしても、またあのお方の隣に立てるように……」
     そこまで言ってからふと見ると、張り詰めていた緊張が頂点に達したのか、足元の男は気を失っていた。長次郎は主人の顔を軽く叩き、意識がないことを確認すると、とりわけ大きな安堵の溜息を一つ、夜の闇にぶちまけた。斬魄刀を鞘に戻し、主人の体をあらためて縛り上げようと考えていた時、庭から野太い叫び声が聞こえた。大男のものだ。
    「志島殿!」
     長次郎はそちらを見やる。大男が頭上に掲げた金砕棒を、真っ直ぐと振り下ろすのが見えた。重力と腕力、そして金砕棒自体の重量。複数の要因が重なって膨大な威力となった打撃が、小柄な知霧の体に容赦なく振り下ろされるのを確かめた長次郎は、自分の体から汗が噴き出るのを感じた。
     潰される……! そう思った時だった。金砕棒の動きが途中で止まり、「なんだと」と大男が声を上げるのが聞こえた。
     両手を使い、頭の上で斬魄刀を水平に構えた知霧が、金砕棒を受け止めていたのだ。

     *

     臓腑の底で燻らせていた澱が渦を巻き、衝動となって湧き上がるのを感じた知霧は、腹の底から獣の雄叫びを思わせる声を上げていた。
    「おおおおおおおおおおっ!」
     殺意を込めた衝撃を受けた斬魄刀が、金属同士がぶつかる時特有の甲高い悲鳴を上げている。それを支える腕が、肩が、体幹が、足が、刀と同じように渾身の力を振り絞り、圧倒的な力に抗っている。少しでも気を抜けば押し潰されると分かり切った状況に、体が小さく震えるのが分かった。添えられた左手が刀の背が皮膚に食い込む痛みに、このままでは真っ二つになってしまうと限界を訴えているのが分かる。踏ん張った素足の裏に、無数の小石が刺さるのを感じる。
     しかしそれでも避けるという選択をしなかったのは、素直に勝ちたいと思ったから。自分ができる全ての力を総動員して、この大男を倒したいと思ったから。
    「護廷十三隊四番隊隊長志島知霧はこんなところで潰れる男じゃねえっ!」
     喉から叫んだ知霧は、手足をばねのように折り曲げると次の瞬間には腹にありったけの力を込めると金砕棒を押し上げ、そのまま弾き返してしまった。あまりのできごとに大男の目が驚愕に見開かれ、知霧の視線と絡み合った。
     知霧は肺に軽く酸素を取り込むと、一瞬で構え直した斬魄刀を下から一直線に振り抜き、夜空へ白刃を煌めかせる。刀が闇を切る刹那、その切っ先が大男の親指をかすり、赤い線を描いた。
    「はっ、惜しかったな。この程度の傷――」
     大男が言いかけた、その時。金砕棒がずるりとその手を滑り落ち、重々しい音を立てて地面に落ちてゆく。何故だ、と自問しながら目を剥いた男が右手を見ると、その親指は根元から綺麗に切断されており、切り口からは生温かい血が滴り落ちていた。
    「知ってるか? 神経っていう、人間の体が脳に痛みを伝える回路って手足の先に多いんだぜ?」
     知霧が言い終わらないうちに、大男が声にならない声を上げる。闇を揺るがす悲痛な響きは、傷の痛みを表すのに十分だった。思った以上の効果があったようだな、と口元に笑みを刻んだ知霧は、大男の悶絶を聞きながら、地面に転がる小さな肉片に目を向ける。他の四本とは違う筋肉で構成される親指は、物を掴むという動作には欠かせない存在だ。その親指を失った今、大男の右手は重い金砕棒を持つことは叶わなくなった。
     大男はひとしきり叫ぶと、やがて瞳にこれ以上にない憤怒を宿し、知霧を睨みつけ、左手で金砕棒を拾い上げようと身をかがめた。半ば自暴自棄にも似た動きは、もはや戦う人間ではなく牙をむいた獣同然の本能で動いているように見えた。体を捻りながら無茶苦茶に振られた一撃は痛みから逃れるためのもののように見え、知霧はそろそろ終わらせてやるか、と呟くと一度後ろに引き、横から叩きつけられようとした金砕棒を目の前でやり過ごし、勢いのあまり大男が前のめりに倒れそうになるのを目で捉えた。
     斬魄刀を鞘に戻した知霧は、地面を蹴り、男の背丈以上に跳躍する。知霧が突如視界から消えたように見えたのか大男はその場で立ち止まり、棒立ちのまま首だけを動かして行方を探しているのが遥か下方に見える。知霧が急降下をはじめたのは、大男が気配を察知し、顔を上げたのと同時だった。
     知霧は斬魄刀を縦に構えると、落ちる威力そのままに、鞘の先端を大男の額に落とし込んだ。
     硬質な頭蓋に与えた衝撃が、刀を伝って知霧の手にも響いた。手のひらへの刺激が痛みとして実感するよりも先に大男は白目を剥き、口から泡を吹いて仰向けに倒れ込んだ。地面に着地した知霧は、男が気を失って動かなくなったのを見届けるとほっとしたように息を吐き、表情を緩ませる。
     その時、全てが終わった安堵感に自分の中で緊張の糸が音を立てて切れたのを聞いた。途端に足から力が抜け、斬魄刀に寄りかかるようにしてその場に膝を付くと、長次郎はどうなったと視線をさまよわせる。すると、屋敷の中に捕縛された主人と長次郎の姿を見つけた。
     心配そうな目でこちらを見ている長次郎に口角を上げて笑って見せると、知霧は赤くなった右手を握り締め、夜空へ勢いよく突き上げた。

     *

    「終わったな、お疲れさん」
     駆け寄った長次郎が知霧に肩を貸していると、同じく使用人を捉えた乃武綱が余裕の笑みを浮かべながらこちらに歩いてくるのが見えた。背後には庭にいた使用人の全てが伸びており、二人が思わず顔を見合わせると、その様子がおかしかったのか、乃武綱から忍び笑いが聞こえた。
     乃武綱は主人と大男を見ると長次郎たちに笑いかけ、「よく頑張ったな、大手柄だ」と頭を撫でて見せた。
    「執行殿、やめてくださいよ」
    「そうですよ。自分らは子どもじゃないんですから」
    「まあそう照れるな……それで知霧、情報は」
     真剣な声を作った乃武綱に、知霧はあっちにあります、と屋敷の中を指差した。大男が暴れていた部屋――襖から柱までことごとく破壊され、部屋と呼ぶにはあまりにもお粗末な様相を呈することとなってしまったその場所は、今にも屋根で押し潰されそうだ。
     指差された方を見ると、乃武綱はどかどかと部屋に上がり込み、足元に視線を落としながら中を探索する。ほどなくして紙の束を拾い上げた乃武綱は、その分厚さに目を見張ると「よくもまあこんなに集めたもんだ」と声を上げた。
    「護廷十三隊の情報がこんなに。へえ、どれどれ。俺のことは何て書いてあるんだ?」
     紙を捲りささやかな音が流れ聞こえると、長次郎は小さく「あっ」と声を上げた。先ほど知霧が読み上げた内容を思い出したからだ。確か乃武綱のことは……。
    「……何だこれ、誰がおっさんだ!」
     ぎょっとした声が一際大きく響き、長次郎と知霧は苦笑するしかなかった。

     7

     三人が屋敷の人間全員を縛り上げ、一か所に集めた頃には夜が明けようとしており、暗闇に慣れた目が光を刺激として感知すると、長次郎はその眩しさに思わずぎゅうと瞼を閉じてしまった。すると、それを見た乃武綱は声を上げて笑うと「さあ、任務は無事終わったんだし、帰るぞ」と二人を促した。
    「この人たちはどうなるのですか?」
     疑問に思った長次郎が、縛られた人間を見ながらそう尋ねると、「裁くべき人間が裁きに来るさ」と軽い調子の声が帰って来た。どういうことだ? 再び謎が浮かび上がった脳を必死に働かせていると、乃武綱と知霧が歩き出してしまったため、長次郎はそれ以上何も聞くことができず、前の二人を追いかけた。
     未だ夜の名残を残す空は、朝ぼらけのまばゆさの中に夜の青さをほんの少し混ぜ込んだ、おぼろげな色合いをしていた。この空はきっと、隊舎に帰る頃には昼の青空に染まってしまうだろう。そんな一抹の寂しさを抱きながら中空をぼんやりと眺めていた長次郎は、やがて思い出したように口を開いた。
    「でも幽霊が苦手と言った時のあれ、まさか嘘だったとは……思わず信じてしまいましたよ」
    「敵を騙すならまず味方から。お前は考えてることが顔に出やすいからな。騙されてもらったぜ」
     「十日もあったんだ。奴らに偽の情報を掴ませるくらいわけないさ」そう言ってのけた知霧に素直に「志島殿が言っていた策とはそういうことですか」と感心の声を上げていると、知霧はにやりと意地の悪い笑みを向けながら突然肩を組んで来た。
    「それにしても長次郎さんよお。お前、志島さんの隊長命令をつっばねるとは、いい度胸だな」
     一体何のことかと、少しの間逡巡した長次郎は、やがてそれが大男と対峙していた時の言葉だと思い出すと「あんな命令聞けませんよ」ときっぱりと言い返した。
    「八千流姐さんの命令は聞くのにか?」
    「……だってあの人、おっかないんですもの」
    「志島さんに威厳がないって言いたいのか? おっかないって言ったこと、姐さんにバラすぞ?」
    「やめてくださいよ! 洒落になりませんから……!」
     長次郎は卯ノ花の視線を頭に浮かべる。ぬらりと冷たい眼差しと感情というものを一切排したような抑揚のない声に、心臓を握られる心地を思い出すと、上がりつつある気温に反して悪寒を感じ、ぶるりと身震いする。すると後ろから「おいおい、せっかく二人で頑張ったのに喧嘩はやめろ」という、乃武綱の呆れた声が聞こえた。
     振り向いた長次郎と目を合わせた乃武綱は、山の端から顔を出す太陽を背に、顎に手をやりながら「で、山本への報告はどっちがやるんだ」と何気なく尋ねた。長次郎はすかさず「そりゃあ、右腕である私ですよ」と当然の顔で答えたが、隣から不満の声が上がる。
    「何言ってんだぁ長次郎。隊長の志島さんに決まってるだろ?」
    「私ですよ」
    「志島さんだ」
     足を止めて言い合った二人は、しばらく目の前の相手を鋭く睨みつける。知霧の視線からは自分が元柳斎に報告をしてねぎらいの言葉を貰うんだ、という意志がありありと感じ取れた。しかし長次郎も譲るつもりはない。元柳斎と誓った通り、無事に戻って来た姿を一番に見せたいという強い気持ちがあったからだ。
     互いに、相手が一歩たりとも引くつもりはないと感じた長次郎と知霧は、やがて言葉を交わすことなく、いきなり駆け出し、帰路を一目散で進んでいった。
    「志島殿はもっとゆっくり来てもいいんですよ!」
    「とんでもない! 長次郎こそ疲れてるだろ? 歩いて来い!」
    「私が先に行きますからお気になさらず!」
    「志島さんが後のことはやっておくからいいぞ!」
     意地と意地のぶつかり合いはすっかり時間外の延長戦に入ってしまい、子どもじみた牽制の声は夏を終えて今年最後の緑を鮮やかに繁らせる枝を揺らし、吹き抜けるあたたかな風の向こうに消える。二人の騒がしい声に混じって「おい、俺を置いて行くなよ!」という乃武綱の嘆きが響く。
     秋は、もうすぐそこまで来ている。しかし今の長次郎と知霧は、近付きつつある秋の足音よりも自分たちの足音の方が大きく聞こえるようで、若者特有の騒がしさは瀞霊廷にある一番隊の執務室まで続くこととなった。

     8

     真上に昇った陽の光は、あばら家同然となった屋敷の庭に容赦なく照り付ける。その劇的な光は、役目を果たせるかも分からなくなった屋根によって遮られ、縁側までで侵入を止められ、部屋の中には光を光と認識できないほどの僅かな明度しかなかった。
     ところどころが傷み、毟れてしまった畳の上に転がされた人間たちの中で唯一意識を取り戻した主人は、未だ目覚めない使用人たちの顔を眺めながら一人、忌々しげに吐き捨てる。
    「くそっ、何故こんなことに。次こそはもっと上手く……」
     その呟きが薄暗い部屋に響くと、「お前ら、反省してないな」と静寂から声が返って来る。使用人の誰とも異なる声に肩を震わせた主人は首だけ動かし、芋虫のように体をくねらせると、声の出処を探ろうと必死に目を凝らす。
     その目がここにはいないはずの小動物を見つけ、主人は声を上げそうになった。薄闇にぼうと浮かび上がるようにして鎮座していたのは、白い猫だった。猫は金色の目でただじっと主人を凝視していたが、やがて畳を蹴って跳躍し、宙で一回転すると、次には褐色の青年の姿に変わっていた。
    「いやー、猫の姿って慣れないと疲れるな」
     白い髪を揺らしながら首を鳴らすその青年を、主人は知っていた。驚きのあまり何も言えない主人を尻目に、青年は白い歯を見せて笑い、努めて明るい声で声を掛ける。
    「よお、随分好き勝手やってくれたみたいだな」
    「お前は……四楓院千日!」
     ようやくと言っていいほどたっぷりと間を空けて放たれたのは、青年の名前だった。名を呼ばれた青年――四楓院千日は、それ以上何も言葉を紡げない主人を一瞥すると、次には部屋の惨状を見回しながら独り言のように言う。
    「うちの若いの相手に随分派手にやったなあ……どうだ、あの二人、強いだろ?」
     返事は期待していなかったのか、千日は主人の反応を待たないまま訥々と話を続ける。
    「で、隠密を生業とする貴族のくせに、たった二人とおっさん一人に負けた、と。任務に隊士を指定した時からおかしいと思ってたんだよ。長次郎に来て欲しかっただけじゃなくて、若い人間なら自分らでも勝てるって高を括ってたんだろ。それでこのざま、と」
    「何を偉そうに! 山本重國に尻尾を振った裏切り者のくせに……!」
     主人の悪態に感じないものがなかったわけではない。しかし、これ以上何かを言っても無駄だと思った千日は、主人の言葉を聞き流し、今度は折れた柱に目を向ける。
    「どうせお前ら、四楓院を引きずり降ろして護廷十三隊で好き放題するつもりだったんだろ」
     顔から笑みを消し、感情を抜いた声で尋ねると、主人の顔から血の気が引くのが薄闇の中でも見ることができた。図星か。そう判断すると、千日は更に畳みかける。
    「で、長次郎の懐柔に失敗したらあの二人を人質にでもするつもりだったんだろ? さらには集めた情報で強請って他の貴族を脅して瀞霊廷に攻め込むつもりだった……こんな筋書きか?」
     大方、先の戦争で尸魂界を焼き尽くした元柳斎を倒せ、貴族の天下を取る、などという耳障りの良い謳い文句を掲げて、貴族たちを操るつもりだったのだろう。戦いよりも口の方が上手いこの男ならば、そのくらいはするだろう。
     かつては四楓院と肩を並べるほどの隠密だったこの家。しかし先代がなくなり、当主の座にこの主人が就くと優秀だった隠密は消され、逃げ出し、後に残ったのは屋敷と、過去の功績で何とか生き延びているだけの、空虚な家名だ。
     四楓院家も先代には好感を持っており、その頃までは協力関係を保っていた。だが今はこの家には、以前の輝きはどこにもない。
    「あのな、そういうところが駄目だっていい加減気付け。人を蹴落とすことばかり考えるからいつまで経っても力が付かないんだよ。四楓院の失脚じゃなくて、お前らが這い上がって来てくれれば……そうすればまだ可能性はあったのによ」
     まるでこの家の荒れようが、落ちぶれた家格そのものを表しているようだ。考えているとそれまで黙っていた主人が「おい、何をしている、早くこいつを倒せ!」と外に向かって叫んでいるのが耳に飛び込んで来た。その視線を追って、千日もそちらを見る。あまりの巨体に長次郎たちが運ぶのを諦めたらしく、庭にはただ一人、大男が仰向けに転がされたままだった。
     主人が何度もその名を呼ぶが、大男は返事どころかぴくりとも動かない。そろそろ種明かしをするか。そう考えた千日は、あっさりと「あいつならもう動かないぜ」と教えてやった。口にすると、先程首に刀を突き立てた感触を思い出す。
     ここからでは見えないが、大男の首はざっくりと切られており、鮮血が流れ出ている。
     しばらく主人は千日の言葉の意味を考えていたが、やがてじわじわとその恐怖を実感したのか、顔がこわばっていくのが見えた。絶望。その言葉から目を逸らすためか、半狂乱になった主人は金切り声に近い声で千日に言い放つ。
    「お前たち……こんなことをしていてまっとうな生を送れると思ってるのか!」
    「似たようなことを長次郎にも言ってた。答えはあいつと同じだ。布団の上で幸せな夢を見ながら死ぬつもりはねえよ、俺たちは。因果ってもんは死の瞬間まで巡り続ける。だから、俺たちがやって来た報いは最期に還って来ることになるだろう」
     千日はしゃがんで主人を真正面から見据えると、その黒い瞳を覗き込み、そこに映る自分の顔を見た。千日の顔は決然としていた。真剣な面持ちのまま、ただ呆然と話を聞くことしかできない主人に向かって、まるで誰かに誓いを立てるかのような口ぶりで、千日は言葉を紡ぐ。
    「だとしても、俺たちはやらなければならない。たとえ人でなしと謗られようと、後ろ指をさされようと。この尸魂界の悠久の安寧を作るため、多少の汚れ仕事は覚悟している。それは他の隊長たちも同じだ。千年後の俺たちの子孫が、確固たる意志を胸に抱き、この世界の調和のために戦える……その基盤作りが、今なんだよ」
     瞬間、薄闇に鈍い輝きが灯る。千日が斬魄刀を抜いたのだ。これから自分に降りかかる悲劇を想像した主人が、ひっ、と小さく悲鳴を上げる。その恐怖に応えるように、あるいは寄り添うように、千日は簡潔明瞭に言ってみせた。
    「見逃すとは言ってねえぞ? 俺らが牙を剥いた獣を野放しにしておくとでも思ったか? 貴族の始末は貴族がするもの。だからあいつらには手を出させなかった」
     主人の首に、刀が添えられる。その時には主人からは威厳というものはすっかり剥ぎ取られ、情けなく唇を震わせることしかできなかった。命だけは、そんな呟きを確かに耳が拾い、千日は胸に刻み込んだ。人が死の恐怖を前にした時に、縋るように唱えられる呪文……これまで何度も聞いてきた言葉たちを忘れないようにしまい込むと、怜悧さを湛えた視線で主人を見やる。
    「覚えとけ。この世で一番恐ろしいのは……人の心ってやつだ。それはお前らもよく分かってるだろ?」
     その目からはもう感情は消えていた。「まあいいか、もうお別れだし」最後にそれだけ言うと、千日は口元に笑みを浮かべ、主人にこう告げた。
    「じゃあな」
     〈了〉
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
    12454