ファーストラブ キスをしたいって、これまでの人生で一度も思ったことがない。生理現象として対処が必要な性欲とも違い、他人とわざわざ病原菌を伝染し合うリスクを孕みながら唾液を交換する意味がわからない。吐息とか気にしながら唇を押し当てるだけの行為も無意味だ。
相手のことが好きだからするというのであれば、そんなことをしなくても充分に好意は伝えられると思う。
だから俺は一度も、侑とキスをしたことがなかった。
侑と付き合ってもうすぐ3ヶ月になる。お互いに好きであることはちゃんと知っていて、恋人同士としての関係は良好であると思う。俺が付き合う前に最初に「キスはしたくない」と告げたから、これまでに侑の方からキスを求められたことは一度もない。
たぶん他人に言ったら「本当に好きなの?」とか言われるのかもしれない。でも俺は、侑が世間一般の価値観よりも俺の意思を尊重してキスを望まないことに愛情を感じていた。
キスはしたくないと告げたのは俺で、それに頷いたのは侑だ。俺も侑のことが好きだったから、あいつが頷いてくれた時、心底安心したのだった。
でも最近、俺はふと「本当は侑はキスをしたいんじゃないのか」と考えるようになってしまった。自分たちは仲がいいと、ちゃんとわかっている。侑が俺のことを好きで、一緒にいて楽しいと思っていることは目線や表情、声色から全部伝わってくる。だから本当に、気持ちを疑っているわけではない。
けれど、「いつかは?」と心の中に薄く不安が滲み始めた。付き合いたての浮き足だった気持ちが少し落ち着いて冷静になってしまったのかもしれない。
今は侑も俺との時間を楽しんで愛情を注いでくれるけれど、キスをさせてくれない恋人に段々と興味を失っていってしまったら嫌だなと、そんな気持ちが湧き上がってきた。
ただそう考える度に、それでもやっぱりキスはしたくないという嫌悪感もしっかりと自覚する。ここで自分の気持ちを捻じ曲げてキスをOKにしてしまったら、今度は俺の方がこの関係を重荷に感じてしまうのではないかということまで容易に想像がついた。
侑と恋人として上手くやっていきたいだけなのに、キスをしなきゃ恋人として不合格とするような世間も、それを知っていてもキスは嫌だと思う自分も嫌になった。
「臣くん、最近元気ない?」
練習帰りに一緒に外食をした帰り道、侑にかけられた言葉にハッと我に帰る。俺たちの他に道ゆく人はいない夜の住宅街、侑が街灯の下で立ち止まって俺を振り返った。マフラーに半分埋めた口元から白い息が上がる。俺を見つめる目元が、柔らかい光を帯びている。
それを見て、なによりも先に好きだなと思ってしまった。
たぶん、本気の恋なのだ。侑の優しさに触れるたびに鼻の奥がつんとして、ずっとその気持ちが俺に向いていてほしいと遠く未来のことまで考えてしまう。
まだ3ヶ月しか付き合っていない、キスもしていない、同性の自分。侑がこれまで付き合ってきた彼女たちに比べて付き合った月日も触れ合いも全然足りない。それなのに俺が侑の最後の恋人であってほしいと強く思っている。
「……元気なく、なくなくない」
「どっち?」
俺の変な答えに侑は笑った。それから俺を手招いて明るい街灯の下に連れ出す。たった数歩の距離だった。
「……手、出して」
侑がそう言って左手を差し出したから、自分の右手をその上に重ねる。そうしたら、俺の手を挟むようにそっと上から侑の手が重ねられた。
最善のトスを上げるために日々大切に手入れされた両手の、あたたかくしっとりした感触が俺の手を包む。
「……嫌?」
「……嫌、ではない」
「そお」
侑の手が遠慮がちに俺の手の甲を撫でる。指先が甲の骨を確かめるようになぞるのを繰り返すのを、俺はただじっと見続けていた。
その単純な仕草だけで侑が俺のことを好きでいるのが痛いくらいにわかった。
「……キス、お前はしたいって、……思うの」
自分の喉から漏れ出た声は情けないほどに小さかった。自分がこんなふうにダサいのなんて許せないと思うのに、そういう意地は侑が手を撫でるせいでほろほろと崩れ去っていく。
俺の言葉にじっと侑が真面目な目で俺の目を覗き込んだ。何を言われるのだろうかと、心臓が大きく鳴りだす。
「……臣くん、実家のプリンちゃんにキスしたいて思ったことある?」
「は、」
「俺はばあちゃんちのマサコにちゅーしたいんやけどな、いっつも威嚇されて全然ちゅーさせてもらえへんの」
緊張をほぐすように侑は眉をへちゃりと下げる。
「でも俺マサコのこと超好きなん。変な話やけど、俺が臣くんにキスしたいなって思う時も感覚はおんなじやねん。かわい〜ちゅーした〜い、て思うけどせんかったら減る気持ちやないの。……これ、ちゃんと伝わっとるかな」
「……犬とか猫と一緒なの」
「ふ、そ。大好きなとこも一緒」
「……そんなんでいいんだ」
犬と猫と一緒なんて、本当はもっと違う感情だってあるかもしれない。けれど今、侑が言ってくれた言葉は確実に俺の心を軽くした。
また不安になることはあると思う。今回はそれが俺だったけど侑の方が不安を抱くことだってあるだろう。
でもきっと、そういう不安の種が芽吹くと俺たちは互いにそれに気付くことができるふたりなのだと思う。大丈夫かなって心配して、寄り添って、譲り合って擦り合わせをして。
そうして少しずつ、安定した関係になっていけたらいい。恋の楽しさだけで成り立つ関係でない。自然体でいられたり甘えを許したりしながら、遠く先の未来までもお互いに「一緒にいたい」と思い続けていたい。
侑の人差し指と中指を握って、放す。こうして少しくらい手に触れるのは全然嫌じゃないなと思った。
「……ありがと」
「ふふ、なんや照れくさあ」
「帰ろ」
「おん。あ〜寒ぅ」
「コンビニでコーヒー買ってこ。俺の家で飲んでもいいよ」
「え、もっと一緒におりたいって思っとったから嬉し〜」
侑の素直な言葉のひとつひとつがどれだけ俺を喜ばせるか、侑はきっと知らない。侑が俺を喜ばせようとしてあえてそんなふうに言ってるわけでないのが嬉しいのだ。
「……今日はまだないからあれだけど、今度ちゃんと布団買うからそしたら泊まってもいいよ」
俺の言葉に侑はまた「嬉しい」と言って笑った。