リーンカーネーション(中/触れ得ぬ知識)「ぼくは何も解らないよ。何も解っていやしないよ。不思議、不思議、全部知りたいなあ。例えば明日の天気のこと、どうして夕日は赤いのか、海の深さ、空の高さ、青の謎。すばらしい不思議に満ちたこの景色、ソウルのかたち、ひとの思うこと、百年前の今日の出来事、手紙の書き方に関する見識、ダイヤモンドの雨は降るのか、二足す二の真の解、生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えの理由、その他大小様々のこと。答えをすべて手に入れられれば、すべて知り得ることができれば、ぼくにもきっと最適解が得られる。きみたちにとって欲しい答えは最初から一つだけなんでしょう? でも、きみたちは残念なことにはずれのぼくを掴まされた哀れな存在であるのだから、その欲しい答えにはどうやったって辿り着けやしない。ぼくとそれを知覚するこのぼくとが根本的に変わらない限り、どの言葉にも裏側ができてしまうから」
「はずれとか言うなよ。お前さんだって十分頑張っただろ」
投げやり気味にそう言ってやると、人間はそう言われることを十分予想していたように溜息混じりに少し笑った。風が吹いていた。からからに乾涸びていくような気持ちで黙っているより他にはなかった。少しずつ風は強くなっていく。なびく髪の先が、薄手の服の裾が、現実の重みなどまるで無視して風に漂う。
「頑張ったその結果がこのざまだ。ぼくはきみとの最後の約束まで破って、もう本当に友達でもなんでもない。この崖っぷちみたいな、壊れそうな時間軸で、ぼくにとってだけの一番の正解に一番近づくにはもうこうするより他にないんだ。きみたちが無事平穏に幸せに暮らすにはこのぼくが目を離すか、誰の手も入らないようにぼくが一生見張っているかしか方法はないんだ。いや、本当は他にもまだあるのかも。それは希望だとか理想だとか呼ばれていて、このぼくには原理的に不可能なことかもしれないけれどね」
間違っているかな? ふと気づくと人間はもうそこには居ない。居ない訳がない。居なくなった訳ではない。しかし目の前の光景が嫌でも上から上から目に焼き付いていく。必死で振り払おうとするだけ無駄だった。居ないものは居ない。諦めて顔を伏せた。少しは誰もいない印象をこれ以上上塗りされないように。
「旅をして、地上に出て、ここで暮らして、そうしてもう随分経ったし思い出だって山ほど増えた。今更リセットするには勿体ないくらいにね。ぼくからは消えない。でも、きみたちは全部元に戻る。なんにもなくなってしまう。もう一度繰り返すのはそんなに大儀なことじゃないけれど、その分だけまた少しきみたちから心が離れてしまう。今しかない。ぼくは今とここしかないんだ。ぼくはもう何もかもを棄て、あまねくのり超え、すべてを踏み躙り、それからあり得た可能性を夢見ている。きみが探しているんじゃない。ぼくが探してほしくてきみにそうさせている。たとえ投げ出したって、それもぼくがそうさせているんだ。それを聞いて冗談じゃないと思うことも分かっていて、だからきみの意思に全部任せている。見つけてほしい。探してほしくない。どっちも同じくらい、同じだけの強さで思っているよ」
心が裂けていく。心が歪んでいく。信じられないくらい薄っぺらな人間味がどこまでも心を削っていく。
「いてもいなくても大丈夫だけど、こちらに目を向けた瞬間から可能性は確定してしまうもの。ここにぼくがいる現実といない現実を同時に見ることはできないから、「ぼくが望んだ通り」ぼくはきみの目を通してこのぼくがいることを見てしまう。物語はその分だけ進み、きみたちは生きてぼくは死ぬ。きみたちのことは変わらず好きだよ。大好きだった。この上にこのぼくはもうなんにも書きたくない。言葉の意味も届かないのにこれ以上何も言いたくない。だからああいう風に警告を書いておいたのに。すべて壊して何もかも作り直したぼくに二度とリセットさせないためにきみは不変を望んでいるのでしょう?」
「……違う。オレはお前が時間軸をめちゃくちゃにするのを止めさせたいだけだ」
「そうは言ってもね、めちゃくちゃにならないためには不変であるしかないんだ。これから状況が動き変わっていくということはつまり滅茶苦茶になる可能性さえ内包していることを許容するということでもあるんだよ。ぼくはいつだってリセットすることができる。それを取り除くならぼくの意思はあっちゃいけないし、誰かがリセットしないようにこのぼくを見張っていなければならない。選択肢はいつだってここにあるんだ。可能性と共にね」
「仮に、フリスクだとしても……そう言うのか」
「そう。仮にフリスクだからこそ、このぼくはきみたちに提案している。せっかく手に入れたハッピーエンドだもの。このぼくはフリスクとしてのぼくを無視するわけにはいかないし、このぼくである以上他のフリスクになることはできない。もう一度フリスクになるにはリセットしなくちゃいけないし、記憶は日が経つごとに失われていくものだから、開けた可能性のままずっと閉じておくかその先を未来を見るためにもう一度滅茶苦茶になるかを選んでほしいな。ぼくはきっと、その通りに変える。きみたちの総意としてぼくは動く。そしてこのぼくからは受けるべき幸福の分がまた取り除かれる」
柔らかな陽射しが窓から染みこんでくる。初夏の午後にしてはやけに冷たい風が吹いていた。そして季節感のない人間、それから自分。原理的に不可能の理をひっくり返し真実というものを知り得るならば何が正しく何が誤っているかも正しく判別できるだろう。
「あるときぼくはこう言った、「きみたちが本当はただの書き割りに過ぎないことに気付いたとしてももう大丈夫。誰かの幸福と両手にいっぱいの傷とがあれば今この瞬間他の誰でもないこのぼくでも無限に幸せを噛みしめていられる、ごめんね」と。そのときのぼくはどうやったらこの手を放して終われるかということに重大な関心を持っていて、開けた未来という可能性を形として残した。みんな大好きだよ。もちろんきみのことも。世間一般に言われる親愛や思慕の意味じゃなく、事実を形にするためだけにぼくはそう言っている。ぼくがこのぼくにどう解釈されてもいいように、当然他の人からもそのように、意味は抜きにして言葉を音にしているだけ。このぼくに本当の気持ちとかいうものがあると思う? 本当に「本当の気持ち」だとどうやって証明できると思う? 理屈じゃ説明できないんだよ」
月が満ちる。その目が開かれる。