消えた涙 ぼんやりとベッドボードに背を預け窓の外を眺める。明るすぎる都会の空ではろくに星も見えないが、こうして朝まで時間を潰すのにも随分と慣れた。ただ静かに息をして、隣で眠るスティーヴンを起こさない様に気を付けていれば良いだけだ。
窓の外を眺めるのに飽きたら今度は隣のスティーヴンを見る。それを繰り返していれば、朝までそう時間も掛からない。
今日もやっと日付が変わった所だ。朝までのあと六時間くらいを、いつものように窓の外とスティーヴンとを往復しながら過ごそうかと思った時、隣の塊がゴソリと動いた。
「マァク……、眠れないの?」
「スティーヴン……悪い、起こしたか」
窓から振り返るとスティーヴンが眠たそうにしながら目を擦っていた。静かにしていたつもりだったが、やはり隣で体を起こしているべきでは無かったのだろう。いっそベッドから離れて、そのままソファで過ごすべきだったと後悔した。
「うぅん、平気」
「そうか」
「……ねぇ、マーク」
「うん?」
スティーヴンをもう一度寝かせようとシーツの上から肩を軽く叩いてみたのだが、スティーヴンは反対に体を起こしすっかり目を覚ましてしまった。
「あ、おいスティーヴン」
「ね、偶には二人で夜更かししない?」
チラリと首を傾げ、上目遣いにこちらを窺うスティーヴンの目からはもうこれが決定事項なのだということが伝わってきた。
「……俺は明日も仕事なんだが」
「僕は違う。……ね、良いでしょう? 君も眠れてなかったみたいだし」
出来ればもう一度スティーヴンを寝かしつけ、その後俺も眠ったという事にしておきたかったのだがこう強く強請られては反対にここから言いくるめる方が大変だろう。
「……はぁ……、分かった。良いぞ」
「やった。じゃあ僕コーヒー淹れて来るね」
「え、オイ」
俺が引き留めるよりも早く、スティーヴンはベッドを降りキッチンへと向かってしまった。スティーヴンが紅茶では無くコーヒーを、というのだなんて珍しいなと思った。だが夜中だからと明日に配慮して、例えばハーフティーを淹れられるよりはコーヒーを飲んだせいで眠くないのだと明日の朝言い訳出来るだろうか、と思った。
「お待たせ、はいこれマークの」
「あぁ、ありがとう」
数分して、スティーヴンがカップを二つ持ちながらベッドに戻ってきた。飲み物を飲むのならソファに移動したほうが良いとは思ったのだが、もしもスティーヴンが途中で眠たくなったらベッドの方が良いだろうとそのままベッドで過ごす事にした。
「ホットにしてみた。熱々でしょ?」
「あぁ、あったかいな」
受け取ったカップから湯気は立っていなかったが、スティーヴンがそう言うのなら間違いないだろうと、何も考えずに同調した。
「それ、アイスコーヒーなんだ」
「え?」
スティーヴンの言葉に驚いて手の中のカップを見るが、氷は浮いていない。ケルトを沸かす音しか聞こえていなかったが、もしかしたらお湯で氷が溶けてしまっているだけで中身は冷たいのかもしれない。
「あ、ははは。そうだな、冷たくて丁度いい」
俺は慌てて訂正した。手にしたカップが本当はどちらなのか、俺には判断が付かなかったせいだ。
「嘘。ホントはホットコーヒーなんだ」
スティーヴンのその言葉に、手から力が抜けた。
バレた。スティーヴンに、俺の嘘が。
落としたせいでシーツの上に広がるコーヒーの事なんかよりも、その事で頭が一杯になった。
「…………、火傷する」
「……」
スティーヴンはそれだけ言って、自分の持っていたカプを脇に置き、空っぽになったカップと汚れたシーツを俺の膝の上から退かした。膝に溢したのが本当にホットコーヒーだったのなら、シーツとズボンを通り抜け、熱で痛みを感じた事だろう。だが俺にはもう、何も分からなかった。
「いつからなの」
「……」
「いつからなの。もう何にも、感じなくなってるんでしょ!」
スティーヴンは凄まじい剣幕でそう俺を問いただした。その剣幕の中に垣間見える悲痛さを感じ取ってはいたが、俺はこの期に及んで未だ誤魔化す道を探していた。
「……そんな事ない」
「嘘! 今日だって、こんなにおっきな怪我して帰ってきたのに!」
そう言ってスティーヴンは俺の左手首を掴み、その肘の少し上にある打撲痕を示した。
「これは……そんなに、大した怪我じゃ無いから」
「こんなに真っ黒になって、大したこと無いなんてよく言えるな!」
「……どうせ、スーツを着ればすぐに消える」
「マァク!!」
腕を掴むスティーヴンの手に力が入った。だけど俺にはもう、その強さを目で見る事でしか判断できなかった。
「お願い……もう嘘つかないで……」
スティーヴンの言葉を聞いて、それでも俺は嘘を重ねようとした。でも、駄目だった。スティーヴンのあの、俺の事を真に心配してくれている、俺を愛してくれている目を見てしまったらもう、駄目だった。
否定の為に一度開いた口を、結局何も話さずに閉じた。
「ねぇマァク……お願い、話して……」
「……」
「何があったの」
「……」
「……そんなに僕は頼りないのか」
「違う、ただ……心配かけたく無かった」
言い訳をする気にはもうなれなかったが、悲しげな顔をするスティーヴンを見ていられなくて顔を伏せた。悲しませているのは、何も話さない自分だというのに。
「マァク……」
「…………分からない」
スティーヴンに促され、話そうにも何をどう話して良いのか分からなかった。
「始めは……腹が空かなくなった」
「……うん」
いつからだったのか、明確には思い出せない。何が切っ掛けなのかも分からない。ただこうして、二人でこの部屋で過ごすようになって……それからだった気がする。
「食べ物を口に入れても、何も味がしなくて……まるで砂を噛んでいるみたいで」
「うん……」
ぶつ切りに話す俺の言葉を、スティーヴンは一つ一つ丁寧に頷きながら聞いてくれた。
食べ物の味がしなくなって、無理に食べればその後吐いてしまう事。
食事をしなくても、いつまで経っても腹が減らない事。
その次は、眠れなくなった事。
何日も眠くならなくて、どれだけ疲れる事をしても眠気がやって来ない事。
目を閉じても眠れなくて、夜をぼんやりとして過ごしていた事。
多分……、たぶん、スーツの力を使えば使う程、酷くなっている事。
それで、今日――
「何も、感じなくなった」
痛みも、暑さも、寒さも。……何も。
「マァク……」
「だから、お前が淹れてくれたのがどっちなのか、もう、分からなくて……」
「マァク……ッ!」
最後の最後に、今日の事まで遡って、俺は一番どうでも良い事を口にした。ホットかアイスか何かよりも、もっと話さないといけないことがあった筈なのに。
そんな俺にスティーヴンはそれ以上は何も言わず、ただ俺を抱きしめ何度も俺の名前を呼んでくれた。
「マァク、マァク……」
「……ごめんな、スティーヴン……」
俺を呼ぶスティーヴンの声に、グズグズとした鳴き声が混ざっている。
「せっかく、スティーヴンが俺の為に泣いてくれているのに……凄く嬉しくて、泣きたいくらい嬉しいのに……」
もう俺は。
「……涙ももう、流せない……」
ごめんな、スティーヴン。
続けた言葉に抱擁の力が強くなった気がした。
だけどももう俺にはその力強さも、きっとシャツの肩口を濡らしているだろう涙の冷たさも何も、感じられなかった。