あげないよ国家のため、日々尽力する公安委員会。そのトップが鎮座している机から、とても人間が打ち込んでいるとは思えないタイプ音が響いていた。
個室なんて要らない。
そう言ってそのトップは所員と同じ空間で仕事をしているので、この場にいる人間は、この現象の由来をもう理解している。機嫌が悪いのだ。
公安委員会のトップーー鷹見啓悟ことホークスは、率先して仕事をしてくれる。本来管理者側にあたる彼は細かい仕事などしなくても良いのだが、机に張り付いているだけではなく、必要とあらば現場にも出ていき、なんならそこら辺の陳腐なヴィランなら捕らえてみせるのだ。その光景を初めて見たとき、さすがは元ナンバーツーヒーローだなと所員たちは感動した。
前線に立つことがほとんど無くなってしまったのと、派手な功績を残していなかったことから、最近の子どもたちのなかにはウィングヒーローを知らない子もいるようだが、所員は違う。日々間近でホークスという男の凄さを知って、いつかこれほどの仕事がさばける人間になりたいとひそかに目標にしていた。休日返上しているところは全くもって尊敬できないし、色んな意味で止めてもらいたいが。
そんな上司と同じ空間で仕事が出来るのは、目で見て盗む機会が増えるのでありがたいことなのだが、こういうときは困っていた。こうなってしまってはその日一日ダメだろう。誰も話しかけられない。
一人の所員が、果敢にもブリザード吹き荒れる委員長の机へ書類を一枚ペラリと乗せに向かった。猛禽類を思わせる真っ黒な顔で睨まれ、半泣きになって帰ってきた同僚を皆が囲む。
「おまえよく行ったな」
「どうしても今日中に判子が欲しかったんだよ……」
「馬鹿だなあ。昨日のうちに出しとけよ。今日は絶対に機嫌が悪くなるって分かってただろ」
「……いや、機嫌が良くなるかと思ったんだがアテが外れたんだ」
「そういや朝は機嫌良かったよな」
「いつから悪かったんでしたっけ?」
「昼じゃねえ?ほら携帯見てから……」
「あー……そこできっとSNSのコメントでも見ちゃったんだな……」
「朝から大盛りあがりですもんね」
「ほんと……香水はだめだってツクヨミさん……」
そう言ってため息をつく所員の片手にはスマートフォン。つけっぱなしの画面には、本日発売のツクヨミモデルの香水を写している。
委員長の不機嫌の理由も、所員はもうみな理解していた。
翼をイメージしたツクヨミモデルの商品が出る、と愛弟子から連絡を受けて、発売日だけ教えてもらっていた。商品内容は秘密だと告げられ徹底して隠し通されたので、ついに長年切望していたツクヨミ等身大の抱き枕が発売されるのかと期待していたが、朝イチに届いた箱は予想より随分と小さかった。首をかしげながら箱を開ければ、手のひらに収まるほどの瓶が出てくる。
「香水……?」
期待していたものとは違うのと、香水という大人びたワードに思考が停止する。弟子の常闇の成長を喜んでいる半分、まだまだ子どもだと思っていたんだとホークスは自分でも驚いた。
ふいに響いた振動音に根源をみやれば、はかっていたかのようにその弟子から着信が入っていた。
『受け取られたか?』
「うん。いま見たよ。モデル商品って香水だったんだね。……びっくりした」
『似合わないか?』
「ううん。格好いいよ。同封されてたフライヤーも、黒い翼を君にってヤツ、見たよ」
『それは、あなたへ向けたメッセージだ』
「……へ?」
『この香水の香りは俺も監修させてもらったんだ。色々と思考錯誤して、夜風を連想させる匂いを作りあげた。いま香りを嗅ぐことは可能だろうか』
「……?可能だけど……」
ホークスは言われるがままに箱からモノを取り出し、キャップをあけ、左手首に一吹きかける。その瞬間、手首からふわりと香るそれは、ずいぶんと懐かしい匂いだった。
『あなたが俺に空を教えてくれた日の匂いだ。……再現出来ているだろうか』
「……うん。いま、あの塔から見下ろす街並みが見えた」
『あのとき俺は、あなたの翼で風になった。今度は俺があなたを風にしてみせよう』
「……はは、黒い翼、それで……夜風……」
もう遠くなってしまった街並み。ヒーロー時代を駆け回った空。宿り木にした電波塔。
脳裏に浮かんだ懐かしい景色と心の奥底にあった湧いてはいけないナニかを刺激され、ホークスはほんの少し目頭が熱くなる。それを誤魔化すように目元を拭おうと左手を近づけたところで、ふと、先ほどとは違う香りがすることに気づいた。透き通った夜の匂いというのだろうか、そのさきに少し砂ぼこりのような匂いもする。
「あれ……?ミドルノートは違う香りにしたんだね……?」
『ほう。流石博識だな。ミドルノートとラストノートは“黒影”をイメージして作ってみたんだ。より、黒い翼をまとっている気分になるかと思ってな』
「ああ、どおりで……」
あの偉烈な戦いを、魔王と対峙したあの景色が思い浮かんだわけだ。正確にはそのときに押した弟子の、背中の温もりを……だったが。
『黒影の香りをと思い至ったはいいが苦労した。物心がついたときから触れている匂いを表現しようと思っても俺にはわからなかったからな』
「ちゃんと表現出来てるよ」
だからこそ、初めて黒影に囲われたあの戦いを思い出したのだ。
ホークスの柔らかい声色に、敏い弟子は何を思い出したか気付いたのかもしれない。静かに「そうか」とだけ返事をした。
「ありがとう。落ち込んだときに使わせてもらうよ」
『あなたの励みになるのなら僥倖。だがそういうときは休みでもとって気分転換をーー』
「あー!はいはい。朝からどうも。その話はまたあのカフェで聞くよ」
恒例のように始まった常闇の小言を適当にいなし、電話を切る。
めんどくさいというよりは、これが始まると長いので、しっかり聞いてしまうと遅刻してしまうのだ。だが長くなってしまうのは自分の落ち度だということもホークスはわかっている。だから暇をみつけては、常闇と長居出来そうなカフェに入って小言を聞く時間を設けている。
ただただ聞いて、ホークス自身に改善するつもりがあまりないことにきっと気付いているだろうが、常闇にはこの恒例行事をやめないでほしいと思っている。
あの時間こそが、日々を忙殺されているホークスの、唯一の気分転換だから。
無事に定刻通り出勤できて小一時間。
常闇との久しぶりの会話に、常闇と黒影といっしょに福岡の夜を駆け抜けたような香りをまとえて、朝から最高潮に気分が良かったホークスは失念していた。
常闇が送ってくれたそれは“商品”であり、あの素晴らしい香りはソレを手にした者なら誰でもまとえることを。
小休憩の際、いつものように漆黒ヒーローツクヨミのSNSをひらいて、愕然とした。本日発売のツクヨミモデルの香水の感想で溢れかえっていたからだ。
『すごい良い香り!』
『これツクヨミの匂いってこと?』
『仕事前につけていきます!今日は一日ツクヨミと一緒の気分!』
ミシリと手の中のスマートフォンが嫌な音をたてたが、硬度にこだわった品であるゆえホークスの力で握りしめたくらいでは割れない。元々は空中で落としても無事なようにと発注したものだが、こういうときにも便利だということを初めて知った。知りたくなかった。
その後も、止せばいいのにツクヨミのSNSをひらいては嫉妬の黒い渦にのみ込まれていく。
ヒーローとしては多くの人間を喜ばせることが出来て良いことなのかもしれないが、独占欲の塊を持っている側からしたら、こんなにもの不特定多数の人間に“香り”などというツクヨミ、もとい常闇踏陰の一部を分け与えずとも良かっただろうと責めてしまう。
案の定『部屋につけた!ツクヨミが居るみたい!』『これお風呂にも入れられるって!そのお風呂に浸かったらツクヨミに包まれてる気分になれるってこと?絶対やる!』という、前々から目星をつけていたツクヨミファンの子たちは大興奮だ。
ちなみにだが、今起こっていることの重大さに気付いたときから、このスマートフォンで操作できるかぎりのツクヨミモデルの香水は買い占め終えている。あとは店頭に置かれているぶんだけだろう。それもきっとお昼頃には無くなるのだろうけれど。
すべての店頭での「完売」の文字を確認すべく、昼休憩にスマートフォンをひらいてホークスはまたも愕然とする。
もはや一種のルーティンのようにツクヨミのSNSをひらいてしまったがために、ツクヨミに助けてもらったことのあるファンの一人が、あの香水が黒影にくるまれたときと同じ匂いがすることに気付いたと、その件でさらなる大盛りあがりをみせているのを目撃してしまったのだ。
『本当にツクヨミの匂いってこと!?』
『本当にツクヨミにつつまれてるときと同じ匂いがするってこと!?』
『ツクヨミと付き合ってる気分になれるってこと!?』
『一緒に住んでる気分になれるってこと!?』
リアコと言われる、ツクヨミのことを本当に好きな子たちが絶叫の勢いでつぶやいているなか、ひとつの過激な発言にホークスの米神に隠しきれない筋が浮かぶ。
『ツクヨミがわたしのものになった気分』
ミシリと先ほどよりも大きな音をたててスマートフォンが軋む。特注品の外殻は無事だが、中身の本体にヒビくらいは入ったかもしれない。
なにが、わたしのものだ。ツクヨミは。絶対に。誰にも。あとにも先にも。
「……あげないよ」
朝の上機嫌はどこにやら、一転して、かつて前線でヴィランを攻め立てた飛鷹のごとく仕事に打ち込む。途中で仕事を追加してきた部下を睨んでしまったが、きっと長年の付き合いでわかってくれるだろう。上司の機嫌が過去最低クラスで悪いことに。
最低な気分が、キーボードを打つ速度を加速させる。
今日はさっさと片付けて、兼ねてから打診されていた話を強引に進ませねばならないのでちょうどいい。
漆黒ヒーローツクヨミを、公安直属のヒーローへ。
これは優秀な常闇に目をつけた人事の人間が、ホークスの愛弟子であることを良いことに、ちくちくと委員長本人に突ついてきていた話だった。会話の所々に差し込まれるその話題を、今まではなんやかんやと突っぱねてきたが、もういいだろう。本当は、まだまだ陰があるこの組織に常闇を触れさせたくなかったが、そんなことも言ってられない。誰かにとられるくらいなら、ホークスの隣に置いて、彼のことを徹底的に管理する。もちろん、香水なんてふざけた商品はその時点で販売停止だ。
可哀想に。本気になった公安委員長の力は絶大である。
「俺に内緒になんてするからだよ」
デスクに置かれていた、いつ買ったか分からない缶コーヒーをコクリと飲み干し、哀れな子鴉に責任転嫁する。
いまの常闇は遠い。背中を支えるにも手を伸ばすにも抱きしめるにも、あまりにも遠い。
ずっとずっと、内職が主になってからずぅっと思っていたが、それも今日でおしまいだ。
「俺の隣においで。ツクヨミくん」
昼に急降下したその機嫌が少しずつ上昇する。もうなにを見たって気にならない。
だって皆が憧れ恋い慕うその漆黒ヒーローは、近い未来自分のものになるのだから。本物のツクヨミの香りを独り占め出来る日がくるのだから。
せいぜい今だけ、その作り物の香りで舞い上がるのを許してやろう。
就業間近、あれだけ絶対零度の空気を放っていた上司が普段の颯爽とした雰囲気に戻ったことに、所員たちの間で小さなざわめきが起きていた。
未だツクヨミのSNSは香水の件でひっきりなしにつぶやかれている。どうやらモデル商品は売り切れ続出らしく、取り扱い店舗前で泣き崩れるファンたちでいっぱいだと、なんなら夕方の全国ニュースにもなっている。
それなのに、なんだ、あの委員長の気の変り様は。なんなら機嫌が良さそうまである。
所員たちはみな、不気味なものを見るような目で上司を見つめていた。
その不気味さの答えは、きっと、明日にでも。ホークスが認めた優秀な所員たちならば、珍しい中途採用の辞令が社内掲示板に貼られているのことで察するはずだ。