俺がやらなきゃ誰がやる 嫌な空気というものがある。
それってどういう感じ?と前に霊幻に聞かれたことがあった。だが、国語の成績がいくら良いほうでも、形容するのは難しかった。霊幻も霊と対峙した経験があるなら知っているだろうにと思ったが、言葉で言い表せないことのほうがより印象に残っていた。
今ならそれを表現することができる。腹の底がざわつく感じ。油断できないから体が臨戦態勢に入って、すべての動きに敏感になる。とにかく一刻も早く立ち去りたいが、逃げればどこまでも追い掛けられそうだから下手に動くこともできない。原始的な恐怖。いくらか言語化出来るようになっても、身体から得られる感覚情報には追いつかない。
現場は郊外にある廃病院だった。依頼主はそこに肝試しをしに行った大学生だった。同行した友人が肝試しの最中にいなくなったのだという。警察にも相談し、友人の親も失踪届を出したが、廃病院の捜索は行われなかったと言うことで、霊とか相談所に泣きついてきた。
相談しに来た男性は、部屋に入った瞬間から黒い靄が全身を覆っていたので、相談が終わった頃に芹沢が取り除いた。そのときに覚えた嫌な予感は、どうやら当たりだったらしい。
バスに揺られて到着した廃病院の周辺は、開発もされずに寂れたシャッター街のままで、その中心地区に佇む建物の残骸がその一帯を統治する城のようにも見えた。元は総合病院で、建物の敷地は広い。四階建ての建物の窓は所々割れていて、メンテナンスもされずに風雨にさらされ続けた結果、元は白かっただろう壁は灰色に汚れていた。どこからも音が響かない上に昼間なのに夕方のように薄暗く、建物の敷地内に入ったときから感じていた危険信号は、割れた窓ガラスを踏み締めて正面入り口から中に入った途端に赤く点灯した。
「霊幻さん、気を付けてください」
ワイシャツの背中も、インナーを着ているにも関わらずびっしょりと濡れている。傘があればなあ、と弱気になって、小さく首を振った。こういうのは気力勝負だ。超能力もコントロールには強い意志が必要になる。爪にいた頃は自己暗示でどうにかしていたが、霊とか相談所に勤めるようになってそれなりの時間が経った今では、どのようにすればうまく使えるかを経験と勘で習得できていた。
うまく使うための重要なポイントは、兎にも角にも平常心でいることだ。
いつ何時も動じずに集中すること。芹沢よりも強力な力の使い手である影山はそれが頭抜けて上手かった。その彼が肉体改造部に入ってからさらに力が使いやすくなったとも言っていたので、芹沢も見習って夜中に走ったり筋トレをするようになった。
彼の言うとおり、身体の使い方が分かると力もその延長上として使いやすくなる。受験でなかなか来ることが難しくなった影山の分まで、自分が所長である霊幻を支えようという気負いもあった。どこか危なっかしい人なので。
「大丈夫だろ、しっかし警察もちゃんと捜索してやれよな」
「ちょっと!」
芹沢の警告も無視して、懐中電灯を片手に霊幻はずんずんと効果音をつけて建物の中を歩いて行く。芹沢の目から見えるのは底の見えない奈落のような暗闇でも、霊幻の持つ懐中電灯で照らされれば、ひび割れたコンクリートや打ち捨てられた車椅子など、朽ちてもなかなか風化しない一般廃棄物が転がっている、薄気味悪いが恐怖にまでは至らないような光景でしかない。
じゃり、と革靴が崩れ落ちた壁の欠片を踏みしめながら遠ざかっていく背中は、目を離せば彼の周囲に膨れ上がる靄の中に飲み込まれそうで、迂闊に瞬きも出来なくなる。心拍数が上がって、平常心でいることが困難になる。
「おーい」
方々に声を掛けている、呑気過ぎる霊幻の姿に、恐怖は徐々に怒りに変わってくる。今彼がやっていることは、ライオンの檻の中になにも持たずに入って行くようなものだと、霊能力者であるならなぜ分からないのか。
「うわっ」
棒立ちになっていた芹沢は一気に距離を縮めて、霊幻の肩を引き寄せる。
「俺から絶対に離れないでください。本当にここは危ないですから」
危ないという言葉をことさらに強調すると、離れようとした霊幻の動きが止まった。
彼の周囲に纏わりつきそうになっていた靄に手をかざし、力を飛ばして霧散させても、前が見えないほどの圧がのし掛かる。だが、腕の中にいる霊幻のお陰で恐怖は感じなかった。なるべくなら自分の身は自分で守って欲しいし、無茶はしないで欲しい。でも言っても駄目なら力づくで分からせるしかない。
「霊幻さんは俺に守られててください」
「えっ、あー……わかった、お前に任せた」
一瞬面食らった顔をして、すぐにふんぞりかえった霊幻のお墨付きに、ふん、と鼻息を鳴らして芹沢は気合を入れる。
その勇姿を大黒柱と称されるのは、もう少し後の話。