ここは地獄の一丁目 中庭を抜けて校舎へ向かう人影を見下ろした。赤いベストがちらりと見え、彼らがハーツラビュルの寮生だと知れる。頬にハートのペイントを施した男子生徒とスペードを施した男子生徒が前を行き、後からもう一人と一匹が慌ただしく彼らの輪に混じる。監督生と呼ばれるその生徒は正式な入学式にはおらず、つい最近、どこからともなくこの学園に編入してきたのだと噂で聞いた。
ブレザーの内ポケットを探って長方形の箱を取り出す。パッケージは見たまま煙草の形を模してはいるが、中身は子供向けに作られたチョコレート菓子だ。細い筒状のそれを一本取り出して包み紙を剥き先端を齧る。パッケージこそ違えど、口の中に広がる甘ったるさは向こうの似たようなそれと同じ味がした。懐かしさを感じるより先、すぐ隣に寄せられた体が太陽を遮って影を落とす。
「こんにちは、ご機嫌いかがでしょうか」
見上げるほどの長躯がこちらを見下ろして口角を曲げている。穏やかに微笑みを湛えてわざとのような会釈を添え、ジェイドはしれっと小箱の中から一本を攫った。見よう見まねでペリペリと包装を破いてパキリ、半分を齧って視線を中庭へと向ける。
「ご存知でしたか、〝彼女〟のこと」
「さあ。噂だけ聞いたけど」
「そうでしたか。ええ、ええ、それはよかった。どうやら私も噂に聞きましたところ、かなり特殊な条件で入学をされたのだとか」
「……季節外れの編入生、でしょ」
「闇の鏡に選ばれず、どこからともなく現れたのだと聞いています」
どこかで似たような話をお聞きしたと思いまして。なんて言いながらジェイドは残りの短い棒菓子をむしゃりと口の中に放り込んで咀嚼した。ポキポキ音を立てながら鋸歯をほんのりちらつかせる。
いつからここは共学になったのかと最初の頃にジェイドは言っていた。昔も今も変わらず、この孤島に聳える由緒正しきNRCは全寮制男子校のままである。とは言えその大前提を覆すやもしれぬ存在が、今正に視線の先で悠々と闊歩しているのだから疑ったとておかしくない。どうやら学園長含めた教師陣はこのことを知っているらしく、その上で彼女を、特例として入学させた。
ズボンを履いているとは言え性別までは誤魔化せない。学園には華奢で可憐な外見の男子生徒も多く在籍しているが、比べてしまえば骨格からして何もかも違うのだ。わかっていてその上で敢えて入学を許可したとでも言うのだろうか。
何を考えているか知れないカラスの笑い声が脳裏を過ぎる。とは言え監督生の入学に関する仔細を知らないのも事実だ。彼女と学園長との間にどんな取り決めがあり、どんな契約が成されたのか、噂程度の話ばかりでは信憑性に欠ける。視線の先でふわりと揺れるセミロングの茶髪が校舎へと消えていった。くるりと中庭に背を向けて柱に体を預ける。
「馬車の迎えも、まして棺の座席にも収まらずにここを訪れたとは、なんと奇妙な偶然かと思いまして」
「偶然じゃないんじゃない?」
「というと?」
「さあ、詳しいことはわかんない。神様の思し召しってやつかも」
「面白い事を仰いますね」
「……どの道、あの子がここにいるってことは〝別の鏡〟から来たってことだと思う。私みたいに、向こうとこっちが鏡で繋がって、引っ張り込まれたんじゃないかな」
「一人称を取り繕うのはおやめになられたんですか?」
「いちいちうるさいな。……まあ、つまりさ、あの子も〝俺〟と一緒なんじゃないかって話」
パッケージを内ポケットにしまった。これからきっと大きくなるからと余裕のあるサイズにしてもらったブレザーの袖を捲り上げる。足元に置いていた鞄を拾って肩にかけ、未だにこちらをじいっと見つめるジェイドを一瞥した。オッドアイがきゅうと細められる。ポキポキと銜えていたチョコレートを砕いて飲み込み「聞いてくれば?」そんなに気になるならと添える。
「おや、随分と安直なご提案ですね。ご自分の立場をお忘れですか」
「嫌味言わないと喋れないの? …別に、赤い連中(ハーツラビュル)に探り入れてきてもいいけど、俺はパス」
「お気に召しませんか」
「いや、別に。ていうか、いきなり二年生が声かけに行けないでしょ。接点どころかあっちと関わりもないし」
「関わりがあれば自ら歩み寄ると?」
「わかってて聞くなよ、腹立つ」
通常、この学園に入学するには闇の鏡に選ばれる必要がある。ゴミ捨て場にあった壊れかけの鏡から、突然こちらの世界にすっ飛ばされてきました、なんてのは例外中の例外だ。それに魔法さえ持っていないとなれば大問題である。性別でさえ入学条件を満たしていない。何もかもイレギュラーな存在が、既に一年前にしれっと入寮を済ませていて、剰え気付かれずに生き延びているだなんてビッグニュースも甚だしい。
アップバングにして流した前髪を掻き上げる。後ろ髪は首を覆う程度の長さに短く切った。長髪の男子生徒がいないわけではないが、これが一番、性別を誤魔化すのに手っ取り早いと思ったからだ。幸いにして悲しいことに、まっ平の胸元は一年経った今でも発育していない。肉付きがどうの、骨格がどうのと指摘こそされなければ、今のところ問題なく紛れ込めている。
例の奇病認定された体質(魔法が一切使えない件)についての治療は未だに継続中だ。定期検査の他に投薬治療も行っていて、原因不明の病を理由に悠々自適な一人部屋生活を謳歌している。とは言えちっとも魔法が使えないわけじゃない。投薬によってたまたま、うっかり、ほんの少しくらいなら魔法を扱えるようになった。授業に差し支えない程度の、ほんの少しの慈悲程度である。
少しずつ回復に向かっている兆候だと神父様も担当医も喜んではいたけれど、この魔法は期限付きだ。服薬が切れれば効果はなくなる。朝と昼、日に二度、忘れずに錠剤を飲めば日中はやり過ごせるだろうが、効果は持って数時間が限界なのだ。放課後は厄介な上級生だとか、黄色い連中(サバナクロー寮生)に絡まれないよう、さっさと自室に引き籠るしかない。
そんなクソつまらない一年弱を無事に過ごし、こうして二年生に進級してしまった。そりゃもちろん、呑気に居座って荒くれ者集団しかいない野蛮な学園生活を過ごしたわけではない。元の世界に帰る方法がないか、転移魔法だとか召喚術だとかの文献を読み漁って、図書館通いもそこそこ続けたりもした。寮生に見つかると厄介なので街にある大図書館には数回しか行けなかったが、それでも可能な限り魔法やら世界やらの情報を集めまくったのだ。
その結果、導き出されたのが〝次に異世界との繋がりができるのを待って、繋がった通り道をこじ開けて帰る〟方法だった。不定期だがこの世界の摩訶不思議な超常現象は一回ぽっきりではない、という可能性に賭けたのである。
元の世界と繋がる次のタイミングとやらがいつ来るかしれない。その瞬間、繋がった何かしらの傍にいられるかもわからない。何もかも不確定なことばかりだったけれど、もしかしたら運よく帰れるかもしれない希望に、ちょっとばかし期待していたのだ。
私が最初にこの世界に飛ばされてきた日、ゴミ溜めにあった薄汚い鏡は割れて使い物にならなくなった。同じ場所に幾度か通ってみたりはしたが、新しい鏡が現れるわけもなし、その片鱗さえなかった。二年に進級が決まって今日まで、なんの進展もなかったのである。そんな矢先に現れたのが例の監督生こと、時季外れの転入生だった。
間違いなく同じ境遇の人物だとわかる。確認せずとも噂だけで十分だ。闇の鏡に選ばれていない例外。魔法も使えず、突然棺から現れた正体不明の〝女子生徒〟。
道は確かに一度繋がった。監督生をこの世界に連れてくる際に、あちらとこちらの繋がりはできたはずだ。運よく立ち会えなかっただけ、タイミングが悪かっただけだと、そう片付けるには納得がいかない。監督生がこちらへ来たその瞬間、その場にいさえすれば、繋がりをこじ開けて帰れたかもしれないのに。
「元より突拍子もない暴論ではありましたけど、まだ諦めていなかったとは驚きです」
「無茶苦茶な理論だとは思ったけど、でも実際監督生は来たし、もっかいこっちとあっちは繋がった。一年に一回なのか、百年に一回が偶然ここ数年重なったのか知らないけど、可能性がゼロじゃないなら後はもう、こじ開けるだけじゃん」
「そういうところは逞しくていらっしゃるんですね。転寮されてはどうです? その図太さがあれば、サバナクローでも十分生きていけるのでは?」
「誰が行くか、あんな無法地帯」
チャイムが鳴る前にと柱から体を離す。廊下の先で慌てて教室に入って行く生徒たちの姿を見た。さっきまで中庭を抜けていたハーツラビュル寮生と、例の監督生、一緒に連れている猫のような魔獣も一緒にA組へ入って行く。
彼らを見送ってからジェイドを振り返った。手首を捕らえる長い指が皮膚を圧している。骨ごと砕く強さでもって食い込ませてくるのを一瞥した。オリーブの瞳が瞬いて近付き、耳元へ吐息を注ぐ。
「……痛いんだけど」
「おや、これは失礼。放課後のお約束をまだ、お聞きしていなかったものですから」
「今日ラウンジのシフトあるんじゃなかったっけ」
「ええ、ですからお待ち頂いても構いませんか」
「図書館行ってからでもいい? カウンター席、一番端っこ。空けといて」
「お取りしておきます」
手を叩いて拘束を解く。D組のドア手前でこちらを伺うフロイドが笑いながらひらりと手を振っていた。ふたりとも何してんの、遅れちゃうよ。のんびりした口調には不機嫌の色は伺えない。珍しくご機嫌な日らしい。双子の片割れに笑顔で返し、ジェイドは何事もなかったかのようにE組へ入って行った。
握られていた手首が真っ赤になっている。指の痕を隠すようにまくり上げていた袖を戻してから、フロイドに続いて教室に入った。
「ジェイドとなに話してたの~?」
間延びした語尾に添えてマジカルペンの先端が頬に押し当てられる。むぎゅむぎゅと内側にへこまされた頬の弾力を楽しむように、押しては引いてを繰り返しながら「ねえねえ~聞いてる~?」質の悪い駄々っ子のようにフロイドは騒いだ。既にチャイムは鳴っているのに意にも介さない。
教壇からジトリと向けられる瞳が無言の圧力を秘めている。二年の魔法史を担当する彼はちょうど今年学園に来たばかりだ。生徒たちのことをまだよくわかっていないのか、或いは出方を伺っているのかもしれない。ロイヤルソードの出身だとも聞いていて、そんな彼がどうして母校ではなくNRCで教鞭を振るっているのかは知るところではない。知るところではないが、何かしら問題があって左遷されたのだろうと噂になっている。
最後列に座るフロイドは教科書さえ開いていない有様だが、その彼をあからさまに指摘することもない。面倒を嫌っている節もあるから、恐らくひっそりこっそり内申点を引かれるのだろう。私もとばっちりで。冗談じゃない。
頬を圧迫してくるマジカルペンを片手で弾いた。ひでえ~! なんて騒ぐ子供のノートを開いてやって端っこにペンを走らせる。静かに。まじまじと覗き込んで読みながら「口で言えばあ?」フロイドが笑った。授業中だということをすっかり忘れているらしい。
「オクタヴィネルにマイナス十点」
「ハハッ、なにそれおもしろ」
「あんまりふざけてばっかだと、内申点下げられて二回目の二年生になるかもよ」
「え~ねぇそれ、もしかしてトド先輩のこと言ってる?」
「レオナ・キングスカラーのことトドって呼んでんの?」
一年遅れで入学を果たしたかの有名な三年生、レオナ・キングスカラーと言えば夕焼けの草原の王室出身で、第二王子の肩書を持つその人である。私が一年生の時も三年生だった彼は未だにその学年に身を留めていて、所謂留年生であるのだけど、当人が別に気にしている風でもないのがまたより一層、一目置かれる所以でもある。
そんな学内の有名人は荒くれ者集団こと、無法地帯サバナクロー寮を牛耳る寮長でもあらせられる。入学からこっち、よくよくお世話になった先輩たちは皆殆どが黄色いベストに獣耳ばかりだったから、これっぽちもいい印象がない。かと言って凶悪ウツボ双子有するオクタヴィネル寮が善良なそれであるかと問われればまた違うのが難である。どこに行っても安寧の地などこの学園にはありはしない。
板書を横目に教科書に落書きを走らせるジェイドが「つまんない」またしても子供みたいなことを呟いた。長すぎる手足をぐでんと伸ばしてテーブルに突っ伏し、白紙のノートを枕にして目を閉じる。
「終わったら起こしてよ」
「嫌だよ、なんで」
「仲良しのジェイドの、可愛い双子の兄弟だからぁ?」
「それ関係ある?」
「あるある~大アリだよ~! だってさぁ、カサゴちゃんはぁ、ジェイドと仲良しじゃん? それってさぁ、オレとも仲良しってことじゃん?」
一年の時からフロイドとは同じクラスだ。その頃からずっと、フロイドは私のことをカサゴちゃんと呼んでいる。海の生物になぞらえてあだ名をつけることが多いから、きっと何かしらの意味があるのだろうと調べたこともあった。鮮やかな赤い体に黒の縞模様と、特徴的な刺々しい背ビレ。ミノカサゴと呼ばれる種には毒があるのだという。
彼らの中にはよく似た特徴を持つ別の種もいるそうで、擬態が上手なんだよとフロイドが教えてくれた。図書館で広げた海洋生物図鑑を指差し、こっちね、なんて薄笑い付きで。
ジェイドがフロイドに話したとは考えにくかった。おもちゃを見つけて仲のいい兄弟とシェアする腹積もりならまだしも、あの日から丸一年経った今だってそんな話は聞いていない。とは言えフロイドだってバカじゃない。感づいているのかもしれないと思った。言わないだけで、私の秘密を彼も知っている。
仲良くしようね、カサゴちゃん。ちょん、とほっぺたを指先で突っついて笑いながら、フロイドはそう言って「んじゃおやすみ~」夢の世界に旅立った。