あと5分高校卒業と同時に上京してもう二年が経った。
お世話になった会長からの紹介で移籍したジムでトレーニングをして試合に出て。だけどそれだけではまだ食べていけないのでバイトで補填。
賄いがあるから都合がいいと、上京後すぐに見つけたボロい居酒屋のキッチンスタッフは肌に合ったのかずっと続いている。
「ねぇ、鵺路くん……」
「なん、オヤジさんどした」
オヤジ、とスタッフも客もみんなが呼ぶ小柄で丸くて、よく居酒屋なんて始めたなあんた、と思うような気の弱い店長が、汗に眼鏡を滑らせながらイジイジと声を掛けてきた。
頻回すぎる見慣れたその態度に、先の言葉を聞かなくても何が起こったか分かってしまう。
出来上がっただし巻きを皿にカツンと置いたら、うい、とオヤジさんに渡して、その頭越しにホールを覗く。あれか?と、無言で顎を指したら、オヤジさんが申し訳なさそうに笑って頷いた。
「ごめんね、鵺路くん」
「謝らんでよかっていつも言いよろうが」
その丸くて小さな肩をトントンと叩いて、平日にしては随分と騒がしいグループへと近付いた。座敷に五人、見た目や雰囲気からして大学生だろうか。楽しく飲んでくれるのはいいが、如何せん周りが見えていない様で。
「お客さん」
鵺路の声掛けにこちらも見もせず、なに?なんか用?、と不機嫌そうに唸る奴、何が面白いのか仲間のその態度にケタケタと笑う奴、最早何を言ってるか分からない奴。あぁ、若いな。心の中で吐き捨てた。実際は年上かもしれないが。
腹が立つ程では無い。こんな理性もプライドもない塊相手に。ただ、目障りで苛立つことは避けられない。羽虫が目の前を飛び回っても座禅を組んでいられる程にはまだ達観できてない。この時間に金銭が発生していることが鵺路の唯一の救いだった。
もしもこれが十代中頃のもっと若いときなら。そうだったなら、血の気のまま気に入らないものを力で制圧して終わりでよかったのに。
例えばこれが今、仕事中じゃなくプライベートな時間だっとしても、もうプロになった自分は安易に素人に手を出せない。だから受け流すしかない。でも今は最低限、この苛立ちを我慢して自分を抑えるにも金銭が発生すると思えば、幾分か気が楽だった。気が楽な割には、何度も繰り返しそれを自分に唱えるくらいには、目障りで耳障りだったが、そこから目を逸らせるくらいには大人になった。
「お客さん」
落ち着いて、ひと回り低い声を出したらやっと鵺路の声が脳まで届いたのか、一瞬の静寂の後、全員の顔がこちらを向いた。静寂から湧いて出た、邪魔な店員に対する悪意ある空気が、真顔で自分たちを見下ろす鵺路の顔を見た瞬間に弾け飛ぶように霧散した。
「他のお客さんもいらっしゃるんで」
その言葉に、煩かったお客たちは、あの、えっと、と、もごもごお互いに口の中でなにかを擦り付け合っている。最終的にその中のひとりが、気を付けます、と軽く頭を下げた。
これで落ち着きそうだなと察した鵺路は、空気を変えるように、にかっと笑った。店員には店員の態度が、客には客の取るべき態度があるだろう。そこは譲るつもりは無いが、かといって大ごとにしたいわけでもない。面倒な客だと話は警察沙汰まで拗れるし、その場合は強面のこの顔が悪い方にも向きやすい。
ほっとしたお客に重ねて出来るだけ人好きしやすい顔で笑って、はいじゃあそれで頼んます、と、こちらも軽く頭を下げ、テーブルにいくつもあった空きのグラスを全部掴んでキッチンに戻った。すれ違うホールスタッフのバイト仲間が「ナイス面圧!!」と小声で言いながらサムズアップして見せてくる。うるせぇ、と威嚇しながら笑って通り過ぎた。
「ありがとねぇ鵺路くん~!」
「よかばい」
「終わったら賄いで好きなの食べてね」
「おお、嬉しか。ありがとう」
オヤジさんのお言葉に甘えて、退勤のタイムカードを押してからガッツリと自分の好きな物を作った。カウンター (といってもパーテーションで区切って作った、壁を向いた長テーブルのひとり席) の一番端を陣取って、いただきます、と手を合わせる。少し食べたらなにか呑もうか、と考えていたら背後からぬっと出てきた腕が目の前にジョッキを置いた。
「はーい賄い、濃い目だよ~」
もうすでに好きなものを何皿も作った後なのに。追加で来た賄い酒に礼も言わせないままオヤジさんはにこにこ笑ってキッチンの中へ去っていった。仕方がないからジョッキに頭を下げてありがたく頂く。あおったジョッキの中身は確かにしっかり濃い目で、たまにしか呑まない身体によく染みた。
チビチビと自分で作った賄いをアテにしながら呑み進めて、スマホを確認する。まだあと一時間近くこのまま過ごす予定なのだ。
暇つぶしがてら、半分はつついてしまった料理と少し減ったグラスが写るように写真を撮った。ものは綺麗に収まっているがどうにもセンスが見受けられない。
(あいつ、いっつもどうしとったかな)
横目で見てる限りは特にこだわらず簡単に撮っているように見えるのに、やはり慣れだろうか。小洒落て見えるあれとはなんだか随分と違うのだ。SNSを開いて、今までのやり取りの中から送られてきた写真を出す。それをよく見て覚え、同じように撮ってみようとするが、やっぱり何かが違う。
首を捻って考えてみる。答えにたどり着く前に飽きた。まあ、センスある写真はセンスある奴が撮ればよかろう。自分はこれでいい。
とにかく写したいものが全部枠に収まっているだけの記録写真を送って、スマホを伏せてテーブルに置いた。すぐに通知でブルブル震えたので、また手に取って新着のメッセージを開く。
[食べたい]
短い返信と、それに続くなんの生き物か分からないゆるいスタンプ。どうせ本人もこんな風にゆるい顔してスマホを触っているんだろうと想像して、くすりと笑った。
外じゃあんなに澄ました顔をしてるくせに。
スマホを両手持ちにして自分も短い文を叩いた。
[帰りスーパーよれ]
それからジョッキをひと煽り。
そのジョッキが半分空いた頃、またひょっこりとオヤジが顔を出した。
「なにか持って帰るもの焼こうか?今日お迎えでしょ?」
「あぁ、ええよオヤジさん。今日は帰って作るから」
「そっかぁ~そうだよねぇ、オヤジ飯より鵺路くんのご飯がいいよねえ」
含みのある言い方をして、口元を押さえて笑いながらオヤジさんが去っていく。女子か。
[今から着替えるよ]
[そろそろ出るね]
[ごめん拳心につかまった]
[逃げ切った]
[今度こそ出るね]
実況かというマメな現状報告。ぽこんとメッセージが来る度に適当なスタンプを押したり押さなかったり。はよこいや、とは、思っても打たない。どうせ同じところに帰るのだ。これくらいの時間待てるやろ、と自分に言い聞かせて待機する。
ただ、酒をあおる度に元々そう固くはない理性が少しずつ少しずつ削れ落ちていった。一口飲んではスマホを見て、一口飲んでは時間を見て、一口飲んではため息が零れる。気づけばグラスの中身は空になってしまったし、その上うっすらと眠い気がする。まずい。欠伸を殺す気で噛む。
やっと明日、休みが重なったのだ。いつぶり?と指折り数えてみるが、酒と眠気でどうにも思考が回らず舌打ちが出る。トップ画面から指を滑らせ確認するカレンダーでは、そうだ、もう3週間近い。こちらも出稽古での遠征があったし、向こうも練習だ学業だと、久しぶりに随分すれ違った。
だからそう、つまり、今夜は期待されているだろうし、自分もそう。このまま情けなく寝落ちしたくはない。と、小さくため息をついた。頭を振っても眠気は飛ぶどころか頭の中でぐるぐると回る。
鵺路は少しでもアルコールを薄めようと水をがぶ飲みしてトイレに向かった。出すもの出して、手を洗ってついでに顔も洗ってみる。冷水に少し目が覚めたような気がしないでもない。
暖簾をくぐって手洗いから出たら、ホールからキッチンに戻るオヤジとかち合った。
「あ、鵺路くん。お迎え来てるよ」
「おぉ、ほんまや」
にこにこした顔でオヤジが指差す先、鵺路の席に座る、お迎え。
「よ、俺のベンツ」
片手を上げて笑って見せたら、苦笑いが帰ってくる。空いてる隣の席からガラガラと椅子を引いた鵺時は、肩で羽鶴の肩を押して席を寄せた。少しゆったりと幅をとってあるとはいえ、パーテーションで区切られた一人分の空間に、小さくは無い大の男がふたりで身体を寄せて収まっている。
「なに、俺の価値ってそこ?」
苦笑いのままの羽鶴は、気付けば鵺路の箸を持って残っていた賄いをパクパク口に運んでいた。鵺時はテーブルに肘を付いて少し顎を上げながら、その光景を見る。普段はまるで格闘家とは思えぬ立ち居振る舞いでお上品に過ごす目の前の男が、存外大口を開けて食べ進める姿を見るのが鵺路は好きだった。
「いやぁ? 他にもあるやろ」
「例えば?」
「顔?」
「ありがとう。ふふ、酔ってるね」
「ちょっとなー」
謙遜の欠片もなく鵺路の言葉を受け取った羽鶴がどんどん食べ進めるのを見ながら自分は水を飲む。顔がいい、なんて言われ慣れてるのがよく分かる態度と、そりゃ言われなれるだろうなという顔をまじまじと眺める。綺麗な顔は、普段一緒に過ごしていると簡単に綺麗であることを忘れる。それでこうやって、たまに離れて改めて見た時に思い知って、随分重々しく自分の腹の中に溜まる。そんな自分を、女子か、と鼻で笑って、鵺路はコップの水を思い切りあおって空にした。
カタン、とコップがテーブルに当たって音を立てたのとほぼ同時に、羽鶴が「ごちそうさまでした」と綺麗な所作で両手を合わせた。育ちが出るよな、こういうところ。
「ごめんね、遅くなって。帰ろう」
「おう」
鵺路が重ねた皿を持ち上げたら、羽鶴がささっとテーブルを拭き始める。なら任せるか、と振り返ったらいつの間にかそばにいたオヤジが皿を受け取ってくれた。
「オヤジさん、ごちそさうさんです」
「はーい、お疲れ様」
「ありがとうございました」
「はーい、羽鶴くんも運転気を付けてね」
ふたりで軽く頭を下げて店の外へ出る。冷えた空気が頬を撫でる。普段なら一瞬身震いするその空気が今日は気持ちいい。呑んでない羽鶴は少し寒そうに肩を上げた。
「いい人だよね」と、振り返って数メートル離れた店の灯りを見ながら羽鶴が言った。「ん」と短く返す。鵺路にとって、そこはもうホームで、羽鶴も自分にとってホームで。自分にとって大切な人が自分の大切な人を認めてくれると言うのは随分誇らしい気持ちになるもんだな、と口元が思わず緩んだ。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「へーき」
「そう。車揺れてしんどくなったら言って」
「おう」
最寄りのパーキングにとめてあった羽鶴の車に乗った。乗った瞬間に、自分のものではない匂いがして、鵺路は思わず顔を顰めたが、そんな鵺路に気付かず、酔いだけ気遣った羽鶴はアクセルを踏む。
あからさまにすんすんと鼻を鳴らすのはあまりにもデリカシーがないか、いや、デリカシーとかいうキャラか、言いたいこと言うのが俺やろ、でも別に女の匂いって訳でもないし、そもそも俺の車じゃないし、なら羽鶴が誰を乗せようと羽鶴の自由だろ。
しばらく考えをめぐらせていたら、急に答えをみつけて思わず鵺路の口からポロリとこぼれ出た。
「拳心か」
「え?」
「いや、なんもない」
不思議そうな顔をした羽鶴が、すぐに思い当たった顔をして「すごいな」などと言う。
「乗せたよ、確かに。昨日。うるさくて。後部座席だけど。よくわかったね」
運転中だからこちらを向かない羽鶴の横顔を眺めて、話題が長引かないように「まあ」とだけ返した。
(後部座席。後部座席な。ふうん)
遠回しに『助手席には座らせてない』と言われたことにまた口が緩む。羽鶴は当たり前のように鵺路を特別扱いする。特別扱いしていることをちゃんと鵺路本人に示す。
これまでの人生、良い方での特別扱いとは縁遠かった鵺路には、それがくすぐったくて。けれどそれが誰しも当たり前に与えられるものでは無いと知っている分、嬉しくて、そしてありがたいと思ってる。
「スーパー寄る? いつものところでいい?」
「……なぁ」
「ん?」
「……やっぱり、今日はそのまま帰りたい」
羽鶴が心配そうにこちらを見て、それから直ぐに少し驚いて、それから今はきっと笑っているんだろうな、というのが震う空気だけでも鵺路に伝わる。
「前見ろ」
「ごめん、贋丸がかわいくて」
「うるさい」
なんの問題もなく真っ直ぐ帰れば10分ほどで部屋の中へ着くだろう。その頃には恐らく、残りわずかな酔いも覚めるだろう。酔いが残っていれば、素直に寂しかったと言えたかもしれない。
でもまあ、口に出さなかったとしても、隣でハンドルを握るご機嫌な男には全部お見通しだろうしな。と、鵺路は冷えた窓ガラスに額を預けて。鼓動が少し早いのは、これからへの期待じゃなくて、まだ少し残った酒のせい、と、目を閉じた。
家までたぶん、