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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+雨緒紀、乃武綱……他
    「希望という名の罪」⑤(終)
    ※続・雨緒紀の物語
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブ有。
    ※流血描写あり。

    希望という名の罪⑤(終)  7

     隊首会議は日が昇ってすぐに開かれた。緊急の招集ということもあり、任務や騒動の事後処理で不在の者を除けば、参加者は十三人の隊長の半分にも満たない。
     一番隊執務室に集まったのは元柳斎と雨緒紀、そして乃武綱、卯ノ花、不老不死、金勒のみ。今回の当事者である雨緒紀から騒動のあらましと作兵衛についての話を聞いた一同は、ついさっき起こった反乱とも呼べる事件のめまぐるしさに沈黙するしかなかった。
    「渦楽作兵衛は拘禁牢に入れてある。あいつの所属は一番隊だから、処遇については山本が決めるのが妥当だと思うのだが」
     言いながら雨緒紀は参加者の顔を見回し、反応を伺う。誰も何も言わない。乃武綱と金勒は神妙な面持ちで床の一点を見つめており、珍しく隊首会議に顔を出した卯ノ花に至っては、まるで座したまま眠っているように薄く目を閉じている。逆に不老不死は、背中にのしかかるような空気感に落ち着かないのか、そわそわと他の隊長の顔を見比べるばかり。
     それぞれの心情の現れを同意と捉えた雨緒紀は、今度は上座へと目をやり、誰よりもいかめしい表情をした元柳斎に向かって「山本も、それでいいか」と尋ねた。
    「……うむ」
     短く答えた声は、場の空気よりもさらに重々しい響きだった。平素の厳然さを保った顔の裏には、到底隠し切れない焦りがある。それはこの部屋にいない人物を案じてのもとであろうとは、雨緒紀も容易に想像できた。
    「なあ、長次郎はどこだよ」
     今まさに思い浮かべていた人物の名前を挙げたのは不老不死だった。いつもなら元柳斎の一歩後ろに控えているはずの長次郎の姿が、今日ばかりは見えない。雨緒紀の報告の内容もあってか、嫌な考えが浮かんだのだろう。不老不死の視線が上座に向き、次に目の前に座る金勒と乃武綱、卯ノ花を順番に見て、そして最後にこちらに向いたところで、雨緒紀は口を開く。
    「さあな。大方、渦楽に大人しくするよう説得に行っているのだろう。優しいやつだ」
    「おい、そんな言い方ねえだろ」
     その時、怒りを隠しもしない声が差し込まれ、全員の視線がそちらに向いた。それまで一切の発言を控え、成り行きを見守っていた乃武綱のものだった。顔に険を乗せた乃武綱は、今度こそお前を仕留めると言わんばかりの形相でこちらをじっと睨みつけている。明らかな反感を宿している目が癇に障った雨緒紀は、溜息を吐いて見せると、
    「お前は事の重大さが理解できていないらしいな。渦楽は十二番隊舎で爆発を起こし、七番隊舎で火を起こし、山本の命を狙い、逃亡。それだけでいくつの罪状が付くと思う。長次郎はそんな人間にまで心を砕いているのだ。これを優しいと嫌味を言わずに何と言う」
    「作兵衛は長次郎に懐いていたし、長次郎だって面倒を見ていた。だから……」
    「だから温情をと言うつもりか。ふざけるな。渦楽が感情で動いたからこうなったのだぞ。この先どうなるかなど分かりきっているではないか」
     雨緒紀からしていればきつく言ったつもりだが。乃武綱はなおも食って掛かってくる。
    「けど、それじゃあ長次郎はどうなるんだよ」
     これだけ危険性を説明したのに、まだ長次郎のことをとやかく言うのか。乃武綱の言葉が重ねられるにつれ自分の中で苛立ちが増幅してゆくのを感じ取った雨緒紀は、どう言えばこいつを黙らせることができるか考える。牢の中で作兵衛が長次郎に掴みかかったことを言ってしまおうか。それとも、雑木林で襲い掛かろうとしたことのほうが良いか。そうすればさすがの乃武綱も、ぬるい言動は鳴りを潜め、自分と同じことを言ってくれるだろう。
     そう思い、口を開こうとした時だった。雨緒紀と乃武綱の間に漂う険悪な空気を弾き飛ばすような「やめぬか!」という怒鳴り声が、部屋の壁を揺らした。
    「あやつの処遇は儂が決めると言うたであろう。おぬしらが口を出すな」
     元柳斎にじとりと睨まれ、雨緒紀は背中が粟立つのを感じた。やはり護廷十三隊総隊長の名は伊達ではない。ひと呼吸のうちに場の空気が、元柳斎特有の厳粛としたものに支配されたのを感じ取った雨緒紀は、何も言わないようにすることとし、居住まいを正す。乃武綱も同じことを思ったのか、それ以上食って掛かることはしなかった。
     二人が黙り込んだのを確かめた元柳斎は、一度大きく息を吸うと、感情を押し殺した声で言い放つ。
    「本日、渦楽作兵衛より一連の事件について直接聴取を行う。その上で今後について判断、決定を下す。以上じゃ」
     元柳斎の強い視線に射抜かれ、何も言えなかった。一見すると当然の決断のように見えるが、実際は言葉の響きよりも多分に寛大な処置だと、雨緒紀は気付いてしまったからだ。通常ならば罪人の言い分を聞くことはあれど、それを踏まえて処分を判断するなどありえない。元柳斎が作兵衛に陳情の猶予を与えるということ、それだけで異例中の異例なのだ。仮に作兵衛がその場しのぎの謝罪と許しを請えば、罪を軽くする理由とすることもできるからだ。
     元柳斎の思惑に気付いたらしい乃武綱が目の前で安堵の息を吐くのを視界の端に捉え、雨緒紀は呆れてものが言えなかった。そう簡単に事が進むと思うのか。胸の裡でそう吐き捨てた、その時。廊下から慌ただしい足音が近付いてくるのが聞こえ、全員が障子戸へ目を移した。
     勢いよく戸を開けたのは拘禁牢を見に行っていた知霧だった。走ってきたらしい知霧は額に汗の玉を浮かべ、いつもはけだるげな顔に焦りを張り付けたまま息せき切った声で叫んだ。
    「拘禁牢にいた渦楽作兵衛がいなくなりました!」
     すぐ前に座る金勒と乃武綱の顔がこわばる。その顔は、知霧の次の言葉で蒼白に染まることとなる。
    「渦楽がいないことに気付いた長次郎が捜索に出ています!」
     報告を聞くやいなや、元柳斎は席を立ち荒々しく床を踏み鳴らして部屋を出ようとする。その背中に、雨緒紀は声を投げかけた。
    「お前が行ってどうする。火に薪をくべるようなものだぞ」
     思った以上に冷静な声に、自分でも驚いた。その声は確かに相手の感情を逆撫でた感触があったのだが、元柳斎はなんの返答もしないまま知霧の脇を通り、廊下へ出て行ってしまう。
     総隊長が退席した執務室は張り詰めた重苦しさとはまた違う――言うなれば困惑や狼狽と言った感情のぶれが混じる空気に満たされ、誰も口を開くことができなかった。不老不死がどうする? と金勒に目配せをするのが見える。その視線を受けた金勒自身も、眼鏡の向こうの目を細め、逡巡するそぶりを見せるのみ。それぞれが元柳斎を追うべきか、それとも作兵衛の捜索へ出るべきか思考を巡らせる中、雨緒紀は元柳斎が去った方へ目を据えたまま、独り言のように言う。
    「長次郎は教育係としての責任を果たしに行ったのだ。その意思を尊重してやればいいものを」
     周りのことなどまるで気にならないといった怜悧な声を拾い上げた乃武綱が、即座に反応する。
    「お前、長次郎に何を……!」
     だが今度は乃武綱との口げんかに付き合うつもりはなかった。雨緒紀も早々に腰を上げると、驚く一同を横目に部屋を出る。
     神経を研ぎ澄まし、周囲に意識を向ける。元柳斎の霊圧はすでに隊舎内にはなかった。もう行ってしまったのか。去り際に元柳斎が一瞬だけ自分に向けた鋭い霊圧を思い出しながら一人ごちる。
    「山本、お前の判断はどうやら間違っていたようだ。あの時渦楽を殺さなかったことも、希望を抱いたせいでここまで来てしまったのも、すべて身から出た錆。お前が生んだ因果が長次郎に降りかかった。その重みが分からぬわけではないよな」
     誰に言うでもない呟きは、昨日よりも温度が下がった廊下の空気に溶け、あとかたもなく霧散してゆく。
    「その罪はお前たちの周りで永遠に回り続けるだろう」
     言い切った雨緒紀は、そこで一度足を止めた。それと同時に音もなく迫った殺意もすぐ後ろで停止し、こちらの出方を伺うようにじっと息を潜める。自分の顔が険しいものに変化してゆくのが分かったが、それは決して恐怖などではなかった。
     何故こいつが。浮かび上がった疑問の正解が導き出せないうちに、顔の真横に閃いた抜身の刃。銀色の輝きが鮮烈に輝くのを横目に見ながら、雨緒紀は尋ねた。
    「……なんのつもりだ、卯ノ花」
     背後にいる卯ノ花は問いには答えず、斬魄刀を向けたままだった。今度は強い口調で訊く。
    「仲間に刀を向けるとは何を考えている」
    「あの子には、やらせようとしているのに?」
     雨緒紀は振り向いた。自分よりわずかに低い位置にある卯ノ花の顔は相変わらずの無表情だった。こちらを見上げる双眸は黒曜石を溶かし込んだように黒々としているが、その奥には戦いの最中に敵に向ける冷たい光が宿されている。少しでも動けば、斬る。そんな脅し文句が頭に流れ込んできたような気がした雨緒紀は、刀を微動だにしない卯ノ花に向かって「冷静になれ」と静かに告げた。
     「それは私の言葉です」卯ノ花の方も滑らかな声を保ったまま、ゆっくりと答える。
    「王途川殿、あなたこそ冷静になりなさい」
    「私はいつだって冷静だ」
    「いいえ。あなたのそれは冷静ではない。目を背けているのです。自分の裡にある本心から。自分は一人だと思い込み、他人をいっさい寄せ付けず孤高を演じ、そうして心の一番大切な部分すら排除しようとしている。その先に何があるのです」
     感情がごっそりと抜け落ちた声は、雨緒紀の胸に細い針となって深く刺し込まれた。脳内で反響する声に耳鳴りのような不快感を覚え、雨緒紀は奥歯を強く噛み締める。
    「おかしなことを言う。お前が心などという言葉を使うなど……尸魂界始まって以来の大罪人、卯ノ花八千流。お前に人の心などあるのか」
     胸の中心でじくじくと痛む嫌な痛みから逃れるために放った言葉は、卯ノ花の顔をわずかに歪ませた。しかし卯ノ花はその心情を声に乗せることなく、雨緒紀に語り掛ける。
    「確かに、かつての私は大罪人。だからといってなにも感じないわけではありません。ふと目を向けた先にある、道端に咲く花を美しいと思う心もありますよ、私には。その花がいつまでも美しく咲きほこれと願う気持ちもあります。それはあなたにだってあるはずです。だから立ち止まって良く考えなさい。あの子がどうなるかだけではない。どう思うかを……」
    「そんなに長次郎が大事か。お前も優しくなったな」
     口を付いた雨緒紀の言葉に、卯ノ花は眉に深い皺を刻み、今度こそ明確な感情を露わにした。軽蔑という、人間が失望した時に沸き上がる、怒りと表裏一体の感情だ。
    「……可哀想」
     冷たい罵りは、雨緒紀の耳にまっすぐに届いた。自分とは遠い位置にあると思っていた言葉を投げかけられ、雨緒紀は頭の中が真っ白になり何も考えられなくなる。「……何?」と訊き返した声は、無意識のうちに低くなっていた。すると卯ノ花は雨緒紀の精神の皮を外郭から一枚一枚剥がすように、ねっとりと絡みつくような声で断言する。
    「あなた、そうやって他人を嘲笑って、本心を誰にも言えず、自分を偽ることでしか生きられないのですね。あなたの本当の姿はそうではないのに」
     核心を突いた言葉は、瞬く間に雨緒紀の思考の底へと沈んでゆく。自分を偽る……本当の姿……。そういえば誰かもそんなことを言っていた。あれは誰だったか……記憶を辿ると、ししし、と特徴的な有嬪の笑い声が聞こえたような気がした。
     ──上手く言えないけどよ、俺らを突き放したりきついことを言った時のおめぇの目、すっごく寂しそうなもんに見える。わざとそういうふうに振る舞っているっつーか、本当は違うことを思っているんじゃねえかって思う時があるっつーか、そんな感じだ。
     今の王途川雨緒紀を形成している要素が物事の表層だとするのなら、本当の姿とは一体何だろうか。今まで自分が信じていたものが、そう在りたいと思っていたものがまがいものだと言うならば、深層にあるもの――自身でも気付かない部分に眠る真実の自分とは、どんな形をしているのだろうか。自分という、本来ならば味方でなければいけない存在に裏切られた気分になった雨緒紀は、今立っている空間が足元から崩れ、奈落へと落ちてゆく感覚になる。もしかすると、己が最も嫌悪している姿が、自分の本性だとでも言うのだろうか。不信に炙られささくれ立った心に、卯ノ花の言葉が容赦なく染み込む。
    「私には、あなたが自ら破滅に進んでいるようにしか見えない。わざと汚れを被って、憎まれ、そして……」
    「勝手なことを言うな」
     それ以上は聞きたくない。熱を持った脳が、一瞬にして全ての思考を奪い去る。お前に私の何が分かる。私が何故自らを偽らなければならないのだ。認めたくない……渦巻く思考を無理矢理押さえつけるように斬魄刀の柄に手を掛けた雨緒紀は、気付いた時には卯の花に向かって「たとえお前といえど、それ以上余計な口をきけば首を刎ねるぞ」と鋭く言い放っていた。
     そこではじめて、卯の花は口角を上げた。好敵手を見つけた時のように。あるいは、雨緒紀の化けの皮を剥がした達成感に浸るように。
    「あなたにそれができるので?」
    「やってみるか?」
     その言葉を合図に、二人の間に一触即発の空気が漂った。卯の花は刀を構えなおし、雨緒紀が柄を握る手に力を込める。互いが互いの目に孕む狂気を探るように見つめ合い、相手を牽制しながら息を詰めるその様は傍から見れば果たし合い以外の何物でもなく、異様な空気に雨緒紀の肌がぴり、と悲鳴を上げた。
     その物々しい空気に待ったをかけた声があった。
    「……そこまでだ」
     雨緒紀は卯の花の背後に目を向ける。仲間割れの現場を低く遮ったのは、金勒の声だった。神経質な顔をさらに厳めしくした金勒は、眼鏡の下の目に峻厳さを灯し、腕を組んだままこちらに歩み寄って来る。
    「卯ノ花、刀を収めろ。王途川もだ、手を離せ」
     金勒に諫められた卯の花は、諦めたように目を伏せると言われたとおりに刀を鞘にしまう。鍔が鞘に当たり、きん、という高い音を響かせたのを確認すると、雨緒紀も斬魄刀に掛けていた指をそっと下ろした。最悪の事態を免れたもののまだ油断はできないと踏んだのか、金勒は表情を変えないまま雨緒紀たちを見やる。
    「お前たち、自分が何をやったか理解してるのか?」
    「あら、ただのじゃれ合いですよ」
    「そうは見えなかったがな」
     卯ノ花の愉悦混じりの声に大きく息を吐いて見せると、金勒は手間のかかる子どもに言い聞かせるように語気を強めて言う。
    「このことは黙っておいてやる。だがな、今度勝手な真似をしたらただじゃおかん」
    「あなたの本気が見られるのですね」
    「俺も一応隊長だ。そう簡単にはやられんぞ」
     「王途川、お前もだ。独断は許さん。いいな」次にこちらを見た金勒の目が二度目はないと言っているのを見た雨緒紀は、先ほどまで競り上がっていた激情がするすると引いていくのを感じた。あれほどまでに脳を駆け巡っていた熱はいつの間にか下がっており、普段の雨緒紀が持ち合わせている冷静さが再び戻って来た。その冷たさが波立った精神を優しく抱きとめてくれるように思え、やはりこれこそが自分の本来の在り方なのだと再確認した雨緒紀は、頬が引きつり、自嘲の笑みを浮かべるのを感じ取った。
     目の前の金勒の目が、何を笑っていると鋭くなる。しかしその口が開かれる前に雨緒紀は金勒たちに背を向け、その場から立ち去った。
     私は、どこか壊れたのだろうか。
     胸中で零した悲しい呟きを聞くものなどいるはずもなく、雨緒紀は一人、廊下を進む。
     
      *

     斬魄刀を杖のように支えにしながら山道を歩くなど、これまでの生であっただろうか。瞬歩を使い、痛む足を何とか奮い立たせて逃げてきた作兵衛はそんなことを考える。あの日からどす黒い衝動に背中を押され、元柳斎のことだけを考えて駆け抜けてきたと言っても過言ではない。そんな自分が、足元を気にしながら一歩一歩噛み締めるように歩くなんて……。
     風が吹いたのか、頭上の木々がさわ、と音を立てたのが耳に入ってくると、作兵衛は緩慢に頭を上げた。北流魂街七十五区、山中。霊術院に入るまではよく訪れ、すっかり見知ったはずのこの山に、まるではじめて来た場所のような新鮮さを覚えたのは、幼い頃の記憶が薄れてしまったからであろうか。それとも、胸の中に棲みついていた汚濁が全てを飲み込み、なかったことにしてしまったのだろうか。
     だとすれば、寂しい生を歩んでしまったと思う。山本元柳斎重國を討つという気持ちは未だ健在だし、その思いが消し去れなかったからこそ、作兵衛は牢から逃げ出した。だが一方で、逃げなければ良かったという後悔にも苛まれているのも事実。長次郎が言っていた、これからの生き方を変えるということ。その言葉に何も感じなかったわけではない……。
     どうすればいい。
     薄暗い拘禁牢から抜け出してから何度も唱えた自問を、再び思い浮かべる。どうすればいい。おそらくあの場所に――瀞霊廷に戻り、元柳斎の顔を見てしまったら、またあの醜い感情に支配されるということは明白だ。今までよすがとなっていた憎悪を消し去ることも、自分のために生きるという願望にすがることも、どちらも選び取れない。そんな人間は、どう生きるべきなのか……。
     思考の渦の中心で立ち往生していた作兵衛の耳が、枝を踏む小さな音を拾い上げたのはその時だった。ああ、来たか。実感しながら振り向くと視線が絡む。こちらを見る目は悲愴と憤懣が入り混じった、虚無的な色を帯びていた。
     俺はこの人を裏切ってしまったのだな。胸の疼きが痛みとなって広がるのを感じながら、作兵衛は自分を追って来た人物の名を口にする。

      *

    「雀部長次郎……」
     作兵衛が発した声に、何かを言うことができなかった。自分を捉えた目の奥に流しきれない憎悪の残滓が滲んでいるのを確かめた長次郎は、抱いていた期待が自分の未熟さの表れだという事実を突きつけられたような気がして、下げていた拳を強く握りしめた。
    「……やはりお前は、こちらを選んでしまったのか」
     競り上がる悲しみにどうすることもできず、長次郎は相手を睨みつけることしかできない。元柳斎の命を奪うという執念。その炎が消えることは決してないのだろう……理解してしまったからこそ、長次郎は自分がどう動くべきかをようやく判断することができた。例え非情と言われても、自身が納得できない内容だとしても、それが元柳斎の右腕として必要なことならばやらなければならない。
    「大人しくしていて欲しかった……そうすれば、まだ望みはあったのに……なのに、逃げてしまったなら、もう許すことはできない……!」
    「……そうか、俺を試したということか」
     作兵衛のゆるく波打つ声には失望が滲んでいた。その辛そうな声を聞きながら、長次郎は胸の中で自問する。
     ここが自分の中の境界線だ。子どもと大人、未熟と成熟、感情と理性……不要なものを捨て、必要なものを選び取り、咀嚼し、嚥下し、腹の中へと収め、自らの糧にする。そうして形成されるのは、護廷十三隊総隊長の隣に泰然自若と控える、完璧な人間。目指すべき理想の姿がそこにあると信じて、長次郎は自らの感情に手を当て、そっと蓋をした。
     今はもう何も考えたくない。そう思いながら一瞬だけ目を伏せた。まるで自分の精神を顧みるように。そうして次に頭を上げ、作兵衛を見た時にはあれほどやめろとわめき立てていた思考は澄み渡っており、長次郎はそうすることが自明だと言わんばかりに斬魄刀の柄に触れた。
    「私は元柳斎殿の右腕。だから……!」
     言い終わらないうちに刀を抜いた長次郎は、弁明の時間を与えることなく切っ先を作兵衛に向け、その体を一息に貫いた。即座に反応した作兵衛がわずかに体をよじったせいか、それとも自分のどこかで未だ燻る迷いがそうさせたのか、刃はすぐに逝かせるつもりで定めた心臓よりも拳一つ分横の、右胸の中心に深く突き刺さっていた。
     驚愕に見開かれた目が底なしの絶望に彩られるのを見た長次郎は、ようやく決めた覚悟が揺らぐ音が聞こえたような気がして耳を塞ぎたくなった。もう戻れない。躊躇うことなど許されない……その言葉に、脱力しかけた両手を握りなおす。
     前のめりになり、深く埋まった斬魄刀にもたれかかるようにして立っていた作兵衛は、次の瞬間刀が抜かれると喉から呻き声を絞り出した。そうして糸の切れた操り人形をのごとく膝から崩れ落ちると力なく伏し、四肢を地面に投げ出す。長次郎の刀は作兵衛の血でまみれていた。直前まで作兵衛の命をみなぎらせていた液体の、そのぬくもりが刀を通して伝わってくるような気がして、体の芯から震えが生まれる。
     作兵衛の右胸には小さな穴が開いており、みるみるうちに血液が染み出し、黒い死覇装の色をさらに色濃く染め上げる。刀は胸郭を貫き、作兵衛の右肺を穿ったようだ。顔に苦悶を浮かべ、喘ぐように短い呼吸を繰り返す口の端に赤い泡が溜まってゆくのを眺めていた長次郎は、作兵衛を仰向けに転がすと、その上に馬乗りになった。
    「作兵衛……」
     最後に名前を呼ぶと、こちらを見る目に小さな光が灯った。薄く膜が張り、昏い水面を思わせる目の底から、やっと解放される、という言葉が立ち昇り長次郎の内懐に流れ込んでくる。何から、とは聞かなかった。そんなことは長次郎にも分かっていた。
     刀を逆手に持ち直した長次郎は、今度こそ終わらせるために作兵衛の左胸、確実に心臓を抉る場所に突き立てる。体重を掛け、この感触を魂に刻むようにゆっくりと差し込もうとした瞬間、頼りなく不明瞭な声が長次郎の動きを止めた。
     作兵衛の唇が薄く開き、何かを伝えようと小刻みに動いている。その様子に耳を傾けていると、ひゅうひゅうと細く漏れる息遣いに混じって、こんな言葉が聞こえた。
    「……長次郎、先輩」
     この先、自分のことをこう呼んでくれる人間は現れるのだろうか。もしかしたら永遠に現れないかもしれない。元柳斎の首を取ることが目的だったとしても、自分のようになりたいと追いかけてくれた作兵衛の、あのきらきらとした目は嘘ではなかったと思いたい。自分にとって最初で最後になるかもしれない存在にそっと別れを告げると、長次郎は刀を握る手に力を込めた。
     ぶつり、と刃物が肉を刺す感触が伝わってくる。切っ先が心臓を貫いた瞬間、作兵衛は二、三度体を痙攣させた。少しの間、刀を通して筋肉の動きを掌で感じることができていたが、やがて全身の機能が絶えてしまったのか、作兵衛はだらりと弛緩し、そのまま動かなくなった。
     長次郎は、最後まで自分を見上げていた作兵衛の瞳から光が消え、濁ってゆくのをただじっと見つめていることしかできなかった。


     長次郎が全てを終わらせた時には、日は南に上がりきっていた。背の高いクヌギの木の下、苔の生えたいびつな丸石の隣に作られた土饅頭の前に座り込んだ長次郎は、今しがた自分が作ったその墓を呆然と眺めていた。枯れた草がざわめく微かな音が耳に入り、その知覚すらも刺激になりそうなほど敏感になった心がじくじくと疼く。
     視界の端にちらつく紅葉の鮮やかさが目に染みる。そのはるか向こうに広がる薄水色の空を見た長次郎は、荒んだ胸を優しく覆い隠してくれるような淡々しさにこみ上げるものがあった。
     どれだけの時間そうしていたのだろう。体から熱が抜け、芯から冷えてくるような寒々しさにぶるりと震えた時、背後に誰かが立ったことに気付いた。
     長次郎はすぐさま後ろを向くと、相手に向かって平伏する。こんな腑抜けた顔は見せられない。そんな思いからだったのだが、地面に付いた指先の、爪の間に入り込んでまだ乾かない土が目に入ってくると、今の自分の姿がいかに情けないものかをさまざまと見せつけられたような気分になり、きゅっと唇を噛み締める。
    「元柳斎殿」
     目の前の人物の名を呼ぶと、うむ、と唸り声のような返事が降ってくる。主に今の自分の心中を読み取られないように、長次郎は声を張り上げる。
    「瀞霊廷にて騒動を起こし、拘禁牢から逃亡した渦楽作兵衛は、この通り私が始末しました。亡骸もすでに葬ってあります。今後も元柳斎殿へ仇なす危険性が感じられましたので、私の独断で動きました。勝手な行動、お許しください」
     地に擦りつけるように、腰を曲げて深く頭を下げる。そのまま動こうとしない長次郎を不審に思ったのか、元柳斎が訝しむ気配が漂ってきた。この時ばかりは早々に立ち去って欲しいと願った長次郎は、胸を占めるものが相手に伝わらないように、固く瞼を閉じて感情の荒波に耐える。
    「長次郎、顔を上げよ」
     元柳斎に言われ、長次郎は身を起こす。しかし瞼を開くと視界が不鮮明に滲み、目元に熱が集中していることに気付いてしまったため、途中で動きを止めた。目のふちを滑った液体が目頭に集まり、大きな粒となってぽたりと音を立てて地面に落ちる。
     いけない、と目元を拭おうとした時にはもう遅かった。長次郎、と降ってくる声に呼応するように涙は次々とあふれ出し、目から流れる。喉が締まる思いがして何も言えなかった。どうすることもできず、長次郎は地面に顔を向けたまま、涙が雨のように落ちる様子を見ていることしかできなかった。
     前方から元柳斎が近寄り、膝を付く。そうして長次郎の肩に手を置くと、力を込めて引き上げ、上を向かせた。
     長次郎の頬をいくつもの涙が伝う。自分の視界を覆う水の膜の向こうで元柳斎が悲痛な面持ちをしているのを感じ取った長次郎は、これ以上見られないように顔を背けようとした。だがかさついた手が頬を包み込んだためそれは叶わなかった。無骨な指が涙をひと掬いすると、長次郎の中で耐えていたものが音を立てて崩れてゆく。
    「長次郎、お主には辛い思いをさせてしまった」
     元柳斎の言葉に、長次郎は頭を振った。
    「いえ、わ、わたしは……げんりゅうさい、どのの……み、みぎうで、ですから……!」
     しゃっくり上げながら言い切った長次郎を、元柳斎が優しく抱きしめた。陰惨な夜と凍り付いた心、そして冷たくなった作兵衛。血の通った人間のぬくもりが、駆け巡った昨夜の記憶の全てを包み込む。元柳斎の胸から聞こえる心臓の音にこらえることができなくなった長次郎は、やがて子どものように声を上げて泣き出した。
     自分が育てた死神が、そう遠くない未来に元柳斎の支えとなれれば……。
     布団の中で思い描いていた幸福が、涙とともに零れ落ちてゆく。

     8

     隊士が出払った十番隊舎は人の気配がまるでなく、しんと静まり返っていた。部屋という部屋全ての音を拾い集めるかのように耳をすまして気配を探れど、足音どころか虫の羽音一つしない、不気味な静寂。
     一人自室に戻った雨緒紀は、その静謐さに蓄積した疲労が溶けてゆくような心地だった。七番隊舎での険悪さも、雑木林での絶叫も、拘禁牢での罵倒も、そして先ほどの卯ノ花の痛罵も……めまぐるしい夜の記憶を和らげるような静けさは、しかし長くは続かなかった。雨緒紀の背後、部屋の入口に立った人影が、目の前の薄汚れた壁に大きく映し出される。
    「……やっと分かったぜ。夕べ、お前がうちの敷地にいた理由が」
     乃武綱の声だった。雨緒紀の答えは求めていなかったのだろう。乃武綱は間を置かずに言葉を続ける。
    「作兵衛があそこに火をつけるって分かってたんだろ。その上で俺にも何も言わず、しかもほいほい騙されておびき出されて火を付けられたと。ざまあねえな」
    「……まさか十二番隊で騒ぎを起こされるとは思っていなかった。そこは完全な過失だ。認めよう。だが、これは必要なことだった。渦楽には、山本に襲い掛かってもらう必要があった」
     「自分が何を言ってるのか分かってんのか?」低く返ってきた声が、乃武綱の感情が昂ぶりかけていることを物語っていた。背後の男に火が点けば最後、背中を向けている自分は一思いに屠られるだろう。そう思いつつも雨緒紀には、乃武綱は自分を害さないという確信があった。それは決して相手を侮っているからではない。
     この男は知るということに関しては人一倍貪欲だ。知らぬということが命取りになるこの世界では当然と言えば当然だが、乃武綱においては他人の深奥まで覗き込もうと虎視眈々と機会を狙っている。だからこそ人の機微を見ることに長けているのだろう。そして、真実を詳らかにしなければ気が済まないのもこの男の特徴だ。
     ならば、その知りたがりに答えてやろうではないか。雨緒紀は壁に目を据えたまま、淡々と答える。
    「分かっているさ。あいつが混乱を引き起こすのを分かっていて、あえて止めなかったのだからな」
     瞬間、場の空気が張り詰めたのを感じた。
    「長次郎に手を下させるためか……?」
     乃武綱の問いに、雨緒紀は答えなかった。それを肯定と取ったのだろう。乃武綱は少しだけ考えるそぶりを見せると、質問を変える。
    「拘禁牢の鍵、誰が開けたと思う?」
    「さあ、誰だろうな」
    「もう知ってるだろうが……長次郎だ。鍵を持って拘禁牢に行くあいつを知霧が見たんだと。お前の教育の賜物だな」
     そこでようやく振り向くと、穏やかに流れる秋の景色を背に爆発寸前の憤怒をすんでのところで抑え、憎々しげに歪む顔が見えた。普段の飄々さを手放し、鋭さを増す目が不快感をあらわにしているのを感じた雨緒紀は、その目をじっと見つめ返す。
     表情一つ変えない無反応が神経を逆撫でたのか、乃武綱は一層低く唸った。
    「満足か? 長次郎に作兵衛を始末させて」
    「……ああ、満足だ。だがまだ足りない。あいつはまだ鋭くなることができる。素質があるんだ……この先、護廷十三隊の要になるためには、長次郎は自分の中の甘さを捨て切らなければ生き残れない」
    「お前の言う甘いって、何だよ。他人を許すことか? 笑顔を見せることか? 弱い部分をさらけ出すことか? 恐怖で人を縛るような人間が完璧な右腕だって本気で思ってんのか?」
    「それが全てではない。だが、必要な要素ではある」
    「一度は作兵衛を助けると思わせておいて長次郎に人を嵌めるようなことをさせ、始末させる……光を見せて突き落とすような真似をするなんて、随分なやり方だな」
     その言葉にかちりときた雨緒紀は、「おい、さっきから聞いていれば私が長次郎に命令して全てをやらせたような言い草だな」と乃武綱を睨みつけた。この男はどれだけ長次郎を甘やかしたいのだ。いい加減にしろと言わんばかりの顔を作った雨緒紀は、こみ上げる苛立ちのまま口を動かす。
    「お前は長次郎をただの子どもにしたいのか。あいつは必要なことを自分で選び取れる。私の言ったことを一から十まで聞き入れ、唯々諾々と聞くだけの傀儡だと思っているのか。だとしたら考えを改めろ。長次郎はそんな愚か者ではない。渦楽を嵌めるためにわざと逃がしたのも、逃げたことを口実にして始末したのも、全てあいつの頭が導き出したこと。お前の言う〝随分なやり方〟を選んだのは、他ならぬあいつだ」
    「そうするように追い詰めたのはてめえだろ!」
     全身を声にして遮った乃武綱が、血走った目を向けてきた。関節が白く浮き上がるほど握り締めた拳で今にも殴りかかってきそうな勢いに気圧されそうになったが、無感情な顔を保つことでその激昂を受け流し、雨緒紀は座したまま乃武綱の言葉を聞く。
    「てめえは口だけは上手いからな。長次郎を騙すなんてわけねえさ。長次郎が自分に懐いて、信じてくれるのをいいことに……」
    「……馬鹿を言うな。私がそんな卑劣な人間に見えるのか。執行、お前の考えなど分かっている。長次郎が可愛くて仕方がないのだろう。そうして無知な子どものまま自分の傍に置いて、大事に大事に可愛がっていたいのだろう。あの執行乃武綱が人形遊びとは、とんだ腑抜けになったものだ」
     たっぷりの皮肉を込めた言葉に、今度こそ我慢の限界を超えた乃武綱は「なんだと……! 今日こそそのすましたツラをぶっとばしてやる!」と、怒鳴りながら部屋に押し入ってくる。
     その時だった。部屋の外からがたり、と物音がして、二人の間で閃いていた殺意がわずかに弛緩する。
    「誰だ!」
     真っ先に叫んだのは乃武綱だった。弾かれたように身を翻して縁側へ飛び出した乃武綱は、直後、ぴたりと動きを止めた。見開いた目に浮かんでいるのはそれまで支配していた怒りではなく動揺で、呆けたように通路の向こうを見ていた乃武綱は、やがて唇を震わせながら一言、呟いた。
    「長次郎……」
     小さな足音が部屋に近くと障子の向こう側に黒い人影が現れ、乃武綱の前で止まる。その背格好はまさしく長次郎のものだった。長次郎の影が頭を動かして乃武綱を仰ぎ見る様子はまるで影絵を見ているよう。対照的に、開け放たれた方の入り口に立っている乃武綱の表情は見て取ることができた。
     その顔は、今にも泣き出しそうなほどに歪められていた。
    「お前、その顔……」
     続いた声にようやくおかしいと思った雨緒紀が腰を上げたところで、乃武綱は影絵が映し出されている方の障子戸を勢いよく押しやった。
    「雨緒紀、これがてめえの望んでいたものか!」
     障子が桟を滑る音とともに、悲痛な叫び声が響く。長次郎を目にした瞬間、雨緒紀は周囲から一切の音が消えてしまったような錯覚に陥った。
     こちらを見る透徹した瞳には、孤独を恐れる子どもの不安がありありと浮かんでいた。目は真っ赤に腫れ、瞼はぷっくりと膨れており、その重さに引きずられるように眉は頼りなく下がっている。普段の五月蠅いほどに溌剌とした青年はどこにもいなかった。幾分か幼く見えるその顔から視線を体へとずらせば、胸の前で握られた手は土で汚れており、さらにその下の死覇装には血や埃がこびりついていた。
     瞬間、それまでよどみなく巡っていた思考が輪郭を失い、塵となって霧散し、脳内がけぶるような白に染められた。後悔という文字が浮かび、それ以外何も考えられなくなった雨緒紀は「王途川殿……」と自分の名を呼ぶ掠れた声が鼓膜を刺激したのを皮切りに、足元から力が抜けていくような脱力感に襲われた。
     棒となった足を一歩踏み出し、長次郎に近付いた。そうして小さく震える両手で長次郎の頬をそっと包み込み、その顔を覗き込んだ。赤く染まった頬が掌を溶かしつくさんばかりの熱を持っている。それはまさしく生きている人間の心が、悲鳴を上げたということだ。
     雨緒紀は肋骨の下で、ぼう、とあたたかいものが生まれるのを感じた。このぬくもりを知っている。人間の中で最も脆弱で、そして大切なもの……どこかに置き去りにした〝心〟というものがようやく追いつき、体に戻ったといった感じだった。胸から広がるさざ波は喉を過ぎ、目元まで競り上がると熱となって一点に集中し、こちらをじっと見上げる長次郎の顔がぼやけてゆく。
     乃武綱がそうしたように「長次郎」と名前を呼んだ雨緒紀はひくつく喉を限界まで絞り、小さく呟いた。
    「違う。私は、お前にそんな顔をさせたかったわけじゃ……」
     零してしまった声のあまりの弱さに、我に返って顔を上げると、長次郎の後ろに立つ乃武綱と目が合った。その顔からは怒気は消え、代わりに微笑が浮かんでいた。子どもの成長を見守る親が備え持っているような、やさしさと慈しみを含んだ微笑み。柔らかな眼差しを素直に受け取ることができず、それどころか自分を憐れんでいるような卑屈な感覚が競り上がり、いたたまれない気持ちになる。
     どこかへ逃げたい。そんな焦燥感に手を引かれる心地となった雨緒紀は長次郎の脇を抜け、部屋を飛び出すと廊下を早足で突き進んだ。自分を呼ぶ青年の声が嫌でも耳に入ってくる。それを振り切って前を向いたその時、天井を突き破るような巨体と鉢合い、一度足を止めた。
     夜通しの任務から帰って来た有嬪だった。有嬪は雨緒紀の顔を見るやいなや目を丸くし、何事かと口を開こうとした。そこにもやはり、乃武綱が浮かべていた慈しみが滲んでいた。
     ──雨緒紀はさ、自分で自分を傷つけているように見えるぜ。
     いつかの有嬪の言葉が、脳内で反響する。そこから逃れるために雨緒紀は有嬪の横を素通りし、誰もいない十番隊舎をあてもなく進む。

      *

    「王途川殿!」
     耳朶を打った声に、乃武綱は反射的に腕を伸ばしていた。駆け出そうとした長次郎の肩を掴み、その場に留まらせると、心配そうにこちらを見上げる目を真っ直ぐに見やる。
    「俺が行く。お前は部屋に戻れ」
     その反応を見ないまま部屋を出た乃武綱は、廊下の角を曲がったところで有嬪と顔を合わせることになった。有嬪は雨緒紀の顔を見たのだろう。「おい、雨緒紀が……!」と明らかな戸惑いを浮かべた顔に小さく頷きを返すと、前方に目を向けたまま口を開く。
    「帰ったか。わけは後で話す」
    「おめぇ、雨緒紀になんか言ったのか?」
    「今から言うところだ。悪いけど俺に行かせてくれ。お前は長次郎を頼む」
     言いながらちらりと背後を顎で示せば、有嬪はすぐにいつものにやけ顔を作り「分かった」と乃武綱の肩を叩き、すれ違う。
    「雨緒紀を頼むぜ」
     去り際聞こえた声に任せろ、とだけ呟くと、乃武綱は静寂から雨緒紀の霊圧を救い取り、その糸を辿りはじめる。精神のぶれがそのまま反映されているように乱れた霊圧は建物の外へ伸び、門の方へと続いていた。霊圧を隠しもしないなんて、相当動揺してるな。考えながら瞬歩を使って追いかければ予想通り雨緒紀は門を出て、どこかへ行こうとしていた。
     こちらも霊圧を放出したまま背後に忍び寄れば、雨緒紀はあっさりと立ち止まり、門の方に顔を向けたまま言い放った。
    「ついてくるな」
     駄々っ子の声に、乃武綱は即座に首を振る。
    「悪いな。でも話はまだ終わっちゃいねえ」
    「私の情けない姿を笑いに来たのか? そうだな。普段お前は私のことを疎んでいるから、弱った姿などさぞ貶め甲斐があるだろう」
    「何でそうなるんだよ。俺はお前みたいにひねくれちゃいねえ。さっきはああ言ったけどな、お前がお前なりに長次郎のことを考えているのは分かってるつもりだぜ?」
     逃げ出さないということは、こちらの話を聞く気持ちはまだ残っているようだ。なんの反応も示さない雨緒紀に対し勝手にそう判断した乃武綱は、十の文字が書かれた白い隊長羽織を見つめながら静かに続ける。
    「荒っぽいけど、お綺麗な長次郎には必要なことだって分かってる。今回のことだって、教えておいた方がいい心得の一つだったと思うさ。人を全く疑わずに生きることの恐ろしさは俺だって分かってる。あそこまでやることはねえと思うがな。
     けどよ、お前一人が長次郎の傍にいるわけじゃないんだ。お前が突っ走って、嫌な役をやって、長次郎の在り方を無理矢理捻じ曲げることはないと思う。あいつなら、きっと自分で進めるぜ」
    「……何故そう言い切れる」
     跳ね返ってきた声は、不審というよりも疑問に近い響きだった。何故お前は長次郎を信じることができる。人の内面を覗くことなどできはしないのに、何故長次郎ならばできるとはっきり言えるのだ。わずかに震える肩がそう問いかけてくるように感じた乃武綱は、お前がそれを言うのか、と咄嗟に口をつきそうになったのを喉元でこらえると、努めて穏やかな声を作った。
    「お前ついさっき言ってたじゃねえか。長次郎は必要なことを選び取れるって。そういうことだ。お前だって、心のどこかでは長次郎を信じてるってことだよ」
     雨緒紀がはっとするのが見て取れた。あの端正な顔が虚を衝かれ、おそらくぽかんと口を開けているであろう様子を想像すると笑みが零れそうになり、唇を結んだ乃武綱は「だからよ、俺たちは長次郎が道を逸れそうになったら腕を引いてやるくらいの気持ちでいていいんじゃねえか?」と重ねた。
    「お前は、本当は俺たちと同じものを持っているんじゃないかと、俺は思っている。誰かを慈しむ気持ちとか、大切にしたいとか、そういう思いを……」
     そこまで言ったところで、雨緒紀は小さく首を振った。乃武綱の言葉を認めたくないというように、あるいはこの悪夢から早く目覚めたいと言わんばかりに。その証拠に雨緒紀が他人を見つめる時に漂わせる――他人とは一線を画し、意固地とも強情とも呼べる堅苦しい空気を知覚した乃武綱は、次の瞬間には「馬鹿を言うな」という声を聞いていた。
    「私はそんなに甘い人間じゃない。お前たちとは違う」
     決然と言うと、雨緒紀は最後に一度振り向き、自分以外の一切を拒絶する冷徹な瞳を見せた。しかし何かを言うことはなく、すぐにこちらに背中を向けると門をくぐり、どこかへ行ってしまう。
     乃武綱はもう追いかけなかった。代わりに一つ、大きな溜息を吐いてみせる。
    「どうしてああ素直じゃないかねえ」
     ひとりごちた乃武綱は、次にはにたりと意地の悪い笑みを浮かべ、雨緒紀が消えた方角を見る。このままあのへそ曲がりの思う通りにさせてたまるか。あの優等生面を剥ぎ取り、その内側を暴き、臓腑の奥底に封されているものを、必ず引きずり出してやる……。
    「……あいつの腹の中、覗いてみるとするか」
     その声を聞いていたのは、澄み渡った秋の空気だけだった。風に乗ってひらりと舞う赤い葉が鮮やかに目の前で翻り、それがまるで泣きはらした目のようだと考えた乃武綱は、長次郎の様子を確かめるべく来た道を戻って行った。

          ≪了≫
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    Replies from the creator

    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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