夜の寒さが身に染みる。
意外にも高い彼のプライドのために、これは自分のためだと言うように体を寄せる。
先程から続いていた震えはようやく止まったようだ。
奉一の得物——三味線の三の糸が標的の首を締め上げたまではよかった。そのまま首の肉を裂き、小雨となって降り注ぐ。一瞬の出来事だった。
その瞬間、奉一の顔は見たことのない恐怖に染まっていた。彦助は咄嗟に奉一の体を引っ張り寄せる。
「おい、大丈夫か!?」
血糊で服が汚れるのも構わずに声を掛ける。
見たことのない様相。彦助の服を掴んだ手に上手く力が入っていない。誰がどう見たって、大丈夫では無かった。
「……分かった。とりあえず息をしろ。そう……ゆっくりだ」
「…………」
人はパニックになると呼吸の仕方から忘れていく。
かふかふと咳き込みながらも息を吸って、吐いて。過呼吸を起こさないように、トントンと背中を叩いてリズムを作ってやる。……まだ、震えが止まらない。
壁を背もたれに奉一に座れと促す。抵抗を知らない体はストンと素直にその場に座り込んだ。
同じ目線になるようにしゃがんで、袖で顔の血を拭ってやる。真っ青な顔。
誰かのために何も出来ないことがこんなにももどかしいとは思わなかった。
——そうして話は最初に戻る。
「……、……」
とつとつと、奉一が口を開く。どうしてこうなったのか。
初めて気付いたのは包丁でうっかり指を切ってしまったときのこと。
何故か頭の裏に浮かぶ光景。しかもそれは自分ではなく、全く知らない誰かの記憶。それでも、凄惨な事件であることだけは分かった。
見たことのない得物。真っ赤に染まる視界。バラバラと積み重なる子供や大人たち。
自分が身分で刀を持てなくて助かった。稽古はつけてもらったけれど、人を斬れる自信がない。
前に護身用に短刀をくれただろう。あれは……御守りにしてる。
話し終えた奉一がまるで甘えるように擦り寄る。どんな言葉を返すのが正しいのだろうか。
考えあぐねているとそうだ、と思い出したように呟いた。
「………?」
「ああ……目的は終わったよ。この襖の先には仏さんがゴロゴロ転がってる」
「…………」
「はは、滅多なことを言うなよ。そうだったら俺がお前さんを始末しないといけない」
「……」
「大丈夫だ。お前の手が命の重みを覚えているなら、それは本物だ」
その言葉を聞いてじっと手を眺める。何を考えているのかは掴めないが、安心させるように彦助は自らの手で被せるように握ってやった。
それに驚いたのか顔を上げてこちらを見つめてきたが、ふと表情を緩める。
震えは止まった。彼の精神もずっと凪いでいる。だけれど、いまだ顔色はあまり良くない気がする。
頬に手を当ててやると不思議そうな顔をした。薄い唇に目を奪われる。
「あー……今からやることは邪な意味じゃないからな」
「?」
言い訳。黒い目が更にきょとんとする。
気付かれないように息を吐いて、思いきったように顔を近付ける。逃げられない。後ろは壁だ。
唇と唇が触れる。それだけでは終わらせない。閉じたそこを舌で開けさせようとつついた。
「ん、む……!」
何かを抗議しようとして開いたそれをチャンスだとばかりにもっと深く口付ける。
舌と舌が触れ合う。異様な光景だ。ましてやこんなところで。文句はあとで聞こう。
今はただ温もりを分かち合いたい。のぼせてしまうほどの熱を、彼に与えたかった。
邪な意味は無い。その言葉を反故にしないように気を付けながら、ちらと顔を覗き見る。
羞恥で赤く染まった顔を見て、同じ赤ならこっちのほうがずっといい。そう思いながら口吸いに耽った。