君にだけゆるされたい 生来甘えられるのは好きな方だった。
頼まれごとをされると断るよりも受けてあげる方が楽であり、感謝されることこそあれ悪く言われることはない。時折親切にしてやったのに文句をつけてくる輩がいないでもないが、この人並みはずれて大きく成長した体を見て喧嘩をふっかけてくることは稀だ。
それよりも、願望を口に出す方が夏油にとって苦手意識が強く、そのため他者との距離感を間違えることなく人生を歩んできたのだ。
一定の距離を置いて人と接することができると、余計なトラブルに巻き込まれる確率はぐんと低くなる。自慢じゃないが目立つ方であることは自覚しているため、何事にも、友人関係さえも一線を引いてきた。それが当然だと思っていたのだ。
昼間の日差しは夏のそれと変わらぬ厳しさをたたえているが、夜になると外の空気に冷たいものが混ざり始める。夕暮れ時、西陽を浴びて熱ったアスファルトが、陽が沈んだ後徐々に冷めて本来の温度を取り戻す。
過ごしやすい季節になった。呪術師の繁忙期を過ぎたこの時期は、入学してからこっち休みなく働いていたせいもあって、幾分気持ちが落ち着く時間も増えたように思う。自室でひとり、しばらく手を伸ばすことのなかった、実家から持ち出した文庫本に目を通していると、ベッドに放り出したままの携帯電話が震えた。
まだ耳馴染みのないメロディが部屋に響き渡る。先日お揃いにしようと変えたばかりの曲。少し前に流行ったラブソング。そのおかげでこの静かな時間を一変させたのは誰であるか、一瞬で理解できた。
着信のライトがチカチカと光っている。青ではなく、ライトブルーと称されたそれが一定の間隔で点灯している、それがなんだかむず痒く、隠すように端末を手に取って通話ボタンを押した。
「はい」
「おっせえよ」
耳にあてた端末から聞こえたのは同級生の声であって、いつもと違う空気を纏っているように聞こえた。拗ねたような声。しかし然程苛立ってはいない。
「たった数コールだろ、急かすなよ」
「絶対電話するっつったろ、正座して待っとけ」
電話の相手である五条は、今日からしばらく京都の実家への帰省のため東京を離れている。詳しいことは聞いていないが、実家からの呼び出しらしく、御三家からの要望とあっては高専も従うほかなかったようだ。呪霊の発生は落ち着いており、低級であれば夏油や他の術師でも十分対応ができる。多忙を理由に蹴ることもできず、渋々今朝の便で帰省したのだ。
五条家は、夏油には想像もできないような場所だった。知っていることといえば、呪術界を束ねる御三家のうちのひとつで、強大な権力を持っているという上辺のことのみだった。そのやんごとなき生まれのお坊ちゃんである五条が帰省を嫌がる理由も、なんとなく想像はつくがこちらから尋ねることはない。一般家庭出身の夏油が踏み入ることができない場所だと、この物分かりのいい頭は理解している。
「何してた?」
はいはいと五条の小言を聞き流し水を向ける。背もたれにしていたベッドへと乗り上げると、安いマットレスが軋む音がした。
「風呂とか済ませたとこ。傑は?」
「私も同じ。読書してたところだよ」
「……誰もいねえの」
「誰も私の部屋になんか来ないよ」
悟以外はね、と付け加えてみせると、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。どうやら機嫌が上向いたらしい。
「明日帰るから」
「早いね、もういいんだ?」
「知らねえけどもういい。朝一の新幹線で帰る」
そう言われて机の上に置いた時計へ視線をやると、時間は午後十一時を回ったところだった。朝一の便ならもう休んだ方がいいだろう、そう思い口を開きかけた瞬間、五条の言葉が飛んでくる。
「俺がなんでこっち来たか聞かねえの」
こちらの様子を窺うような声色は、何か後ろめたいことがあった時のものだ。それだけでなんとなく察せてしまうこの頭が我ながら恨めしい。
「大体察しはついてる。いい子だった?」
「ハア? 馬鹿にしてんのか」
「まさか、それも君のお役目だろ」
良家というものがどういうものか理解はしていないが、五条があまりに帰省を嫌がっていたことと高専を通じ無理に連れ戻していたことから、きっと見合いでもさせられるのだろうということは容易に想像できた。
五条の術式は、六眼と無下限呪術を併せ持った百年単位で現れない稀有なものであるという。それがどうやって受け継がれていくものなのか夏油は知る由もない。しかし、子孫を残し家の存続を担うことは次期当主である彼の勤めであることはよくわかっているつもりだ。
「なに、じゃあ傑は俺が女と結婚してもいいってこと?」
苛立つ声が耳へと届くと、夏油は五条に聞こえるように大きく息を吐いてみせる。
「仕方のないことだろう。君の家のことは私が口出しできることじゃない」
本心のつもりだった。心から、そう思っているはずだった。
五条が決められたレールに沿って歩むとは到底思えないが、呪術師として、そして当主としての責務を果たさなければならないことくらい夏油にだって理解できる。そしてそれを拒む権利など持ち得ないことも重々承知だ。
憎からず想っている彼が他の誰かと添い遂げることなど、想像して気持ちのいいことではないが、やめて欲しいと嘘でも口にするつもりはなかった。
「オマエそれ本気で言ってんの?」
「だから私にはそんな権利はないって言って……」
「そうやって言い訳するくらいには俺のこと好きなんだろ」
飛んできた言葉への驚きを隠すことができず、思わず端末を落としそうになり慌てて細身のそれを握り直した。まさかそんなことをこのタイミングで言われるとは思いもしていなかったため、息を吸ったと同時に咽せてしまい咳き込んだ。
「そんなに照れんなよ」
「……からかってるのか」
「いや? 本気。傑がくだらねぇこと考えてることくらいわかるっつの」
普段はデリカシーのかけらもない男だ。人としての情緒が育ちきっていないこの男は、しかし夏油の心情を汲むことにかけては人一倍敏感なところがある。だから余計な心配をかけまいと言葉にすることを避けていたのに、いつだってこうして見抜かれてしまう。
「傑、すきだよ」
「……わかってる」
「うん、すき」
オマエは? と穏やかな声で問いかけてくる五条からは、先ほどまで滲ませていた苛立ちは感じられない。こちらの狼狽えようを見て溜飲が下がったのだろう。なんだか無性に悔しい気持ちになる。
「悟と同じ気持ちだよ」
「そうじゃなくて、わかれよ」
どうやらはぐらかすことは許してもらえないらしい。夏油は観念して大きく息を吐いた。
「すきだよ、悟のこと」
改めて口にするとどうしようもなく照れ臭く、誰もいない部屋でひとり手で口元を覆って目を閉じた。それは電話の向こうの相手も同じらしく、息を呑む音と共に掠れた声ですぐる、と名を呼んでいる。
「何か不安なことがあったら真っ先に言って」
「不安なことなんてないよ」
「じゃあ、俺から離れようとすんな」
真剣な声だった。そこには余裕も揶揄する気持ちも感じられない。ただただまっすぐな言葉が、とんと胸を撃つ。
甘えてもいいのだろうか。将来、いや今でも世界を背負って立つこの男を、一時の感情で縛ってもいいのだろうかと逡巡する。五条にとって初めての友人が夏油だった。だから、友情と愛情を履き違えているのだとばかり思っていたのだ。そんな男が今、こちらを慮って真剣に諭している。不安も焦燥もすべて捨て去って全力で寄りかかってこいと言葉を紡ぐ。そのことが無性に気恥ずかしく、嬉しかった。甘えてもいいのだと腕を広げられている気持ちになる。きっと、その腕は夏油を受け止めてくれる。その確信はあった。
「さとる」
漏れ出た声は存外甘ったれた声で、それを恥じた喉がきゅうっと引き絞られる。五条は「うん」とだけ発してその先を促した。たったそれだけで背中を押されたような気になるのだから、随分この親友の存在は大きいものらしい。そんなことに今更気づくなんて。
「早く帰って抱きしめて」
生来、甘えられることの方が好きなはずだった。