sweet after bitter「侑、失恋してすっかり落ち込んでるからさ。お前次の休みとかちょっとどっかに連れ出してやってよ」
ある日の練習終わり、周囲に人気がないのを確認して犬鳴さんが俺にそう耳打ちした。
「……は」
「お前らが意外と仲良いの俺知ってんだから。ちゃんと優しくしてやって」
ぽんと背中を軽く叩き、それだけ言って彼はロッカールームへと去って行った。その背中を見送って、今かけられた言葉の意味をもう一度考える。
――宮が、失恋した。
犬鳴さんは俺が当然にそのことを知っていると思って声をかけてきた様子だった。からかっているわけじゃない、本気で後輩を心配していたのだということは短い会話の中でもしっかりとわかった。
「あれ、臣くん。こんなとこでぼーっとしてどしたん」
たった今まで考えていた相手の登場に驚いてぱっと振り返る。廊下の暗い蛍光灯がにこにこと笑う宮の目元を照らしている。
「宮」
「何しとんの、帰ろ」
そう言って横に並んだ宮の顔をさりげなく見つめてみる。注意して見なくてはわからないような微妙な変化ではあるが、いつもの笑顔に似せてその笑みはどこか貼り付けたような不自然さが漂っていた。まるで無理して笑っているような、そんな変な顔。
宮が本気で失恋しているらしいことを悟るのと同時に、何故こいつは俺には何も言わないのだろうと苛立ちを感じた。同じチームとなって早数年、とくに日向が移籍してからのここ半年はチームの中で一番宮と一緒にいたとは自分だと自負している。
普通に一緒に飯を食って、酒を飲んで、オフの日に遊びに行ったりなんかしてそれなりに仲良くやっていたと思っていた。ついこの間だって一緒に酒を飲みながらだらだら映画を見て、あいつが俺の家にほとんど泊まったようなものだったのに。
俺は失恋についてひとことも、それどころかこいつに好きな相手がいたことすら全然知らされていなかった。
「……お前、失恋したって聞いた」
自分で発声した言葉に、拗ねた色が乗っているのがわかって宮の顔を見られなかった。
「……ふ、みんな世話焼きやから。心配して臣くんになんか言うてくれたんやろ、気にせんでええよ」
先輩たちには言うのに、俺には本当に言う気がないんだ。
俺が宮の立場だったら、宮には言ってた。いつも適当に一緒にいるわけじゃない、俺はどうでもいい相手に自分の時間を使わない。
そういう時に相談したり、慰めたり、それくらいのことをする仲にはなっていると思っていた。万が一にでも宮も俺のことを”人の気持ちがわからない人でなし”だと思っているかと思ったら、その弱った笑顔がひどく腹立たしく思えた。
「なんで。気にするけど」
「っ、…………」
俺の言葉に宮は何かを言い返そうとして、けれど結局黙ってしまった。ただ眉がつらそうに歪むのを見て、俺はとっさに宮の腕をぽんと叩いた。このまま放っておいたら本当に泣いてしまうんじゃないかと焦っての行動だった。こちらが意地を張って怒っても仕方がないくらい今の宮は弱っている。
「今度、温泉にでも行って美味いもん食お」
「え」
「元也が前に失恋した時もそうした。べつにすぐ忘れろとは言わねえけど、気は紛れるだろ」
俺の言葉に、宮は迷子みたいな顔をしてこちらを見つめた。俺の真意を探るように瞬きを数度して、それからふっと笑みをこぼした。何かを諦めたみたいな消極的な笑みだった。
「……すぐにでも忘れられたらええねんけど」
宮の視線が俺から外れて遠く廊下の奥、体育館の方を向く。その横顔を見て、俺は己の胸のうちに気持ちの悪い痛みが燻るのを気付かなかったことにした。
車で一時間程度の距離にある温泉宿でも、めったに来る場所ではないから新鮮だった。
「今日の宿、海鮮めーっちゃ美味いって聞いて超楽しみにしててん」
窓際の椅子に腰かけて海を眺めながら、宮は楽しそうにそう言った。
「臣くん、連れてきてくれてありがとお」
失恋を知ったあの日以降、宮は日々勝手に元気を取り戻しているようだった。もう今さら俺が傷心旅行に連れ出す必要もないかとも思ったが、言った手前もあり結局こうして連れてきてしまった。俺だってちゃんとお前を心配しているのだと伝わればいいなとも思った。
「……お前がしょげっぱなしだとチーム的にもよくないから」
宮は不調をコートに持ち込むようなことは断じてないが、素直に心配していると言えなくてこんな言い方になってしまった。
「ふ、相変わらず臣くんは素直やないなあ」
宮が笑ってまた海の方を向く。
俺も向かい合って座るのは変な気がして、居間の座椅子に腰かけたまま手慰みに急須に手を伸ばした。結局あの後も宮が俺に失恋の話をすることは一度もなかった。どんな相手が好きだったのか、なぜ振られてしまったのか、俺はひとつだって知らないままだった。
俺は部屋付きの半露天風呂、宮は大浴場でそれぞれ温泉を楽しみ、少し奮発した海鮮料理も味わい尽くした。料理が片付いて酒だけを飲む段になると、酔いが回った宮はぐすぐすと鼻を鳴らして子供みたいに涙を流し始めた。こないだ見せた表情からよっぽど失恋が堪えていたのは明白だったので、今日くらい思いっきり泣いてしまえばいいと思った。酔っているとはいえ今日宮がこんなに泣いたことは、この先も絶対誰にも言わない。
言葉で慰める方法を知らなくて、せめてもと机に突っ伏す金髪をそっと撫でてやる。すると顔を隠す両腕の隙間からより一層鼻をすする音が鳴った。
「……好きなん辞めれなくて、ごめん…………」
誰に言うでもなく宮は小さな声でそう言った。返事をできない代わりにパサパサの傷んだ金髪を撫で続ける。つきりと、また自分の胸が痛んだのを自覚する。
――そんなに泣くくらいになってもまだ好きなんだ。
顔も知らない宮の想い人を嫌いだと思った。周囲の人間に恵まれて楽しそうにバレーをするこの男、こんなに人の縁に恵まれている奴に唯一好かれておきながら応えない誰か。振った後もこんなふうに想われ続けている誰か。
俺だったらと考える。
俺だったら、こんなふうに一途に一生懸命に他人を好きでいる宮を無碍にはしないのに。
温泉旅行の後も宮の失恋が癒えることはなかった。
表向きはもうすっかり元の宮だったので、チームの中で宮のことを心配していたのは俺だけだったと思う。宮は練習終わりやオフの日、俺とふたりきりになって酒を飲むとぽしょぽしょと弱っちくなって失恋を嘆く。その度に俺は宮の頭を撫でた。
俺に頭を撫でられながら宮が気持ちよさそうに目蓋を閉じる。その目蓋の裏に思い描いている見知らぬ誰かの存在を考えると鉛を飲み込んだようにみぞおちが痛くなるのに、俺はこれを辞めることができなかった。
傷ついている友達を放っておくことはできない、これは建前。
本音は、この役を誰か別の人間に取られたくないというつまらない独占欲。
俺が甘やかした分だけ傷心の宮は俺に甘えてくる。ずっと双子の片割れや友人・先輩後輩に囲まれてきた奴だったからこうして甘えることに抵抗がないのだろう。俺がここでこいつを甘やかさなくなったら別の当てに行くのだろうことも容易に予想がついた。よく話題に出てくる北さんとか、治とか。宮は地元に親しい知り合いがいくらでもいる。その人たちは頭を撫でることはしなくても、きっと俺よりずっと気の利く優しい言葉でこいつの心を慰めて前を向かせてやれる。
宮の周囲にはそんな人たちがたくさんいると知っているのに、行かせてやれない理由をこの頃はとっくに勘付いていた。
好きなのだと思った。俺が、宮のことを。
見知らぬ誰かに振られながらずっと一途に想い続けている、そんな男だからこそ宮のことを好きになってしまった。誓って、こちらを振り向かせたいとかそういうつもりで好きになったわけじゃない。だからこそ自覚と同時に俺の失恋はすでに決まってしまっていたのだ。
なんて間抜けなのだろうと自分で思う。
けれどやっぱり、好きな相手のことを諦められないで何もできずただ「好きでごめん」と謝るだけの宮がかわいくてかわいそうでどうしようもなく好きだと思ってしまった。
「臣くん、最近元気なくない?」
練習からの帰り道、外灯に照らされる静かな住宅街を歩きながらふいに宮が言った。
驚いて隣を見ると純粋な心配の色がその顔に浮かんでいる。
宮への気持ちを咀嚼しきれずにいた俺は確かに本調子ではなかっただろう。もちろんバレーに持ち込んだつもりは1ミリもないが。
元々テンションが高いわけでもない俺の感情の機微を宮がこうして察してくれる。チームメイトで友達なのだから当然かもしれないが、今の俺にはそういうことすら嬉しかった。
「……ちょっと、俺もお前と一緒かも」
「え?」
宮が聞き返す。言おうか言わないかを一種迷って、結局言ってしまった。俺が宮にしたように、宮なりに慰めてくれたらいいとかそんな淡い期待があった。
「失恋、俺もしたってこと」
「…………」
「宮?」
「……臣くん、好きな人おったん」
宮が信じられないと言うふうに目を見開く。その反応を少し心外だと思った。宮だって、好きな人がいるなんて俺にひとことも言わなかったのに。
どんな人、とか聞かれたら困るなと怯んだが宮はそれから何も聞いてこなかった。俺が期待していた「じゃあ今度は俺が慰めたる」なんて言葉もなく、傷心旅行を切り出されるでもなく、その日はそのまま無言でそれぞれの部屋まで帰った。
その数時間後、チャイムが鳴って予告なく宮が訪ねてきた。
「さっきは驚いてしもて何も言えんくてごめん! 明日休みやし、お酒いっぱい買うてきたからパーっとやろや」
酒の瓶や缶が詰まったビニル袋を顔の横まで持ち上げて、帰り道での無言が嘘だったように宮が笑う。
「べつにお前みたいにべそべそ泣くつもりはねえけど」
あえて意地悪くそう言って宮を部屋に通す。
「え〜臣くんの泣き顔めっちゃ見るつもりで来てんのに」
「うるさ、お前じゃないんだから」
いつも通りの宮の軽口にほっと息を吐く。ちゃんと俺のことを心配して来てくれたことを純粋に嬉しく思った。
テーブルの上に、宮は買ってきた酒と食べ物を勝手に並べ始める。
「あ、俺これ好き」
「うん。前に言っとったなって思て」
「言ったっけ?」
「言うてました〜。スーパーの酒売り場で」
宮への気持ちを自覚した俺にとっては、自分で言ったことも忘れてるようなほんの小さい事を宮がきちんと覚えていてくれるのが嬉しい。
「逆に、お前はこれが好き」
お返しに今度は俺が宮が一番好きな酒を取って宮の前に置いてやる。俺もお前のことちゃんとわかってるよ、と言ってやったつもりだった。
「……うん、当たり」
俺のテンションとは正反対に、宮は自分の前に置かれた缶を見つめながらそう静かにつぶやいた。その表情はつらそうとか傷ついた、とかそう表現するのが似合うものだった。
「ほんとは違えの」
「そうやなくて。臣くんもちゃんと俺の好きなもん知っとんのやって思ったら嬉しいな〜思て」
「嬉しい奴の顔じゃねえだろ」
「ちゃうよ、本当に嬉しいんよ」
そう返す宮はまだ酒も飲んでないのにいつもの弱っているあの宮だった。これ以上この話題を掘り下げてもいいことはなさそう。そう判断して当たり障りない話題を振ると、宮もその意図を察して無理やりに明るい表情を作った。
「臣くんは、失恋しても泣かんの」
いつもの世間話と共に酒を進めていたところで、宮が改めてといったふうに聞いてきた。少しでもからかっている様子があったら蹴ってやろうと思ったけれど、ちらりと見上げた宮の目はアルコールで潤みながらも真剣だった。
「……泣いたら、どうすんの」
「んー……」
俺の問いに、宮は右手の中にある缶を手慰みにいじり、考えながら慎重そうに言葉を紡いだ。
「まずは、優しくしたい。臣くんがしてくれたみたいに頭撫でたり、黙って話聞いたり美味いもの食べさしたりしたい」
「……うん」
俺が慰める時宮はいつも泣いていたけれど、俺のしたことはきちんと宮にとって良いものになっていたんだとわかるとほっとした。別に宮に同じことをしてほしくてそうしていたわけではない。でも自分も宮に親身になって頭を撫でてもらったりするのかもと思ったら期待に頬が熱くなる。
「でもたぶん、ちゃんとそうできひん」
しかし、そんな俺に対して宮はそう言葉を続けた。
え、と思ってぱっと宮の顔を見上げると、こちらを見ていた宮と目が合った。
いつになくまじめな瞳が真っ直ぐに俺を射抜いている。
「宮、」
宮が今どんなことを考えているのかわからず、思わず名前を呼んだ。そうしたら、宮は張り詰めていた空気をふわっとほどき困ったように眉尻を下げた。
「ごめんなあ」
ごめんな、と宮がもう一度繰り返す。その響きは知っている。「好きなん辞めれなくてごめん」と言っていた時と同じ、切実な思いを孕んでいる。
俺だって馬鹿でも鈍いわけでもない。今宮が俺だけを真っ直ぐに見つめてそう言うから、これまでのふたりの間にあった様々なことが脳裏によみがえる。
――宮が俺に好きな人の存在を教えなかったのは?
――俺が慰める度に宮がごめんと言って泣く理由は?
――べつに弱い男じゃない宮が、俺に頭を触れさせるのは?
――俺に好きな人がいたと知ってショックを受けていたのは……?
気のせいかもしれない。けどこの全部の理由はひとつの答えで繋がってしまう。その時の俺には、もうその答えしかないと思えた。ここでそれを察せなきゃ、この先ずっとこの男を逃してしまう。
宮が好きな相手は、絶対に俺だ。
「みや」
俺史上初めてくらい、努めて優しく宮を呼んだ。俺が宮の気持ちに気が付いたみたいに、宮にも俺の気持ちが伝わるように。
確かに宮が俺を好きになった時、俺は宮をそういう意味では好きじゃなかった。
でも今は違う。お前の恋に一途で健気な一面を知って、それに惹かれて戻れなくなってしまったのだから。
「っ、……臣くん」
俺の名前を呼んだ宮の瞳が何かに気が付いたというように驚きに見開かれる。諦念と悲しみに染まっていた瞳の中に金色の希望が灯り出す。
「えっ、え。嘘」
「……お前が今思ったこと、間違ってない」
「や。だってそれは俺に都合がよすぎる。俺、臣くんにとって普通に友達やもん」
「前までね」
言って、宮の手を捕まえた。焦りによってしっとりしてるその感触に思わず笑いが込み上げる。自分が他人の手にこうして触れるなんて思わなかったな、なんて考えながら。緊張に強張る宮の手から力が抜けて俺からの触れ合いを受け入れるまで手のひらや指を気ままに触ってみる。
「……慰めてんじゃなくて、好きだから触ってる」
「うん、いつもの頭撫でてくれんのと、違うんわかる」
「伝わってんじゃん」
「……ん」
宮の手が俺の手に触れ返す。指の先が手の甲の骨ひとつひとつをなぞっていく度に心臓が跳ねる。あんなに誰かを一途に思っていた宮のその相手が俺だったなんて、信じられない。信じられないくらい嬉しい。
宮も同じようなことを思っているのか、しばらくふたりそうして無言のまま手に触れていた。
「好きなん、辞めれんかった」
ぽつりと、手の先に視線は向いたまま宮が言った。
「……正直こんな一途な奴だと思ってなかったから意外だった」
「ふ。俺粘り強いん、臣くんもよおく知っとったやん」
「恋愛方面は全然そんなイメージなかった」
「ひどっ」
宮が笑う。繋がれた手に力が籠った。たった今、突然に失恋から両思いへ切り替わった俺たちの恋。自分の好きな人の、好きな人が自分だなんて嘘みたいだ。
「……好きや、臣くん。ふ、言うてもうた」
宮の心底嬉しそうな言い方に自分の口角もつられて上がってしまう。
もしこの先宮が何かに傷ついて悲しむようなことがあれば、俺はそばにいて背中や頭を撫でて支えたいと思う。宮が望むのなら抱きしめたっていい。
同じように俺が悲しんだ時、宮はどんなふうに寄り添ってくれるのだろうか。それはきっと親身で切実で、あたたかいものなのだろうなと思えた。