「恋の難しさ」「あら。会いにきてくれたの? ディアマンド」
シトリニカのさらりとした口調に国王の目に微かな動揺が混じった。
王としては簡単に感情を表に出すものではないのだが、部屋には自分と婚約者の二人しかいない今、自然とディアマンドはただ一人の男に戻ってしまう。
舞踏会に出るドレスを合わせにシトリニカが王城を訪れていると聞き、少しでも会いたいと思い訪ねてきた。だというのにその反応は薄く、もっと喜んでくれるだろうと思っていたディアマンドにしてみれば内心穏やかではいられなくなる。
「もう戻るところだったか?」
ドレス選びに付き合うと聞いていた王太后の姿はもうなく、シトリニカ自身もすっかり普段の姿になっていた。
帰るところを引き止めてしまったのではないか。
彼女とは恋仲なのだからそうするのもおかしな事ではないのに、やはり先程の反応が頭を過ってディアマンドの唇は消極的な言葉を選び取ってしまう。
「そうね。ついゆっくり帰り支度をしてしまったけれど」
「では、タイミングが悪かったな。──少し、話でもしたいと思ったのだが」
帰るところだったのかと尋ねて、そうだと肯定されて居座るべきではない。ディアマンドの中でもう一人の自分がそう告げた。
旧知の仲、幼馴染。自分とシトリニカはもうそれだけの関係ではなくなったのだ。これきりというわけではないし、今日が駄目なのならまた別の機会がある。
彼女の表情が喜びに満たされなかったのはこの後予定があって早々に城を出なければならないからかもしれないし、そうであれば幾ら将来を約束した相手だからといって阻む権利は──ない。
少し前にただ一人の男でいる事を自身にに許したばかりだというのに、ディアマンドは王として立っている時のように一個人である自分を押し殺す事を選択する。
高速で頭を巡る言葉たちが、恋人に背を向ける事を躊躇うディアマンドの踵を強引に返させた。
穏やかな微笑を作って、相手に気を遣わせぬように。
いつからか身についたそれを自然とこなし、彼は通ったばかりの部屋の扉へと歩み出した。
──その筈だった。
肩を落とすわけにもいかず堂々と一歩を踏み出す。その前にディアマンドを襲ったのは、ぐいとマントを引かれる確かな感覚だった。
それは僅かの間の事。すぐに身体は自由になり、驚きと動揺を隠せないままに彼は再び爪先を後方に向けた。
まだ戻る途中だったシトリニカの手がぱっと彼女の胸元に引き寄せられる。
誰がディアマンドの纏う真紅を掴んだのか。尋ねる必要もないくらいに明らかだった。
そもそもこの部屋には二人しかいないのだ。答えを誤る筈がない。
「シトリニカ……?」
まだ驚きで胸を占めたままディアマンドは恋人の名を呼ぶ。
彼の瞳に映る愛しい人はそっと目を逸らして、短い髪が隠しきれないきめ細やかな肌を薄らと朱に染めていた。
沈黙が漂う中。この部屋を訪ねてすぐの時やふたつみっつ言葉を交わした際とは全く違う様子のシトリニカが赤い瞳に映る。
「……こういう時までものわかりが良すぎるのは、どうかと思うわ」
視線を逸らしたままのシトリニカの唇が動き、消え入りそうな声がそう紡いだ。
いつもならはっきりとした物言いで告げてくるというのに。それとは真逆の声音に、綴られた言葉に、ディアマンドはようやく恋人の本心を悟った。
先程は踏み出す事が叶わなかった足を一歩前に出し、それと同時に胸元に置かれたままの白い手を掴み引き寄せる。
それを本人も望んでいたからだろうか。
抵抗なく埋まった二人の距離はそのまま零へと変わり、ディアマンドの逞しい腕はあっという間にシトリニカの身体を包み込んだ。
胸を押し返される事もなく、抱擁の中で体温はじわじわと混ざり合っていく。
「望むとおりこうしても良かった、という事か」
抱きしめる腕に少し力を込めながらそう呟けば、一気にディアマンドの中に安堵が広がった。
冷たいとまでは思わなかった。だが、短い時間でも共に過ごせる事が嬉しい、そう思っているのは自分だけなのだという考えは想像以上の落胆を彼の中に生んでいたのだ。
「そうよ。最初から、こうしてくれたらよかった」
「一方的な感情で引き止めて、お前を困らせたくなかったんだ。それに、正直に言うが私が会いに来た事をあまり喜んでいるように見えなかった」
「……っっ。それは、わざとなんでもないように振る舞っていただけ。あなたは冷静なのに、わたしだけ浮かれた態度でいるなんて、ちぐはぐで恥ずかしいじゃない」
腕の中から聴こえてくるややくぐもった声に、ディアマンドは再び小さな驚きを覚えた。
冷静? 私がか? 自身では恋人に会える喜びに浮き足立っている気でいた彼は、シトリニカの目には全く違う風に映っていたと知り思わず自問してしまう。
普段に比べたら、少しも冷静な自分でなどなかったというのに。
想像もしていなかったすれ違いに、ディアマンドは小さく苦笑を漏らしシトリニカへと囁く。
「お前と二人でいる時の私はそんなに冷静な男ではないさ」
「それならもう少し、わかりやすく見せてほしいわ」
「ああ、今回の件でひとつ学んだ。善処はしよう。──だが、シトリニカ。できるならお前にも私の前ではそうしていてほしい」
恋の難しさをまたひとつ知ったディアマンドは愛する人に同じものを望み、柔らかな金糸へと鼻先を埋めた。
いつだったか気に入っていると言っていた花の香りが微かに鼻腔を擽れば、恋人を腕に抱いている実感が改めて押し寄せてくる。
頷きの代わりにより深くシトリニカの頬がディアマンドの胸へと埋められた。
今では静かで穏やかな空気が満たされた部屋に、それなら今のわたしも素直になるわ、と同じ気配を纏った声が溶ける。
「ドレスを選んでいる時も、わざと帰り支度に時間をかけている間も、ずっと思っていたの。ディアマンド──あなたが訪ねてきてはくれないかしら、って」