神の手はとどかない 神とは、なんと不自由な存在であろうか。
世界の運行を、被造物達の命運を握っているというのに、更に我々を縛る大いなる不文律が、常に俺の前に立ちはだかる。
かつて俺は、太陽神により産まれることを許されなかった。生命の神の権能と、埃及の王の未来を持つ者の誕生は、己の意志ではなく、創造神にも拠らず、父と母の情と、太陽と知恵の許しによって成された。
世界は男と女が番うものとされ、新たな魂を正しく創造できるのは、男の精を得た女であり、俺に其の仕組みを書き換えることは、叶わなかった。
俺が存在した時点で、世界にはあまりにも多くの俺の力の及ばぬ大いなる力が存在していた。
そして、己の弟もまた世界の条理に気付くことすら無く、当たり前のようにその中で生きていた。
神でありながら、破壊も改変も、新たに創る事も出来ない、目に見えぬ存在に気が付いた時、目に映る世界が変じた。
世界に数多の条理が溢れている中で、何故俺に其の様なモノが生じたのか。或いは其れさえも世界の持つ条理なのか。生命の神だからか、王冠を戴く者だからか。兎角、俺にその気付きを与えた存在は、共に両親より生を授かった四兄弟の内の一人、砂の神セトであった。
黒き肥土、碧きオアシス、太陽は夜明けは純白に輝き、空高く在っては黄色く、大地に繁る生命は緑深い。それらを壊す破壊の赤。何故、人も神もこの赤を忌み嫌うか。
「オシリス」
父上の上に生きる命の隙間で、熱風と共に舞い上がり一所に留まらぬ砂。
「俺はエジプトを守る神になりたい」
自由を持ち、何処にでも行ける砂の神は、それよりも他者との繋がりを保つに足る力を求めていた。池に咲くだけの睡蓮よりも弱い小さな弟には、その願いに必要な力が無かった。
「どうした、セト」
武術の稽古において、砂の神は才覚を示した。
一対一の手合わせやネセト、戦い方の飲み込みは誰よりも早く、其処にまだ固い蕾があった。
「兄貴がラーよりも何倍も上手く埃及を豊かな国にするんだろう。アンタは生命の神だ。なら俺は、アンタや……いや、皆を守る神になりたい」
肥えた兎が禿鷲に狙われるように、埃及が豊かになれば、軈て外からその腹を啄もうとする者が現れる。
「…例えば俺が海の神だったら、もっと強い力を使えたのかな」
たとえ本人の才覚と膂力が秀でていても、砂は小さく、人の目にも留まらない。何も育まず、死骸が埋もれ、虫が這うだけの存在を司る神に、埃及を守るに足る力が有るものか、とラーは嗤った。
『その武の才で獣を殺すことは出来ても、砂の神程度が埃及の為に何が出来ると言うのです』
無力故に、顧みられず、志を嗤われる。それもまた条理だというのなら、俺はせめて。
「砂の海があれば」
太陽神の作った世界に、美しい赤を広げてやろう。その志を叶えるに足る力になるように。
そして砂の神は赤き砂漠の神と成り、埃及を守るという事がどういう事なのかを身を以て知る。
「ここから先は埃及だ。進めると思うなよ」
砂塵舞う埃及の戦場で散った生命。多くの亡骸はセトの砂に埋れ、乾き、崩れ、朽ち果てて行く。埃及のために戦いながら、来世のための肉体を持ち帰ることも出来ない名もなき兵。
「戦神セトが敵を退けた」
「流石は砂漠の神」
「腕の一振りで数十人の敵が吹き飛んだぞ」
自由であった砂の神は、埃及の人々と神の間で知らぬものは居ない存在となっていく。
「当たり前だろ。俺が出るんだ」
黒き獣の冠頭衣の下から、自身に満ちた声がする。美しく完成された戦神の肉体が戦場で踊る姿は、兵を奮い立たせ敵を挫く。
「商隊もまた数が増えて、埃及は豊かになりますな」
「おかえりなさい、セト」
「ネフティス…!」
誰にも顧みられ無かった砂の神から、埃及を背負う、王の片腕へ。
「腹の子は?」
「まだ会えるのは先よ、もう、せっかちね」
和合の神を妻として、誰にも後ろ指を指されることのない一柱の神になった。力には義務が、絆には枷が、愛には痛みが伴う。
「オシリス」
それもまた、生命の神には変えることの出来ない、世界の条理か。
「オシリス!」
「何だ、そんなに大きな声を出して」
「ボーッとしてたからな、王サマ」
フ…と笑いと溜息の合間のような呼気を逃し、セトへ視線を向けると葡萄酒を手に上機嫌で居た。
「強くなったな」
「…埃及と、家族の為だからな」
「――家族、か」
手元の金の盃に揺れる葡萄茶色の酒。その水面に映る、王冠を戴く自分の顔。その家族に、俺は含まれているのだろうか。
「俺の子供には、絶対に寂しい思いはさせない。その為に、埃及を守る。アンタを守るよ、オシリス」
「俺もまた一人の男だ。生命の神として、守りたいものが有るのはお前と変わらぬ、セトよ」
嘘ではない。妻イシスは俺にとって唯一であり、彼女が居なければ俺の王位は盤石にはならぬ。生命の神と、命の川ナイルの神。埃及を生命溢れる国として栄えさせるには、ナイルを押さえねばならない。
「イシスに聞かせてやりたい台詞だな」
獣の冠頭衣の下で、肉感的な唇が笑う。
此処でセトの言葉を否定した所で、誰もそれを信じない。
「……埃及はお前にとって、守るに値するものか」
「は? 当たり前だろ王サマ」
「当たり前とはなんだ、セト」
「俺は埃及の王の弟だ。……アンタの兄弟だ」
伸ばされる白い手に、己の手を重ねる。
「俺がお前の兄でなかったら、違っていたと考えると恐ろしい」
「なんだよ、それ」
芽吹きの色、生命の色を纏う俺の手を、握り返す力強い手。砂の神として生まれなければ、今頃は俺よりも大きな掌であっただろうかと考える。
「そういうもしもを考えるのが、王サマの仕事って事か」
「フ……それも有るが。しかし、実現しない『もしも』に執着しては道を誤る」
「そりゃそうだ。例えば、戦で俺が負けるとか、な?」
手を解かれ、あえて不遜な態度を隠さない弟に、また俺は笑った。
「それと同じか、若しくはそれ以上に、最も好ましい『もしも』つまり『可能性』を現実のものとするために、それ以外の可能性を摘み取ることも、王の素質の内だと俺は考える」
「成る程な。敵軍をこっちに有利な地形に誘い込んだり、補給を難しくさせたりするようなもんか。……こう考えると、俺も案外埃及の王に向いてるかもな」
「フッ……そうだな。お前が治める埃及はどんな国になるだろうか」
「問題はそこだ。俺が治めるってことは、アンタが居ないってことだろ? イシスはどうだろうな」
クククと笑うセト。酒を楽しんでいるのだろう、白い肌に仄かな朱色が滲む。
「イシス無くして埃及が治められるか、か。……男とは虚しい生き物だ。女が居なければ新たな生命を作れず、生まれてくる子の父かどうかは信じるしか無いのだから」
「……オイ」
――少し、言い方を誤ったようだ。セトの声が一段低くなる。そうだ、ネフティスの腹には愛の結実が宿っているというのに、余計な口を滑らせた。
「そんな事気にして、まだ子供作ってなかったのかよ。気にしてねぇフリしてるが、イシス」
「……わかっている。今はまだその時ではないというだけだ」
「男が決めることじゃないだろ」
「二人で決めることだ」
「ねぇ、何の話しているのよ男同士で」
イシス…。美しいナイルの色を映す青い瞳。葡萄酒の盃をセトへ預け、俺は妻の肩を抱き寄せた。
「いつか、お前に俺の子を産んでほしいという話だ」
「なっ……あ……あ…」
セトよ。
「当たり前ですわ、あなた」
お前はどうしたら、俺と同じものを見てくれる。