【独二】約束のない待ち合わせ「俺、ちゃんと普通に出来てたかな」
肌寒い秋風が彼の少し震えた言葉を運んできてくれたのは、もう三年も前になる。
傍に居るのが当たり前で、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、彼の笑顔ひとつでどこまでも頑張れるような気がしていたあの頃。
年齢だって一回りも違う。趣味も、交友関係も、好きな音楽も好きなテレビ番組も、何もかもが違っていた俺たちだけど、その間には確かに存在していた。恥ずかしいけれど、それは愛とか、そういう類いのものだ。
俺は彼が好きだった。三年前のあの日も、きっと心の奥底では「離れたくない」と声にならない声で叫んでいたはずだ。
しかし、俺たちが別れたのはお互いに話し合って納得して決めた別れだった。喧嘩したとか、どちらかに好きな人が出来てしまっただとか、そういう感じではなく、これ以上一緒に居ても何にもならない、と分かってしまったからだった。
彼は最後まで俺を責めなかった。別れの原因は俺にあると言っても過言ではなかったはずなのに、別れを切り出したときも「少し考えたい」と言われた次の日には「分かった」と返事をくれた。
彼のことが負担だったわけではない。会いたい、と我が儘を言われたこともないし、返信が遅いと怒られたこともない。お疲れ、頑張ってこいよ、おはよう、おやすみ。彼がくれる言葉はどれも優しくて、画面に映し出されるそれらの言葉を見て自然と微笑んでしまうくらいには支えられていた自覚がある。
それなのに俺は彼の手を離した。気持ちがまだ残っていたからこそ、それは簡単なことではなかった。
最後に会うと決めた日の前日は一睡も出来なかった。彼には嘘を吐いてしまったが、この期に及んで心配を掛けたくなかった。いつもより酷いクマを一二三に隠してもらって平然を装った。
これ以上一緒に居ても何にもならない、と思ってしまったのには理由がある。俺たちは男同士でゴールがないのだ。男女間では当たり前のようにあるのが結婚というのが今の法律では男同士には適応されない。だから俺たちは家族にはなれない。
以前ならどんなに忙しくても時間を作って会っていたのにそれを怠るようになって。仕事が忙しいことを理由に彼に寂しい思いをさせた。我慢させたって俺たちは結婚することも出来ないし、家族にもなれない。先の見えない道を永遠に歩いて行くことになる。
俺はそれが怖かった。自分に結婚願望があるとか、そういうわけではなく、どこに向かえば良いのか分からなくなっていた。
仕事に追われて生きるのに精一杯の中、彼を幸せにしたい、という気持ちがあるのにも関わらず、彼のための時間を作ろうとしなかった。あんなにも会いたくて、声が聞きたくて溜まらなかったはずなのに、心の中が空っぽになってしまっているみたいに何もなくて「もうダメだな」と思ってしまったのを今でもはっきり覚えている。
彼が最後に言った「俺、ちゃんと普通に出来てたかな」という言葉には伝えられなかった彼の気持ちがたくさん詰まっている気がして、俺は何も答えることが出来なかった。
俺もまだ彼のことが好きだったように、彼もまた俺のことを想っていてくれていたのだと分かっていながら背を向けた。涙がこぼれ落ちる瞬間を見てしまえば、今すぐにでも走り出して抱き締めてしまいそうで。
背を向けて一歩、また一歩と歩き出すと同時に今度は俺の方が泣きたくなってしまって高く澄み渡っている空を見上げながら必死に涙を堪えていた。
あれから、あのカフェには行っていなかった。別れる前まではあの雰囲気が好きでよく行っていたのだけど、どうしても彼のことを思い出してしまいそうで自然と足が遠のいていた。
しかし、去年の冬頃にたまたまあのカフェの近くを通りかかって少し悩んだ後に久し振りに入った。
雰囲気はやはり変わっていなくて見覚えのある店員もそのままだった。一番奥の席に座って、やっぱり好きだな、とぼんやり思いながら目を閉じると、彼の笑顔が脳裏に蘇る。
切ないような、寂しいような、懐かしいような、恋しいような。複雑な気持ちになりながらカップに口を付けた。
「観音坂独歩さんですよね」
「……え、はい、そうです」
その時、見覚えのある店員が申し訳なさそうに声を掛けてきた。今まで一度も声を掛けられたことはなかったので、ディビジョンラップバトルで顔や名前を知られているとはいえ、麻天狼のファンとかではなさそうだったので、少し意外に思いながらも姿勢を正した。
「このようなことを店員の立場である私が言うのは筋違いと言いますか、余計なことだと分かっていながらお伝えします。山田二郎さん……、ご存知ですよね?」
「はい……知っていますが、彼が何か……」
心臓があり得ない速度で脈打っているのが分かる。まさか店員の口から彼の名前が出てくるとは思っていなくて、先ほど飲んだ珈琲の味などとっくに忘れてしまっていた。
「十月二十三日、という日付に心当たりは?」
「……特にありません」
「そうですか。……去年も、今年も十月二十三日にいらっしゃったんです、山田二郎さんが。開店から閉店まで、ずっとあの席に座って外を眺めていました。待ち合わせですか? と聞いたら、彼は首を横に振るんですけど、ずっと誰かを待っているようでした」
「…………それを、どうして俺に」
「観音坂さんには数年前までよくご来店いただいていましたが、山田二郎さんと訪れてくださってからしばらくお見かけしなかったもので。詮索しているようで大変失礼だとは思いながらも、お声かけさせていただきました。……それでは失礼します」
店員は深々と頭を下げ、カフェの割引券を二枚だけそっとテーブルに置いて去って行ってしまった。
正直、あれから二年経っていて心の整理はもうとっくに終わっており、あれから恋人は居ないものの、充実した毎日を送っていた。やはり時々は思い出したりしていたけれど、楽しかったな、と思うくらいで、会いたいな、とかそういう感情は一切なくなってしまっていた。
だけどそんな俺とは違い、彼はそうではないのかもしれない。若いし、これから先も出会いはたくさんあって、誰からも好かれるようなタイプだからきっと大丈夫だ、とどこかで決めつけていた俺は、最後に見せた彼の表情から気持ちを察していたのにも関わらず知らない振りをしたのだ。
「…………」
まだ一口しか飲んでいない珈琲に情けない自分の顔が微かに反射する。心臓がぎゅうっと締め付けられたように苦しくて、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
あの店員が教えてくれなかったら俺はきっとこれから先も彼のことは良い思い出として胸の奥底に仕舞っていただろう。彼の気持ちを置き去りにしたまま。
しかし、今さら彼に会ったところで俺は何て言えばいい。好きだという気持ちはもうない。だから、仮にまだ好きだと言われたとしてもそれに応えることは出来ないだろう。俺がこのまま関わらなければ、いつかは彼も諦めてくれると思う。もしくは誰かが彼の手を引いてくれるだろう。あんなにも魅力的なのだから、放っておくなんてあり得ない。
ため息をひとつ吐いて、冷めて苦くなってしまった珈琲を一気に飲み干した。
そして今日、十月二十三日。
彼と最後に会ってから丁度三年になる。
今日は土曜日で仕事は休み。昨日からずっと悩んでいた。あのカフェには今年も彼が来るのだろうか。行こうか、行かない方がいいのか。どうしたらいいのか。
結局、答えは出ないまま寝てしまい「本当に来ているのか確認するだけ」と自分を誤魔化して家を出た。
カフェまでの足取りは重く、やっぱり帰ろう、と何度も足を止めた。別れた次の日に連絡先は消してしまったので、連絡を取る方法はなく、彼からも連絡は来ていない。だから、十月二十三日にあのカフェで待ってる、なんて言われていない。
あの日と同じように空は澄み渡っていて、枯れ葉が宙を舞う。カフェの窓際の席、俺たちが最後に座ったあの席に二郎くんは居た。
「……っ」
大人っぽくなっていた。スマホの色が変わっていた。背も少し伸びているかもしれない。髪型はあまり変わっていなくて、瞬きをするたびに印象的なオッドアイが輝く。
二郎くんに会うのが怖かった。俺はもう気持ちがないのに、会ったところで何にもならないから。俺たちの恋はもう三年前に終わっていて、その続きはないのだと自分に言い聞かせていた。
それなのに、動き出した。止まっていた時計の針が、また音を立てて一秒、一秒、時を刻み始めた。その秒針の音と俺の心臓の音が重なって、俺は躊躇う間もなくカフェに入った。
あの店員が俺を見て驚いた後、目配せでそのまま席に行くよう合図してくれた。二郎くんのテーブルには珈琲カップが置かれていて、その近くにはミルクと砂糖を使った後があった。
「ブラックはまだ無理か?」
俺が話しかけると二郎くんは顔を上げて目を丸くした。それから瞳が揺れて目を伏せる。俺が向かい側の席、三年前と同じ席に座ると小さな声で返事をしてくれた。
「……あと、五年はかかりそう」
「そうか」
「うん」
自分勝手なヤツだと責められても否定することは出来ない。別れた時にはまだ好きだったのに、振り返りもせず綺麗に片付けてしまった。本当はそれでよかったのかもしれない。
だけど、本当にどうしようもないけれど、カフェで俺を待っている二郎くんの姿を見て〝また好きになりたい〟と思った。
確かに俺たちにゴールはない。家族にもなれない。
だけど隣を歩いていたい。どんなテレビを観たのか、昨日は何を食べたのか、次の休みはどこへ出掛けるのか。知りたい、二郎くんのことを、あの日から今日までと、今日から先のことを、一番近くで見ていたい。
「じゃあその瞬間を見届けてもいいか?」
「……うん」
俺ではないと思った役目を、自ら名乗り出るとは思わなかった。五年後に、やっぱりまだ無理だったと言われても、それはきっといつか俺たちの間では笑い話になるだろう。
こんなことがあった、あんなことがあった、と二人でお酒でも飲みながら語り合うときに、記憶の中にはいつだって二人が傍に居て他愛のない話で笑い合うだろう。
「あのさ、俺やっぱり待ってる方が好きかも」
「なんで?」
「だって来てくれたとき、すげぇ嬉しいから。……すげぇ、嬉しいんだよ」
ポタポタと涙がテーブルに落ちてゆく。手を伸ばして頬に添わせると温かい涙が俺の指を伝ってゆく。
「あの日、何も言えなくてごめん。涙を、拭いてあげられなくてごめん。……二郎くんの気持ちをちゃんと聞いてあげられなくてごめん。本当に、君を傷付けてばかりでごめん」
「……俺は、お前に傷付けられたことなんてない。別れるのもちゃんと受け入れてたし、ここで待ってたのも自己満足というか、別に独歩が来なくても良かったんだ。俺の中で独歩への気持ちが消えるまで、ここで静かにその時を待ってたのに……なんで、なんで来るんだよ」
「来ない方がよかったか?」
「……来てくれて嬉しいって、さっき言っただろ」
「そうだったな」
そう言うと、二郎くんはこの三年間の空白を埋めるように笑った。
お会計の時に、去年もらった割引券を差し出すとあの店員はそれを受け取って「また来て下さいね」と言って新たに割引券をおつりと一緒に手渡してくれた。
カフェでしばらく話し込んでいたせいで店を出ると、すっかり夕暮れになっていて紅葉した木々が夕陽に照らされて秋色が増したように思う。
「じゃあまた来週の日曜日に」
「うん」
俺はきっと、約束の時間には間に合わないだろう。髪型はどうしよう、服は何を着ようって悩んで、結局セットした髪を崩しながら走って君の元へ向かうんだ。そうしたら君が「遅ぇよ」って言いながら笑って俺の名前を呼ぶ。
約束のない待ち合わせは、もう二度としないから。どうかこれからも、俺の隣で何があるか分からない道の先へ、一緒に歩いて行ってほしい。
「おいしい」
「本当か?」
「うん、本当に美味しい」
結局、二郎くんがミルクや砂糖無しで珈琲を美味しいと感じるようになったのはあれから随分経った後だった。あのカフェはもうないけれど、あの時の店員がオープンしたカフェに今は二人で通っている。
「俺もやっと大人になれたな」
「いやもう大人だろ、君は」
「違うんだよ、なんかこう……ブラック飲めるってすげぇカッコイイじゃん? 憧れがあったんだよ、それなりに」
「へぇ」
「興味なさそう」
「いや、可愛いなと思って」
「うるせぇよ」
他愛のないことで笑って、些細なことで喧嘩して、泣きたくなるくらいの幸せを抱えて歩いて行く。
「ごちそうさまでした」
「次からは俺もブラックでよろしく!」
店員、もとい店長に挨拶をして店を出た。
そして俺たちは同じ方向へ向かって歩き出した。
夕飯の献立を相談しながら――。