Re:Re:「今日寒いし鍋でもしない?」
今年最後の練習終わり、一緒に更衣室を出たところで臣くんが小さな声でそう言った。べつにありきたりな夕食の提案だというのはわかっているのに、その聞き方がなんだか内緒話をしているようだと思った。
「ええやん。何鍋にする?」
「白菜と豚バラで重ねるやつは?」
「あれ美味そうやんな。作ったことないんやけど臣くんある?」
「大学の時元カノがよく作ってくれてた」
「ええ〜ここで元カノの話は嫉妬してまう」
「嘘つけ。お前もするくせに」
「それはそう」
「サンディと万代どっち?」
「俺クーポン持っとるから万代にしよ」
「オッケー」
そんな会話をしてそれぞれの車に乗り込む。
ひとりになった運転席で、俺はたった今された会話を反芻する。
臣くんとの関係は少し不思議。つい半年前まで自分たちは同じチームメイトの同い年同士、普通に仲の良い友達でしかなかった。特に恋に落ちるドラマティックなエピソードなんてのもなく、半分冗談みたいなきっかけで付き合うことになったことをいまだに不思議に思う。
一緒にご飯を食べるのも買い物に行くのも、ダラダラと同じ部屋でそれぞれ好きなことをして過ごすのも付き合う前からやってきた。友達の時にやらなかったキスとかえっちも、頻度は多くないもののきちんとやっている。その一方でお互いに元カノの話をするのは嫌ではない。というか臣くんは俺がまだ元カノと付き合ってた時から普通に仲がよかったから、散々彼女の話を聞かされていたのだった。
一応ちゃんと付き合ってるというのに、友達みたいだなとはよく考えている。友達と恋人で何が違うのだろうとも。多分俺たちが男女だったらもっとシンプルだったのに、男同士なばかりに俺はたまにそれがよくわからなくなる。
「ねえ、牛乳寒天ある。買ってい?」
マンションの近くのスーパーで一緒に買い物をする。今日カゴを持ったのは俺の方で、臣くんはカゴを起点にちょろちょろしながら買いたい物を指差してこんなふうに俺に声をかけた。
「ええよ〜。臣くん牛寒買う派なん? 俺ちっちゃい頃から家で作れるからって買うてもらえへんかった」
「俺もそうだったけど今はもう大人だから」
「わかる。でっかいダッツとかも買うてまうよな、大人だから」
牛乳寒天の3個パックを俺に渡した後も、臣くんはきょろと周囲の棚に視線を走らせていた。
「何探しとんの?」
「……たぶん無いんだと思うけど、牛乳ようかんって見たことある?」
「えー、何それ……無いな見たこと」
「だよね。実家の近くのスーパーでしか見たことないんだけど、あれがめちゃくちゃ好きだったんだよね。こっちで見たことない」
「へえ、なんか美味そうやん」
「寒天とも違ってむっちりしてんの。年末実家帰った時買ってくるね」
臣くんはそう言って、また買いたいものを探しに別の棚へ移って行った。残された俺はもう一度だけ陳列棚に牛乳ようかんなるものが無いか探しながら、やっぱりちょっと不思議な気持ちになっていた。
付き合ってからの臣くんは、今みたいな瞬間が一番顕著にただの友達だった時と違う。きっと無意識なんだと思うけど、話し方がチームのみんなといる時よりずっと柔らかくなる。そうして小さい時のこととか、自分の好きなものとかをふとした時に教えてくれる。俺はそういう瞬間に出会うたびに、ただの友情だった臣くんへの気持ちにどんどんと違う色の感情が降り積もっていくのを感じる。
友達として、恋人としてこれまで何度もスーパーで買い物し食事を共にしてきた。
スープならオニオンコンソメ派、インスタント味噌汁は迷わずあさげを取る。きのこは好きだけどたぶんひらたけはあんまり好きじゃない。甘い梅干しよりしょっぱい梅干し。牛乳は絶対成分無調整を選ぶ。手前どりが良いとわかっていてもなるべく奥の他人が触れてなさそうなやつを取りたがる。
俺は臣くんについて、こんなふうに小さな小さなことを山ほど知っている。きっと、それが嬉しいと思うこの感情は恋に分類されるのだと思う。
「臣くんは実家帰ったら何すんの?」
夕食の時、初挑戦したミルフィーユ鍋を挟んで俺は臣くんに何気なく聞いた。臣くんは残りがほとんど入ってない柚子胡椒のチューブとしばらく格闘していて、やっとひと息ついてから口を開いた。
「……まずばあちゃんたちに顔見せに行って、たぶん従兄弟とか甥っ子姪っ子みんなでスマブラやることになると思う」
「なんやかわいいなそれ。仲ええんや」
「元也のお姉ちゃんの子供がまじでミニ元也って感じでおもろいよ。きよーみ!あそぼ!ってめっちゃくっついてくんのに途中でテレビから知ってる曲流れてくると魔法みたいにそっちに吸い寄せられてくの。んでそれを元也とか元也の姉ちゃんが大笑いしながら見てる」
「え〜佐久早家と古森家むっちゃ仲ええやん。てか臣くんもスマブラとかするんや」
「宮もその子見たら姉ちゃんたちと一緒に大ウケすると思う。俺スマブラ結構強いよ、だいたいネス使う」
臣くんがなんとはなしに発した言葉にドキッとする。俺が臣くんの恋人として、いつか佐久早家のばあちゃん家に行く未来が臣くんの中にごく自然に存在していることにびっくりしていた。
「宮は? 何使うの?」
「え」
「スマブラ、治とめちゃくちゃやってそう」
「ああ、アホほどやっとったわ〜。俺フォックスとかファルコとか、あとサムスも使とったな。懐かし」
「お前に攻撃跳ね返されたらすげえムカつくだろうな、あの下Bのやつ」
「いやもうそれでサムと現実の喧嘩になんぼ発展したことか。最終的にオカンにふたりしてゲンコされてた」
「めちゃくちゃ想像つく」
臣くんは笑って、また鍋に箸を伸ばした。
「宮は年末実家で何すんの」
俺がした質問を臣くんが聞き返す。治が気合を入れて餅も蕎麦も雑煮もおせちも作るから、うちの正月はとにかく食って食って食いまくるフードファイトデーだ。それから地元の友達たちと近くの神社に初詣に行って甘酒を飲む。臣くんがさっきあんなことを言ったから、俺の実家の正月を一緒に同じように過ごす臣くんの姿を想像してしまった。オカンもオトンも臣くんのことをそのまま臣くんと呼ぶだろうなとそんなことまで考える。俺の実家のこたつに臣くんがいる。なんだか悪くないな、と思った。いやそれどころか、そんな日が来たら嬉しいのにと思ってしまった。
元々用事がなければ連絡を取り合うような関係じゃなかったので、付き合った後もそれは取り立てて変わらなかった。年末年始もそんな感じだろうなと思って、お互い帰省して数日離れるからと言って連絡を取ろうとは考えてもいなかった。
臣くんを駅まで送った帰り、車を降りたところでマンションの前の街路樹が目に留まった。霜が降りた枝が太陽を反射してきらりと光ったのが綺麗で、気まぐれに写真に収めた。わざわざ写真を送って共有するほどでもないが、臣くんにも見せたいなとは少しだけ思った。
「侑、さっきから携帯ぴろぴろ鳴ってんで」
実家のこたつで微睡んでいるところをオカンに肩を叩かれて目を覚ます。誰か地元の奴から遊びに誘われてんのかなとか当たりを付け寝ぼけ眼で画面を見ると、意外なことにメッセージの送り主は臣くんであった。しかも通知は十件弱。どうかしたのかと思って慌ててアプリを開くと、ちっちゃい元也くんがいた。いや、話には聞いていたからわかる。これがきっと例の元也くんにそっくりな従兄弟の子供だ。何件も届いた写真の中には動画もあった。撮影者はたぶん元也くんで、元也くんそっくりのちっちゃい男の子が「きよーみ」と舌足らずに臣くんの名前を呼びながらぐいぐい臣くんの身体に登っていこうとする。それを困り顔で支えようとする臣くんと、落ちないようにすぐ近くで見守る臣くんそっくりの女の人。たぶんこれは臣くんのお姉ちゃんだ。そしてフレームインしてないところから元也くんをはじめとした何人かの笑い声とテレビの音声が聞こえてくる。明るくてあたたかくて、すごく和やかな光景だった。なんとなく一度見終わった動画をもう一度最初から再生し直す。
ふいに、ぽこんとまた通知が鳴って新しいメッセージが追加される。
「元也が侑にも送ってやれって」
写真たちとは少し時間を置いて送られてきたそのメッセージに、俺はなんだか涙が出てしまいそうになった。久しぶりに家族親族と会って楽しくなった臣くんが、俺にもそれを分けようと難しいことは考えずに写真を送って寄越したこと。この団欒の中に、俺が入ってもいいと思ってくれていること。既読を付けたまままだ返信をしていなかった俺に、少しだけ心配になったこと。全部が手に取るようにわかってしまった。
「めっちゃ楽しそう」
「臣くんち仲良しでほんま素敵やね」
「俺も行ってみたい」
そう3つの文を返した。最後のメッセージは送信ボタンを押す際少しだけ緊張した。付き合ってる人の実家に行くという、ただ「いつか」の話をするだけでもこんなに特別なことなんだと思った。
「たぶんお前来たら姉ちゃんたちに揉みくちゃにされるけど」
「そういえば牛乳ようかん買った」
臣くんからのメッセージが返ってくる。
「楽しみ」
「ありがと」
「そういや俺もエモい写真撮れたで」
そう打って先日撮った街路樹の枝と、治の御馳走シリーズ、ばあちゃん家の猫の写真を送ってやる。
「綺麗」
すぐにひとこと、そんな短い言葉が返ってきた。
「料理、さすがプロ」
「猫もいい」
どうしようもなく胸がいっぱいになって、家族にそれを悟られないように居間を抜け出した。築年数の経った実家は廊下に出るだけで別世界のように寒い。キンキンに冷えた床板を踏んで、仏間の前の庭に面した廊下まで場所を移す。家の中だというのの口から出た吐息が白い。裸足のまま出てきたことを後悔した。
視線を上げると、見慣れた夕暮れの庭が映る。じいちゃんがせっせと世話をしている植栽が、夕日のせいで黒い切り絵のように見えた。
ふと、窓の外に向けて写真を一枚撮った。
「治とちっちゃい頃から練習してた庭」
写真と一緒に送ろうと思って打った文章を送信直前で全部消す。それからメッセージアプリを閉じて臣くんの番号をタップした。
「……もしもし」
何度目かのコールの後、電話口に臣くんの低い声が響いた。
「あ、臣くん? ……あんな、用は無いんやけど電話してもた」
ふっと臣くんが笑った気配がする。電話の遠く向こうに賑やかな話し声が聞こえている。
「ごめんな、みんなでいるとこ」
「全然。……そっちは? 何してんの」
「さっきまでこたつで寝とった」
「脱水になるからすんなって言ったじゃん」
「うっかり不可抗力やったんて」
とりとめもないことを話しながら、自分が臣くんの声を聞きたくて電話をかけたことに遅れて気付いた。それでなんだか、「ああ俺ら、やっぱり友達やなくて恋人なんやな」とそんなことを感慨深く実感した。
「……今日は佐久早家は何食うん?」
「すき焼き。宮家は?」
「うちは寿司と蕎麦と餅食う」
「全部炭水化物じゃん」
「それが宮家なん。臣くんも来た時覚悟しいや」
「……ん。そうだね」
ほうっと臣くんが息を吐いたのが聞こえた。
「……用も無いのに電話するなんてさ、俺と宮でこういうことすると思わなかった」
「俺も。自分でびっくりしてもた」
「自分でかけてきたくせに」
「なんやほんま恥ず。写真送ったんとかも恥ずかしくなってきた」
「枝の写真、俺ああいうの結構好き」
「……臣くんが好きそうやなと思って撮ってん」
「わかってんね」
そう言って笑った臣くんの声が、電話越しでもわかるくらい嬉しそうでドキドキした。
「……兵庫土産いっぱい買うて帰るから、楽しみにしといて」
「ん。牛乳ようかん以外にもいろいろ買ってく」
その後もいろいろ話をしたけれど、さすがに「早く会いたい」なんてらしくないことは言えなかった。でもお互いにそう思っているのが言葉の端々から伝わってきて、それがすごくくすぐったかった。
-
半年前、臣くんに何気なしに言った「臣くんみたいな彼女おったらええのに」という言葉を思い出す。あの頃、俺は円満にお別れした元カノへの想いをようやく吹っ切れたところで、その間ずっと一緒にいてくれた臣くんのことを、それまでよりずっといい奴だなと気が付き始めていた。
それでもあの時はお互いにそういう意味では好きな気持ちなんて一切持っていなかったと断言できる。
言った俺も言われた臣くんも、心はドキリとも動かず平然としていて「なに馬鹿言ってんの」という臣くんの呆れ混じりの言葉に「そやな」と返して終わりなはずだった。
しかし本当に不思議な話で、俺の心にはその後「べつに彼女じゃなくても臣くん本人と付き合ったらええやん」という根本的な解決案が生まれ、それもまた何の気なしに臣くんに告げてみた。この時点ですでに、万が一があって臣くんに本気に取られても別にいいかみたいな気持ちがあったと思う。
「……じゃあなんかドキドキさせてみて」
また馬鹿と返されるかと思っていたのに、臣くんは意外にもそんな返答をした。その時はふたりして結構飲んでいて酔っていたというのもあるかもしれない。
俺は臣くんからの試すようなお題に燃えて、一日時間をもらって臣くんがドキドキするようなことを真剣に考えた。臣くんとの会話をたくさん思い出して、どういうのが臣くんに響くのかを考える。昨夜のことを酔った勢いの冗談にしても良いのに、そうする気にはなれなかった。
――俺が絶対臣くんをドキドキさせたい。
練習の帰り道、夕飯に誘った俺に臣くんは特に何を気にする素振りもなく馴染みの定食屋に着いていた。食べてる間も臣くんはずっと普通で、これはきっと昨日のことはなかったことになっているなと少し悔しく思った。
マンションの入り口の前で俺は意を決して臣くんを呼び止めた。
「臣くん待って」
「……ん? なんか忘れた?」
「ちゃうくて」
ふうっと緊張を逃すように息を吐いた。それまでいつも通りだった臣くんが、俺の緊張を拾ったのか目を見開く。宮、と牽制するように小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。
「俺臣くんのジャンプした時の姿勢好き」
「は」
「無表情でガッツポーズ決めんのとか、ミスったりした時めちゃくちゃ悔しそうにしとんのとかも好き」
「……いや、宮」
「ご飯ん時好きなメニュー出て喜ぶ意外と素直なとことか、人の言うたことちゃんと覚えてくれとるとことか、何より全部真面目で丁寧で、バレーに一途なんが好き」
「……は、お前待って。昨日の本気にしてんの」
臣くんが焦ったように俺の言葉を止めようとする。マスクでほとんど隠れているけれど、その顔が紅く染まっているように見えるのは絶対気のせいなんかじゃなかった。
「バレーしとる臣くんが好き、この人すごいなって負けてられへんっていつも思う。……隣におったら楽しいやろうなって、今日何回も思った。隣におるん、俺がいいなって」
臣くんの手首を持ってそう告げたら、臣くんはどうしようもなくなったようで顔を隠してしゃがみ込んだ。
「……なんのつもりだよ」
「昨日臣くんがドキドキさしてって言うたんやん」
「本気でやらねえだろ」
「……ドキドキした?」
聞かなくても、握ったままの手首の脈が速いから答えには気が付いていた。
呼応するように俺の鼓動も速くなっていく。
「…………してねえ」
「……臣くん」
「いや、自分が何言ってんのかわかってんの」
「おん。臣くんと付き合いたいっていう意味で言うた」
「は……」
臣くんが顔を上げる。わけがわからないというような困惑の表情の中に、否定しきれない恋情の欠片を見つける。だって臣くんは、本気で無いと思うならこんなふうにドキドキしたりは決してしないから。それを臣くん自身も知っているから、こんなにも困っている。
「友達兼恋人になろ、俺らならきっと楽しいと思うんやけど」
俺もしゃがみ込んで同じ目線でそう語りかける。臣くんが俺の目を見て、たっぷり時間をかけてからそっと手を握り返した。