螺旋の贖罪◈◈◈
お前に見せたいものがある。夜遅くに悪いが、日付が変わる頃にまたここで落ち合うことは出来ないか?
珍しくセノにそう声をかけられ、連れていかれたのはアムリタ学院の研究室の一角だった。なんのことは無いただの研究室だが、よく見れば数箇所、床の色が他とほんの僅かに違うところがある。セノがその中の一つの床板を叩き、そっとそれをはずせば下に続く通路が現れた。
中に入れば入り組んだ通路がずっと奥まで続いている。複雑怪奇な迷路の様なその通路を、彼の先導で歩いていけば唐突に明るい開けた部屋に辿り着いた。
そこはガラス張りにされた小さな密室。
その中に備え付けられた寝台の上に七、八歳程の病衣を着た少年が片腕に抗菌薬の入った点滴をぶら下げて、時折咳き込みながら本を読んでいた。
彼の毛先に行くにつれて鳶色を増すアッシュブロンドにアルハイゼンは見覚えがあった。
「……カーヴェ?」
思わず口から出たつぶやきはガラス越しでも聞こえたのだろうか、それとも突然現れた見知らぬ人を警戒したのか、少年は本を読む手を止めて顔を上げる。
こちらをじっと不思議そうに覗き込むサングイトの紅い双眸。
くりりとした大きなつり目に整った鼻筋、薄い唇、全てが昔写真で見た幼少期の彼の顔とまるきり同じでアルハイゼンはサァと背筋が凍るのを感じた。
驚愕に狭窄した気管を呼気が掠めてヒュウと笛のような音が鳴る。
そして同時に彼の名前でその少年を呼んだことを酷く後悔した。
だって彼は、アルハイゼンの知るカーヴェは、十年も前に故人になっているのだから。
だから、目の前にいるこの少年は彼によく似ただけの別人だ。その筈だ。
傍らの青年の、感情の発露の乏しい表情はそのままに、ぎしと血が滲むほど強く握り締められた手を見てセノは小さく息を吐く。
見せたかったものは彼に見せた。そう判断し彼はアルハイゼンに場所を移そうと提案した。
それでアルハイゼンは教令院のほど近く、今はもう住む人が自分一人となった自宅に大マハマトラを招き入れて問い質す。
「……あれは一体どういう事だ?」
未だに瞼の裏にはカーヴェによく似た少年の顔が焼き付いて離れてくれない。幻覚だ、ただの夢だ、と信じたかったが怒りのあまりに握りしめた手のひら、そこに残った自分の爪の跡が今見たものが全て現実であると生々しく知らせてくる。
口から漏れた声は、普段理性的で感情をあまり感じさせない彼にしては数段と低く、怒りに震えていた。
「あの研究室から時折子供の咳をする音とあやまる声が夜な夜な聞こえてくる、という噂が最近アムリタ学院ではもちきりになっていてな。だから、子供を使用した人体実験を疑って先日立ち入り捜査をしてみたんだが、その場では何も見つけられなかった。ただ、隠し通路がある事はわかったから、昨日秘密裏に潜入捜査を行ったらあの研究部屋に辿りついたんだ。……一応聞いておくが、お前には本当に心当たりが無いんだな?」
「……当たり前だ。死者は生き返らない。生まれ変わりもしない。そして、彼の代わりなんて、存在しないものを無理矢理作ろうなどそんな莫迦げた趣味を俺は持っていないからな」
それは彼の尊厳を踏み躙る行為だ。だから無性に腹が立った。
「………それであの少年はあいつの細胞から作られた人造生命という認識で間違いないか?」
「ああ、調査の結果、彼のクローンだという結論が出た。クローンについての研究は完全に禁止されているからこれもこの研究を中止させる証拠の一つになるな。研究室を使っているのはウィルムットという研究生だが、奴は『ヒトの細胞とその増殖のメカニズムについて』という研究をしている。それに、ウィルムットは十年前、ビマリスタンで研修医をしていた。お前はあの時忙しくしていたから覚えていないかもしれないが、確かカーヴェの死亡確認の際にも立ち会っている筈だ。……調べた所彼の死亡診断書を書いているのはウィルムットの指導医だったからな」
恐らくそこで彼は毛髪か細胞片かは分からないが、カーヴェの細胞サンプルを入手し、それを用いてクローンの作成を行ったのだろう。
「………取り敢えず分かっているのはここまでだ。明後日には証拠を揃え、書状を出してウィルムットを捕らえるつもりだが、お前も来るか?」
お前の口から奴に聞きたいことも、直接知りたいこともあるだろう。
そう言いたげなセノに嘆息しながらアルハイゼンは首を横に振る。
「いや、俺はいい。まさか教令院に属する書記官がマハマトラの目の前で暴力沙汰を起こす訳には行かないからな」
「わかった。……では俺はこれで。夜遅くに付き合ってくれた事感謝するよ、おやすみ」
彼の出ていった扉の鍵を閉めれば、玄関口に置かれている鍵が目に入る。
デフォルメされた獅子のストラップのついた金色の鍵は十年前、カーヴェが死んだ時からそこに鎮座し、主の帰りを待ち続けていた。
家の中を見渡せばそこかしこに彼の遺した痕跡があった。
最後の頁に借金の完済証明書が貼られ、これからの抱負が走り書きされたまま二度と更新されることの無い革張りの絵日記帳。使う者のいないままエネルギーが切れて彼が亡くなった日から動きを停めたままの工具箱。
そして、壁に掛けられた絵、床に敷かれたカーペット、本棚に自分の書籍と共に仕舞われている彼が手懸けた建築物の設計図の原画達。口論の際に割ってしまったからと一緒に買いに行った揃いのマグに、彼がこの家に住むことになってから二セットずつ揃えるようにしていた食器とカトラリー。
彼と共に過ごした時間はそこまで長くは無かったはずなのに、時間の長さに対する印象深い思い出の密度は高すぎて、家にあるものを一つ見る度に幾つも二人で過ごした記憶を思い出せてしまう。
片付けてしまえば空いた余白の分だけ彼の存在まで損なわれてしまう気がして、この十年間ずっと処分する事が出来ないでいる。
カーヴェから告白されたこともアルハイゼンから彼に告白したことも体の関係も、そんなものは無かったけれど、確かにアルハイゼンはカーヴェのことを家族同然に愛していたし、恐らく逆もまた然りだった。
だから喪失には半身を引き裂かれるような心の痛みを伴った。
その時にきっと自分の中の何かも一緒に壊れてしまったのだろう。あの日から自分と共にこの家の時間は止まったままだ。
あの時自分の腕の中で彼が生を終えた日の事は今でも昨日の事のように思い出せる。
あまりにも唐突に彼は逝ってしまった。
◈
荷車に轢かれかけた少年を庇ってカーヴェが撥ねられた。
血相を変えたセノからそんな報せを聞いてアルハイゼンがビマリスタンへ駆けつければ消毒液の濃い香りと僅かな鉄の香りが鼻腔を突いた。
何処か他所他所しげな様子の看護師に通されたのは一番奥の個室。
備え付けられた寝台の上では、見知った金髪の男がその御自慢だったアッシュブロンドを見るも無惨に短くしてぐったりと横たわっている。恐らく血に染まっていたから汚れるのを防ぐために切られたのだろう。
「ある、はいぜん……?……げホッ……」
身体の中深くまでやられているのか、来客者の名前を口にした途端、喉奥から込み上げてきた血に彼は激しく噎せた。咳き込む度、清潔で真っ白なシーツと羽毛のような金糸の上に淡紅色の華が散る。
ベッドの上に力なく投げ出された細い腕に刺さっている点滴に目を向ければ、阿片を用いた薬剤の中では一番強いと言われている鎮痛剤の名前が書かれている。
それで妙に申し訳なさそうだった医者の顔、看護師の様子に合点がいった。
嗚呼、元からもう匙は投げられている。彼はきっともう助からない。
すう、と全身の血が冷えるような、そんな気がした。
「……喋らなくていい」
それはきっと遺された時間を無駄に消耗する行為だから。けれどアルハイゼンの制止を無視して咳き込みながら彼は縋るように口を開く。
「ひとつ……ッけほ…頼みごとがあるんだ」
「無理に喋るな」
「あのこに、きみのせいじゃないって、つたえて」
あの子というのは恐らく彼が庇った子供の事だろう。
こんな時まで君は自分自身の体を心配したりはしないのか。
そう思えば内腑の奥で怒りが煮えた。けれどそれは今顔に出す感情としては不適切だ。
「……覚えておこう」
平静を保ってやっとのことでアルハイゼンはそう絞り出すように口にする。
「たすかるよ…ありがとう……」
これで彼はいつかの自分みたいに罪悪感を背負わなくて済む。
そんな安堵に満ちたカーヴェの晴れやかな笑顔に酷く腹が立って投げ出された手を握りしめれば氷のように冷たい。
感覚は既に薄いのか、普段なら痛いと言われそうなほど強く握っても彼は身じろぎひとつしなかった。
暫く何も言えないまま冷たい手を握りしめて一体どれほどだっただろうか。
「しにたくない」
壊れた笛の音みたいな喘鳴の下、不意に彼は掠れた声で呟いた。
途端、焦点の合わないサングイトの双眸に涙が滲んで溢れ、透明な雫が血の気の無い白皙の頬を濡らす。
きっと言った本人も自覚はなかったのだろう。この期に及んでその表情からは驚愕と、それから我儘を言ってしまったというような罪悪感が見て取れた。
「…………しにたく、ない」
それでもその言葉は本心からの言葉だったのだろう。朦朧とした意識の中で再び彼は繰り返す。
気付けばアルハイゼンはあちこちガーゼで止血されたぼろぼろの細い身体を抱きしめていた。
少しずつ速度を緩めていく鼓動と、ごろごろと喉の鳴る音が彼に残された時間の短さを物語っている。
「きみと、いた、い」
真っ青なくちびるが僅かな吐息と共にそう動く。
痛みを和らげる為に投与されている鎮痛剤の副作用か呼吸は既に不規則で、けれど苦しげな喘鳴とは反面、その薬効は確かなものなのか微睡むように彼は部屋の一点を見ていた。
もうきっと長くは無いだろう。
「……安心しろ。俺はここにいる」
ずっとここにいるから。だから君も、
嗚呼でもそれは恐らく、彼を縛る言葉になる。
続けようとした言葉をかろうじて飲み下し、銀髪の青年は唯一認めた共同研究者の背を、その心臓が役目を終えて、涙で濡れた肩口がすっかり乾くまで、ずっと摩り続けた。
「おやすみ、カーヴェ、良い夢を」
呟いた声は少し鼻に掛かって湿っていた。
◈◈◈
仕事を終えて教令院から徒歩1分もかからない自宅へ戻る、その帰り道。
けほけほと子供が咳をする音が気になってアルハイゼンがふと辺りを見渡せば、自宅脇のスロープの下に蹲る金髪頭の少年の姿が目に入った。
力無く繰り返される咳の度に、青い病衣を纏った細い背と、毛先だけ鳶色を帯びたアッシュブロンドの頭が激しく上下に揺れ動く。
その姿を認めて胸がどくりと一際強く鼓動を打つのを感じた。
そこに居たのは、先日セノが自分に見せたカーヴェの細胞から作られたというクローンの少年だったから。
「………君、大丈夫か?」
なんでこんなところに、などという疑問は一度胸の奥にしまい込み声を掛けたが返事は無い。
そっと近寄れば彼からは濃い消毒薬の香りがした。
止まらない咳のせいで呼吸をするのもやっとなのだろう。発熱のせいで燃えるように熱い体温とは裏腹に、チアノーゼを起こしてその唇は青く、四肢は酷く痙攣している。
本当であればビマリスタンに一刻も早く連れていくべきなのだろう。
しかし彼は禁令に触れる研究の成果物だ。良くて治療後に投獄、下手を打てばそのまま処分されかねない。
どうしたものかと一瞬躊躇していれば微かな声が咳の下から聞こえた。
「…しにた、くない……」
途切れ途切れの細い声は、こちらをぼんやりと見上げる懐かしいサングイトの紅い双眸と相まって簡単に彼の最期をアルハイゼンに思い起こさせる。
冷えきった手の温度も、口から漏れる苦しそうな咳も、あの時のことを思い出すには十分だった。
勿論、この目の前の子供はカーヴェとは構成する遺伝子が同じなだけの全くの別人だ。
それでも、重ねてしまえばもう見放すことは出来なかった。
一つ舌打ちを零すと着ていた外套で少年を包んで抱き上げ、アルハイゼンは家の中に彼を連れ込んで自分の寝台にそっと寝かせる。
幸運な事に、今日はティナリが医薬品を買い出しに来ている筈だ。あのレンジャー長であれば信頼出来る。
「……直ぐに戻る。悪いがもう少しだけ我慢してくれ」
少しでも息がしやすいように少年の背中にクッションを入れてやると、そう言い残してアルハイゼンは家を飛び出す。探せば直ぐにティナリは見つかった。
何時になく焦った様子のアルハイゼンは、彼からしても珍しかったようで、こちらから話し掛ける前に向こうが声をかけてきたため手間が省けた。
恐らく家を空けていたのは十分程、けれど家に戻れば少年の手足はすっかり紫色を帯び冷たくなっている。酷い酸欠状態だ。
それを見てティナリはドバイライトとグリーンのバイカラーの双眸を驚愕にきゅ、と細めた。
「……っ、アルハイゼン、水を沸かして、布巾と清潔な袋を持ってきて。……早く!」
これはまずい。そう判断して彼は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
指示通りに処置を施して一体どれぐらい経っただろうか。
少年の咳が落ち着く頃には日はすっかり落ちて辺りは暗くなっていた。ティナリは、未だひぅひぅと喘ぐような寝息を立てて眠ったままの彼を見やって、それから白い薬の入ったシートをアルハイゼンに手渡す。
「この薬をこれから毎日一日三回毎食後に一錠ずつ飲ませてあげて。三日後にまた来るけどそれまで必ず飲み忘れがないように。あと、咳の発作が出たらこの薬を背中と胸に塗ってあげて。……ねぇ、それとひとつ聞いておきたいんだけれど」
君は何処でこの子を拾ったんだい?この病衣はアムリタ学院で治験を行う際によく使われているものだよね。……それに、あまり考えたくは無いけれど、この子はあまりにもカーヴェに似ている。
そこまで彼が口にした時、玄関扉の呼び鈴が新たな来訪者の存在を報せた。
この家にこんな時間に自分をわざわざ訪ねに来るような人間はもう居ない。訝しげにアルハイゼンが扉を開ければ、砂漠の民の褐色の肌に雪のような白髪と炎願のアゲートのような赤色の瞳がこちらを見上げる。
大マハマトラのセノだった。
アルハイゼンの後ろからぴょこんと飛び出したワルカシュナの長耳が目に付いたのかふ、と彼は口元を緩める。
「……今追っている事件について、詳しい事が分かったからアルハイゼンには知らせておこうと思ったんだが、ティナリ、お前まで居たとは珍しいな」
「久しぶりにばったり出会ったからね、立ち話するのもなんだから、家で色々話していただけだよ。……ええと、その事件って、僕は聞かない方が良い奴だったりする?」
状況を把握したのか誤解したのかは分からないがとりあえず詳しい事が分かるまではアルハイゼンに味方しようとしたのか、濁すようにティナリはにそう言ってぺそ、と長い耳を伏せた。
「いや、君も聞いてくれると説明の手間が省けて助かる。……捕まえたのはウィルムットだけなんだろう?……彼の研究対象に関しては俺が今保護しているが、とてもでは無いが今外に連れ出せるような状態に無い」
「ちょっと!!」
折角見なかった事にしてあげたのに、とでも言いたげなティナリを無視してアルハイゼンはセノから渡されたウィルムットの日記と調書を受け取る。
そこにはこう書かれていた。
【実験記録日記】
…………であるからして、体細胞組織にこの四種類のタンパク質を加えれば、細胞を初期化し万能細胞と呼ばれるものを作ることが出来る。
この技術を用いれば、遺伝子的に同一な人物をコピーとして作ることが出来ると思われる。また、この技術を死者の細胞に対して用いれば、死んでしまった存在のコピーを作ることも出来るだろう。
…………………………………………………………………………
まさか自分があの人の死亡確認の場に立ち会うことになるとは思っていなかった。
憧れの人だった。
まだお若かったのが非常に残念で胸が痛む。
彼は妙論派の星と呼ばれていたが、私は彼をスメールの星だと思う。
だから彼の死はスメールにとって重大な損失だと、そう切に思った。
彼がいなければ私が教令院を受験することも無かっただろう。
生憎、私はあの人の卒業なさったクシャレワー学院に合格することは出来ずアムリタ学院に入学することになったが、これももしかしたら何かの縁だったのかもしれない。
あの人の毛髪を数本頂いてしまった。
もしかすれば以前行った万能細胞についての研究で彼を再現出来るかもしれない。
そんな事をふと考えてしまった。
………………………………………………
………………………………
…………
できた。できてしまった。
私は今この手で、コピー品とはいえあの人と同じ存在を作り上げることができたのだ。
……………………………………………………………………
彼の生育は順調だ。
一つ問題があるとすればただ風邪をひいただけで2週間も発熱が続き治りが遅いことだろうか、これでは学習に影響が出る。幸いあの人の遺伝子を丸ごと受け継いでいるのもあってか学習速度は早いが、この体の弱さはどうしたものか。
…………………………………………………………………………………………
………
(血液検査の結果が貼り付けられている。液性免疫と書かれた項目に一際大きなバツが付けられていた)
以前からおかしいと思っていたがそれが確信に変わった。
違う「これ」はあの人では無い。
とはいえ、この失敗作からも学べることはあるだろう。
……………………………………………………………………………
===
そこまで読んでアルハイゼンは長い溜息を吐く。
「……狂気としか思えないね。人の命をここまで冒涜した実験を嬉々として行える、その神経が知りたいよ」
忌々しげにそう言うティナリの声を彼は何処か遠くで聞いていた。
暫くして、もう時間も遅いからとセノとティナリが自分の住む家に各々帰って行った後、彼の胸に残ったのは行き場のない怒りとやるせなさ。
死にたくない、君と居たい。
最期にカーヴェにそう願われた時、ああ漸く彼は久しぶりに自分の欲を口に出せたのだ、と思ったのだ。
過去に抱いた罪悪感のせいでずっと他人に欲しがることが出来ないまま、他人から差し出されたものを容易には受け取れないまま、自分の身を差し出すことで人との繋がりを求めるような人だった。
だから、せめてその死後はその肩の荷を下ろして誰にも損なわれること無く安らかに眠っていて欲しかった。
亡くなってまで、その存在を見ず知らずの第三者に利用されて欲しくはなかった。
利用されて産み出された存在までこんな扱いを受けていたのなら尚更だ。
喘鳴を零しながら昏昏と眠り続ける少年の熱い頬に手をやってアルハイゼンはそっと下唇を噛み締める。
汗に濡れて肌に張り付いたアッシュブロンドの羽毛の様な手触りも柔らかな肌の様も、あまりにカーヴェの持っていたそれとまるきり同じで、だからこそ、その実験の存在そのものが許せなかった。
けれど、研究成果に罪は無い。それに本人では無かったとしても声も顔も遺伝子も同じ存在にむざむざ死なれるのは後味が悪い。
少年の額の上の、すっかり熱で温くなった布巾を新しいものに取り替えてアルハイゼンは本日何度目かの溜息を吐いた。
それからどれほど経っただろうか。
「…………ここ、は……?」
意識が覚醒したのだろう、小さな声とともに髪と同じ金色の睫毛で縁取られた瞼が持ち上げられ、澄んだ赤色がゆっくりとその焦点を一点に定める。
「目が覚めたのか」
サングイトの紅色が声に反応してこちらを視認する。
「…………あなたは……だれ?」
薄い唇の合間から盛れたのは警戒心のこもった掠れた声。
状況としては当たり前だろう。アルハイゼンが彼の存在をつい先日まで知らなかったように、彼もまたアルハイゼンのことを知らないのだから、当たり前だ。
けれど、頭の中ではそれを受け入れていても、家族同然に想っていたひとと同じ顔で同じ声でそう訊かれるのは心に重たく響いて、同時に別人であることに酷く安堵した。
「アルハイゼン、教令院の書記官だ。…君は?」
「………………カーヴェ」
少し躊躇って、けれど自分をじっと見てくるターコイズとスピネルの混じった複雑な色味の双眸に根負けしたのか、彼は目を逸らして小さな声で呟いた。
「………そうか。具合はどうだ?」
身体が熱くて怠いのも、呼吸の度に肺が軋むのも、いつもの事だ。大丈夫。
そう彼が答えれば、青年は彼の頭の方へ手を伸ばす。
ああ、やっぱりあなたも僕を叩くんだ。そう思って少年はきゅ、と目を瞑った。けれど恐れていた衝撃はいつまで経っても襲いかかって来ることは無く、かわりにすこしひやりとした手の温度が額に触れる。
火照った身体には心地よい体温だった。
「……………あなたは、怒らないんだね」
思わず安堵の声が漏れた。彼としては小さな声で呟いたつもりだったが、アルハイゼンには聞こえていたのだろう。
水差しを取りに寝室を出ようとした青年はその言葉に足を止めて振り返る。
「怒る?俺が、君を?……何故君はそう考える?」
だって、父さんはずっとその名前で僕のことを呼んでいたのに、ある日突然、悲しそうな顔であの人を騙るなって、僕を殴るようになったから。……だから名乗ったらいけないんだ。
僕の名前は、父さんの憧れの人の名前だったんだって、だけどぼくはこの通り身体が弱いから、すぐ病気になって周りに迷惑をかけるし、その人にはなれない、なれなかった。
だからぼくは父さんの期待には応えられなかった、あなたの偶像にはなれなかった。
ごめん、ごめんなさい、どうか不出来なぼくを許して。
途切れ途切れに少年は呟いた。そこで体力が尽きたのだろう、そのまま彼は再び深い眠りに就く。最後の方はもう朦朧としていたのだろう、夢に魘されているかのような口調になっていた。
ああ、またか。
赦しを乞う様なその言葉にアルハイゼンは目を伏せる。
罪悪感から己に抱いた自罰感情は人を傷つけてまで我を張る力を失わせ、それはそのうちきっと彼自身を殺す。
自分から人に何かを求めることは出来ないままに、自分の身を削って人に振舞って、そうやって人との繋がりを求めるのが当たり前になる。幸福が皆に訪れることを祈って願って、そしてその果てに自分の身を滅ぼす。
そんな前例が存在することを彼はよく知っていた。
「……俺は君にあいつになって欲しいなんてそんな莫迦げた事は願わない。……君の父親とやらが見ているのは、所詮はあいつの幻想で虚像の一つに過ぎない。そして、たとえ見目が似ていたとしても、君とあいつは別人だ」
何処か自分に言い聞かせるようにアルハイゼンは口にする。
同じ設計図から作られた家だって、住む人の違いによって、時間経過と共にその雰囲気を変えていく、だから環境ってとても大切なものなんだよ、と何時だったかあの大建築士様が上機嫌に言っていたのをふと思い出した。
そしてそれはきっと人だって同じだ。
彼とこの子供は違う。この子供に何かをしてやった所で、それで彼が生き返る訳でもなければ、彼がそれを望んでいる訳でも無い。
それは分かっている。
ああけれど、この子供の抱える罪悪感を解きほぐして、幸せにしてやりたい、そう願っている自分がいる。
俺はそれを君にはついぞしてやれなかったから。
口の中だけでそう呟いて、アルハイゼンは孔雀羽の羽飾りのつけられた空っぽの神の目をそっと握りしめた。