どうか僕の手を取って(仮題)「愚かだな、君も、俺も」
特殊加工が施された防塵硝子を透かして、朝のやけに清々しい陽の光が白々しく病室を照らす。砂漠の日差しは強いが、朝のそれはそれほどでもなく都市部と同じように静やかだ。
病室だからこそ明るくしたいんだと、この元ダールアルシファの改築を教令院から依頼された建築デザイナーが言っていたのをアルハイゼンは思い出した。
まさか当の本人は、自分がその病院の世話になって、その居心地を自分の身で確かめることになるなんて思いもしなかっただろう。アルハイゼンは未だ昏々と眠り続けるカーヴェの土気色をした顔を見下ろし、それから彼の手をそっと握った。
添木と包帯でしっかり固定され、幾つも点滴の管を入れられた傷だらけの彼の手は氷のように冷たくて、手首から感じられる脈拍は酷く弱々しい。
数日前に医師に言われた言葉が脳裏に過ぎる。
───奇跡的に一命は取り留めましたが、全身打撲による臓器損傷や複数箇所の骨折で、あまり容態は芳しくありません。予断を許さない状態は暫く続くでしょう。ですので、面会が可能な日でも、三十分までにして頂きたい。幸いなことに頭部の損傷はありませんので状態が落ち着き次第、目を覚ますでしょう。
壁にかけられた時計を見ればもう時間だ。
艶を失い色褪せたアッシュブロンドを柔らかく撫でてアルハイゼンは病室を後にした。
「明日もまた来る。……君が、早く目覚めることを祈っているよ」
去り際に放たれた言葉は聞く者の居ないまま、ただ、あえかな寝息のみが聞こえる静かな部屋に霧散する。
病院を出ればあちらこちらから、村周辺の崖を補強工事する音が聞こえてきた。
もしもこの工事があと少しでも早く始まっていれば、彼もあんなことにはならなかったのだろうか。
遠くアアル村の方、大きく崩れた崖を見てアルハイゼンは溜息を吐く。
一週間前の崩落事故のことはまるで昨日の事のように思い出せた。
砂漠の開発事業でサングマハベイに散々こき使われたカーヴェは、その時の依頼料で無事に借金を完済し、アルハイゼンの家を出て、プロジェクトの際に使っていた仮住まいへと移り住んでいた。
アアル村から教令院に提出された村周辺の岩場の補強工事の申請を受理し、工事の準備が整ったというのでアルハイゼンはその確認のついでに、この一二年、暫く会っていなかった元ルームメイトの顔でも見に行こうと思ったのだ。
けれどキャラバン宿駅まで来たところで物凄い突如轟音と振動が聞こえた。音のした方角を見るとアアル村の、丁度七天神像のある辺りの崖が崩れて濛々と砂埃が上がっている。
崩落したのは崖のごく一部だったから村の中の建物にいた人達は無事だったものの、何人かが生き埋めになっていた。
とは言え、一人を除いて彼らの身体には多量の草元素で精製された蔦が巻きついていて、それが緩衝材の役割を果たしたから擦り傷や切り傷くらいで済んでいたが。
最初に土砂と瓦礫の中から助けられた子供の身に付着していた草元素力に嫌なものを感じたが、最悪な予感ほどよく当たるものだ。
こんな形で再会なんてしたくはなかった。
「……カーヴェ、……き、み……なのか……?」
掘り起こされた土砂の中、最後に救助された人の惨状に思わずアルハイゼンの口からは掠れた声が漏れた。信じたくは無いが、彼の傍に落ちている土に塗れた孔雀羽の羽飾りと瓦礫で引き裂かれ、汚れてぼろぼろになった赤い外套が事実を物語っている。
神像の傍で土砂と瓦礫に押し潰され、変わり果てた姿で見つかったその人は、アルハイゼンのよく知る元共同研究者で元ルームメイトだった。
救助された人たちからあとで聞いた話では、彼は七天神像の宝珠で自身の操る草元素力を増幅させ他の村人を守ろうとしたらしい。自分は最低限頭と首だけを守って他のリソースは全て他人に注いだからああなったとか。
何とも彼らしい話だった。
◈
砂漠の大規模な開発事業に携わることになってすぐ、アルハイゼンの家にカーヴェが帰ってくることはめっきり減った。
共同生活が終わりを告げたのはそんなある日の事だった。
仕事から帰ってくれば数週間ぶりにカーヴェが戻ってきていて夕食の用意を済ませて待っていた。
「急な話になるけれど、明日の朝にはこの家を出ていくよ。そして、もう戻らない。……今まで世話になったな。これが今月分の家賃と君にツケていた分の酒代だ」
ゴトリとカーヴェはモラの詰まった皮袋を幾つか机に置いた。どうやら本当のことらしい。
「……少しばかり多いようだが?」
「今までの迷惑料だと思って受け取ってくれ、多い分には構わないだろう?」
「それで、住む家の当てはあるのか?」
「勿論。アアル村の一角にある使われなくなって久しい家屋を借りていたんだけど、こないだそこを買い取ったんだ」
思ったよりも早かったな、と思う。
それと同時にこの奇妙な同居生活が終わりを迎える事へ心残りを感じる自分に、アルハイゼンは心の中で苦笑した。
「……?アルハイゼン、さっきから黙って、どうしたんだ?」
くりりとした深い紅色の瞳が不思議そうにこちらに向けられる。
もし、まだ一緒に住んでいたいと、そんなことを彼に言えば、どんな反応が返ってくるのだろうか。
一瞬そんな莫迦げたことを考えて、下らないと一蹴する。自分は彼に干渉したい訳ではない。
そのはずだ。
それにどこまで行ったって自分と彼は他人でしかない。なのにこの胸に燻る、何とも言えない靄のような感情はなんだというのか。
「……いや、なんでもない。ただ、これを渡そうと思っていた」
出かかった言葉の代わりに、アルハイゼンはもう随分前に用意していたプレゼントを戸棚から取り出して手渡す。
「……これは?」
「製図用のペンだ。前に旅人に連れられて君と二人でフォンテーヌへ行った時、物欲しそうに見ていただろう」
「えっ、いいのか?」
「……そのために用意していたから」
「ありがとう、恩に着るよ」
途端、赤念の実を煮詰めたかのような熟れた紅の瞳がぱぁぁと輝く。このくるくるとよく回る表情も今日で見納めだろう。
その日の夜はいつもの様にそれぞれの部屋で寝て、翌日の早朝にカーヴェはこの家を去った。
「行ってきます。……さようなら、今までありがとう」
微睡みの奥でそんな声が聞こえた気がした。
玄関の扉がパタンと閉まる。
聞きなれた足音が立ち止まることなく遠ざかる。
アルハイゼンが起きた時にはカーヴェの痕跡は、彼が用意したアルハイゼンの分の朝食とテーブルに置かれた合鍵の他にはどこにもなくなっていた。
ルームメイトが元ルームメイトになった瞬間だった。
教令院で仕事を終えたアルハイゼンは、その足でいつもの様にキャラバン宿駅へ向かう。
一度金砂の旅に泊まり、翌日の朝早くダールアルシファまで赴いて、その足でまた教令院へ登院するのが最近の彼の日課になっていた。
とりあえず二週間分を予約している宿の一室で彼は思案に耽る。
今更なんで、こんな事をしているのか、正気に返れば自分でも疑問だった。
彼に貸したままのものも無ければ、彼から借りたままのものも無い。これまで何度も無二の親友から共同研究者、元共同研究者、そしてルームメイトへと上書きされていた互いを結ぶ縁に付けられたタグは、この二年でとうとう縁ごと消し飛んでしまった。もう自分は彼の何でもない。自分の怠慢がそうした。
なのに、瀕死の彼を見た時、柄にも無くどうしようもなく動揺した。
最初の数日は彼の自身を蔑ろにするような決断に酷く憤りを覚えて、そして今は彼の容態が快方に向かうことを心から望んでいる。
普段滅多に祈ることの無い天に、神に、自分以外の何かに、願いと祈りを捧げている。
「……多分俺は、君に、自分の知らない所で勝手に死なれたくないんだろうな」
もし、あの時自分がアアル村の方まで出向いていなければ、奇跡が彼を見放していたら。
そんなことを考えるだけで肝が冷えた。
会おうと思えば会えたのにずっと会わないでおいて、なのに自分に何も言わずに勝手に死ぬのは許さないなんて、全くもって身勝手な話だ。
そう思いながらアルハイゼンは今日貰ってきた異動願いに自分の名前を記す。草神様から許可は既に得ているから、この届出はすぐ人事部に処理されて明後日には自分は砂漠地域の教育開発事業に関する部門に派遣されることだろう。
◈
暫く嗅いでいなかったパティサラの甘くて爽やかな、懐かしい香りにふと目が覚めた。
鉛のように身体が重くて、呼吸の度に全身が軋むように痛む。
ぼやけた視界に映るのは、透明な液体の入った袋と、薄黄色の液体が入った袋が点滴台から吊り下げられてゆらゆら透明な管を垂らしている様。
管の伸びている先を目線で追えば、片方は自分の包帯の巻かれた腕につながっていて、もうひとつは自分の鎖骨の下辺りに差し込まれ上から透明なテープか何かで固定されていた。
両腕だけじゃなく胸から背中にかけても何か硬いものが入れられて上からしっかりと包帯で固定されている。
外に目を向けると、少しだけ開けられた窓からは砂漠の何の変哲もない光景がひろがり、柔らかな朝の陽の光が差し込んでいた。
窓辺に置かれた花瓶には一輪のパティサラの花が活けられ、瑞々しい薄蒼の花弁を爽やかな風に揺らしている。
おそらく自分が寝かされているのは昔改築を手懸けた病院の一室だろう。
たしか、自分はアアル村から、キャラバン宿駅に行こうとして、その時に崖崩れが起きた。
ああそうだ、僕は──────……‥
思い出したところで、睡魔が再度忍び寄ってくる。抗えないまま再び意識を手放した。
それから暫くして、今度は誰かの気配に沈んでいた意識がもう一度浮上する。一体どれほど寝ていたのだろう。目を開けた先、真っ先に目に入ってきた窓の外は宵闇の紫苑に染まっている。
ぼやけたままの視界に映ったのは、先程と同じ白い天井と点滴の袋二つ、そしてそれからこの二年近く、ずっとみていなかった月の光のような銀色だった。
鮮やかな花緑青に丹色の混じった双眸と目が合う。
「……あ、る……はいぜん……?」
殆ど吐息のような、空気を僅かに振動させるだけの掠れた声に名前を呼ばれた当人は大きく目を見開き、小さく震えるように息を零した。
「おはよう。……起きたんだな」
最後に言葉を交わした時からずっと変わらない静かなテノールが優しく鼓膜を揺らす。
こちらを見つめる緋の混ざった碧玉の瞳には安堵の色が見て取れた。
「どう、して……きみ、が……?」
だってもう二年近く会っていない。
それに、彼は出不精なところがあるから基本的に生活圏内はスメールシティに限られる。それもあって長いこと会っていなかったのだ。それが自分の見舞いのためにわざわざこんな砂漠の方にまで来ているなんて、こんな顔をするなんて、一体どういう心境の変化だろう。
「俺がこの病室に来ているのがそんなに不思議か?君がまだくたばっていないか確認しに来ただけだが」
そう言ってアルハイゼンは自分の頭に己の手を当てて撫ぜた。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に彼の手付きはまるで繊細な硝子細工でも扱うかのように優しさに満ちている。
「……きみは、アアル村での崖崩れに巻き込まれた後、一ヶ月半もの間ずっと意識を失っていたんだ。それも先々週までは何度も危篤状態と小康状態を行き来していた。……………よく、頑張ったな」
「!?」
彼の、自分に対する優しげな声と労いよりも、聞き間違いかとも思える時間の長さに驚いて、反射的に体を起こそうと身を捩る。途端全身を駆け巡る鋭い痛み。思わず呻き、げほげほと咳き込めば、慌てたようなアルハイゼンの分厚い手が長期臥床で痩せ細った身体を包帯の上からゆっくり擦る。
少し息が落ち着いた所で彼は自分の手を取って柔らかく握りしめた。
包帯越しだからか、まだ末端の感覚が薄いからか、彼の手の温もりも触れられているような感触も殆ど感じなかったけれど、なんだか少し落ち着くような気がする。呆れたような、でもどこか気の抜けたような声が上から降り掛かってきた。
「……まだ病み上がりなんだ。傷に障るから下手に動くな。医者を呼んでくるよ。すぐ戻る」
「……う、ん。……なぁ、」
鮮やかな紅色の瞳が不安げにこちらを見る。
「なんだ」
「……依頼は、どうなってる?……それと、君、仕事は?どうしたんだ」
記憶が正しければまだ五つくらい依頼があって、そのうち二つは納期まで一ヶ月を切っている……つまりもう期限を過ぎている筈だ。
焦ったようなカーヴェの問いにアルハイゼンは盛大なため息をついた。
「…………。まず君は自分の身体を治すことを考えろ。それに、俺の仕事のことなんて君が気にしてどうするんだ」