「だいっきらいっ!!」
イギリスでは珍しく天気の良い昼下がりの公園。ミスタは依頼人との待ち合わせの合間に、緑に囲まれた木陰のベンチで遅めの昼食をとっていた。
草原でボールを蹴り駆け回る子どもたちの楽しそうな声が耳に入ってくる。それをBGMにしてハムたっぷりのサンドイッチを頬張っていた時、ふいに少し離れたところから大きな子どもの罵声が聞こえてきた。その声にミスタはビクッと肩を跳ねさせる。そばでおこぼれのパンくずを狙っていた鳥も、大きな音とミスタの動きに驚いて素早く離れていった。
声の正体はおそらく、よくある子ども同士の喧嘩だろう。公園にいるのだから子どもの喧嘩の一つや二つ、聞こえてくるのも仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせていやに速く跳ねる心臓を落ち着かせる。冷静になると肌に浮かんだ冷や汗が体温に馴染んでぬるくなっていく感覚に、ミスタは苦虫を噛み潰したような顔をした。
ミスタは別に子どもが嫌いな訳じゃない。そもそも嫌いなら、わざわざ子どもの多い公園に来ることもない。ではなぜ、可愛らしい子どもの罵声に対して過剰に反応したのか。原因は幼少期時代の遠い記憶にあった。
それはここではない、また別の公園での出来事。
ミスタにはシュウという兄弟がいる。2人に血縁関係はない。ミスタもシュウも施設育ちだった。そこで寝食を共にして過ごしてきたので、互いに兄弟も同然だと思っていた。
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ミスタがまだ施設に来たばかりの頃。
元々の人見知りに加えて、乳児から学生まで幅広い年齢層が揃う子どもばかりの空間に慣れていなかったミスタはいつも自室に篭ってばかりいた。唯一、食事の時だけは職員のおばさんに手を引かれて大広間に行った。それは施設の子どもたちと顔を合わせる数少ない機会だったけれど、口数の少ないミスタは一番に食べ終わるとテレビやおもちゃには見向きもせず、すぐに自室に引っ込んだ。
そんなミスタのルームメイトがシュウだった。
「やぁ、きみが新しい子?施設長から話は聞いてるよ」
「……」
「ぼくはシュウ、きみの名前は?」
返事をしないミスタに、シュウは怒らなかった。それどころかニコニコとこちらを見てくる。もしかしたら施設に来たばかりの頃は皆こうなのかもしれない。だんまりなミスタにもシュウは屈することなく話しかけてきた。どこか手慣れているような対応から、シュウが施設にいる時間の長さが垣間見えた。
ミスタは俯いていた顔をチラリと上げるとシュウの顔を黙って見つめる。不思議なアクセントだな、と思った。ミスタ自身も変わったアクセントを持っているし、そのせいで話し方が変だと揶揄われた事もある。けれど、シュウのアクセントはそんなミスタでも不思議だと感じるような、今まで聞いたことのないアクセントだった。
黙ったまま、けれど決してシュウから視線を外さないミスタにシュウは困ったように笑う。ミスタより少し年上だろうか。見た目は同年代に見えるけれど態度や言動の一つ一つが大人びて見える。ずっと口角が上がっているシュウを見て、何がそんなに楽しいのだろうかとミスタは思った。
「……おれはミスタ、ミスタ・リアス。」
「ミスタだね、よろしく!」
口数の少ないミスタにもシュウは遠慮なく話しかけた。施設のおばさんに面倒見の良さを褒められると、「お兄ちゃんだから、ぼくが色々教えてあげたいんだ」とシュウは嬉しそうに言っていた。
そうして最初は心を閉じていたミスタも、甲斐甲斐しいシュウのお世話によって徐々に素を見せるようになった。ミスタが困っていれば、助けを求める前にシュウが気づいて助けてくれる。ミスタが小さな声でお礼を言えば、幸せそうに目を細めて笑ってくれる。それはまるで、ミスタに頼られることが生き甲斐かのように。
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ある日、おばさんに外出許可を貰ったミスタは身支度を整えて玄関に向かった。この施設は土足厳禁で施設内では用意されてある室内靴で過ごす。玄関にはミスタの背では到底届きそうにないほど高い靴箱があった。1番下の端に自分の靴を入れていたミスタはその靴を取り出すと履き替えようとした。しかし、その場に座り込んだミスタはしばらく経ってもなぜか動きだそうとしない。そうして少しの間、小さな身体は玄関で固まっていた。ミスタの視線はある一点を見つめている。そこには、長い年月をかけて履き潰されたボロボロの靴が置いてあった。
子どもの成長は早い。靴なんてすぐにサイズが合わなくなる。それでもミスタはずっとサイズの合わない靴を履き続けていた。踵部分は踏み潰しすぎて跡形もなくなっている。そんな踵がはみ出すような靴を、つま先を丸め込みどう見ても足りない横幅にぎゅっぎゅっと足をねじりこんで履き続けていた。
けれどこの日、その靴がとうとう破けてしまった。まだ履ける、と足を靴の中に置くけれど、歩こうとするとすぽっと足から抜けてしまう。
「…どうしよう」
今日はどうしても外に行かないといけない日なのに。替えの靴は持っていない。この靴はたった一つの“大切な靴”なのに。ミスタの目尻にはだんだんと水滴が溜まっていく。
「ミスタ?」
背中から、ここ最近一番よく耳にしていたあの声が聞こえた。動かないミスタを不審に思って、足音はどんどん近づいてくる。
「…ぐすっ」
「!?ミスタ、どうしたのっ」
鼻をすする音に素早く反応して駆け寄ってきたシュウに顔を覗き込まれる前に、ミスタはシュウの胸の中に飛び込んだ。抱きつかれたシュウは一瞬固まって、それから我に返ってミスタの肩をトントンと優しく叩く。
「ミスタ、大丈夫なの?どこか痛い?苦しい?」
「…おれは大丈夫、だけど、靴が、っ」
「靴?」
首を傾げてミスタの足元を見ると、シュウはすぐに状況を把握した。
「ミスタ、ぼくの靴貸してあげる」
「…!!ほんと?いいの?」
「うん、もしかしたらちょっと大きいかもだけど」
当時、シュウはミスタよりも少しだけ背丈が大きかった。その為、足のサイズもほんの少しだけシュウの方が大きかった。まぁ数年後にはあっという間にミスタが追い越してしまうのだけれど。ミスタに背丈を抜かれた時のシュウのショックを受けた顔を、ミスタは昨日のことのように思い出せるのだ。
それはさておき、こうしてミスタはシュウに靴を借りて外に出ることが出来た。急ぐようにドアを開けて出ていこうとしたミスタはふと立ち止まり、閉まりかけたドアを抑えて隙間からひょこりと顔を覗かせた。
「ありがとう、シュウ!」
それが、ミスタが施設に来て初めて笑顔を見せた瞬間だった。シュウはその時のミスタの満面の笑顔を、昨日のことのように思い出せるらしい。
ミスタが出ていった後、シュウは静まり返った玄関に取り残されたボロボロの靴に視線を落とす。背丈に似合わないあの小さな足は、この靴に締め付けられてきたのだろう。それでもなお、大切に大切に使い続けられた靴が少し羨ましいと思った。
ミスタの足の爪、潰れてないかな。帰ってきたら見てあげよう。そういえば、ミスタから助けを求めてくれたのは初めてだ。泣き顔も、笑顔も、あんなに感情を顕にしたミスタを初めて見た。これからもっと、もっと見られるのだろうか。
残されたシュウは、ぽつりと小さく呟いた。
「初めてハグしたね、ぼくたち」
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小さな足には少し大きい借り物の靴を履いて、ミスタはとある建物へ向かっていた。建物の前に着くとエントランスを通り、さらに奥へと向かう。その足取りに迷いはない。
途中ですれ違った白い服を着たお姉さんが「あら、ミスタちゃん、こんにちは」と挨拶をくれた。ミスタも「こんにちは」と礼儀正しく返した。お姉さんはミスタの手にあるものを見て「綺麗ね」と微笑むと、忙しそうに去っていった。
廊下の突き当たりまで来るとトントントン、と扉を叩く。どうやらここが目的地のようだ。ノックに対して返事はかえってこない。小さな手でカラカラとスライド式のドアを横に引っ張ると部屋の中に入っていった。
「ママ、ミスタがきたよ」
部屋の奥まで進むと、シングルベッドに規則正しい呼吸で眠る女性の姿がミスタの瞳に映った。
窓際に置かれたキャビネットの上にはマリーゴールドが花瓶に飾られて置いてある。そこに客人用の椅子を寄せると椅子の上に膝立ちして、花瓶にあった花を抜いて持ってきた花を挿した。綺麗に飾れて満足気な表情を浮かべると、ベッドに向き合うように椅子に座る。女性は目を覚まさない。ミスタはそうして、暫く眠り続ける母親をずっと見つめ続けていた。
一度、看護師が点滴を替えに部屋に来た。最近はよく眠っていて、起きている時間が少なくなっていることを看護師は教えてくれた。ミスタは表情を変えずに看護師の説明を聞いた。
「……あのね、ママ」
看護師が去り暫くの沈黙の後、ミスタはぽつりと話し始める。
「施設、いいところだったよ。もっと暗くて、寂しい場所だと思ってたけど、ぼくより小さい子も大きい子もたくさんいて、みんな楽しそうなんだ。賑やかで、ママと2人で過ごしていた時よりもうるさいよ。
……だけど、ぼくは早く、ママの声が聞きたい」
静かな部屋にミスタは掠れた声でひとつひとつ言葉を落としていく。そこに返事はない。ミスタが黙れば部屋に残るのは微細な機械音だけ。ミスタは両膝に手を乗せ、ぎゅっと固く拳を握って俯いた。キッと地面を睨みつけていると、ふと足元の靴が目に入る。
今日は久しぶりに地面を心地よく歩けた。ミスタの靴は靴底に穴が空いているからよく石が入ってきて痛い思いをしていたけど、今日は一度もそんな思いをしなかった。施設から病院まで少し距離はあったけれど、全く苦じゃなかった。
お礼、言わなきゃな。施設にいるシュウのことを思い出す。ぎゅっと固く握られた拳に入っている力が、少し、緩んだ。
「……今日さ、ママがくれた靴、壊れちゃった。頑張って履こうとしたけど、もう無理だった。ごめんなさい。
……だからね、シュウが靴を貸してくれたんだ。シュウはぼくの友だ………あいつは勝手に“お兄ちゃん”って言ってる。
おれ、ママが元気になるまで施設でがんばるよ。ママががんばってるから、おれもがんばる。」
日が暮れ始め、ミスタは帰路に着いた。シュウの靴はやっぱり少し大きいけれど、ミスタが履いていた靴に比べると断然履き心地が良かった。
ドアを開けると、ドタドタと階段から降りてくる音に続いてシュウの姿が現れる。
「おかえり!おばさーん、ミスタ帰ってきたよ!」
「...ただいま」
「足どう?靴擦れしなかった?」
「え、あぁ、うん。大丈夫。靴、貸してくれてありがとう」
「...ほんとうに?ちょっと見せて」
「えっ、いや、大丈夫だって、!」
ミスタがシュウの過保護に気づくまであと数年。
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シュウは生まれて直ぐ、実親に養子に出された。その理由をシュウは知らない。なぜ産んだのか、なんて疑問は考えるだけ無駄だと早いうちに悟った。
故郷のアメリカでは施設入りではなく養子縁組が主流であり、シュウも里親に引き取られた。しかし、最初の里親の家は実子がシュウを毛嫌いして、シュウが物心つく前に養子縁組は解消された。
次に養子縁組を組んだのは子どものいない老人夫婦。人が良く、愛情を注いで育ててもらった。しかし2人ともシュウが8歳の時に他界。そうして次の里親へ、となるはずが人攫いに拐われて気が付くとシュウはイギリスにいた。運良く人身売買されそうになった所を逃げ出せたのはいいものの、見知らぬ土地に行く宛なんてなかった。
そんな時、今暮らしている施設に拾われた。それがミスタが来るちょうど1年前のこと。シュウは長い間この施設にいるわけではなかった。大人びてしまったのは童心を忘れさせるほどの過酷な環境にいたから。ミスタが違和感を持ったアクセントは、老人夫婦とのアメリカでの生活で身についたものだった。
このことは施設長だけが知っている。密入国なので誰かに知られるのは危険だと施設長は言っていた。アメリカに帰ることも提案されたが、そもそもパスポートもビザも無い。たとえ帰れたとしても、またいちから里親探しが始まるだけだ。シュウは施設長に泣きながら「ここにいさせて」と頼んだ。シュウはただ、心を許せる家族が欲しかった。
施設長はそんなシュウを受け入れた。施設の職員には施設長がそれらしい理由を伝えた。けれど、この生活をずっと続けられる訳では無いという警告もしていた。施設にいられるのは16歳まで。それまでに今後どうするのかを決めなければならないとシュウに話しながら、8歳の子には荷が重すぎる話だと同情せざるを得なかった。
顔立ちはハーフと言えば何とでも誤魔化せる。けれど、話し方は育った場所がバレる可能性がある。だから施設の外ではなるべく喋らないように。もし話すならばイギリスのアクセントで。施設の職員にも子どもたちにも、誰にも絶対に本当のことを話さないこと。シュウの子どもらしくない丁寧な話し方は本当の出生地を隠すための処世術だった。
けれど結局、偽り続けなければならないシュウは施設にいても窮屈で孤独だった。施設長の理解があるおかげでこうして衣食住に困らずに居られているのだからと、いつの間にか何かを望むことを辞めた。
そんなシュウのところへミスタはやってきた。貧しくまともな教育を受けられていないため無知で危なっかしいが、その分シュウがある程度ボロを出しても勘づかれることはないだろう。だから、もしかするとシュウが気を許せる相手になれるかもしれない。
そんな施設長の計らいで、ミスタは今まで一人部屋しか許されていなかったシュウの初めてのルームメイトになった。
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3年後。ミスタは11歳、シュウは12歳になった。
「ミスタ、外に行こう」
「えっ!行けるの!」
「うん、許可が出た」
シュウは中々外に出たがらない。出不精というらしい。でも、シュウが知らないだけで外にも楽しいことはいっぱいあるよ、たまにはゲームじゃなくておれと外で遊ぼ?というミスタの説得が通じたのか、シュウは渋々外出許可を貰いに行った。
「多分、無理だと思うけど」
そう一言残していったわりにあっさりと外出許可をもらって部屋に戻ってきたシュウは、少し驚いている様子だった。
そもそも外出許可といっても、外に出ますっていう報告みたいなものなんだから拒否されることなんてあるのか?とミスタは思っていたのだが、シュウは外に出なさすぎて外出許可がおりないことがあると思ってるんだな、とミスタなりに納得する。
そうと決まれば早く行こう、と素早く身支度を済ませてシュウの手を引き玄関へと向かう。すると廊下で施設長がシュウの名前を呼んで引き止めた。
「あー…ミスタは先行ってて」
「シュウは?」
「ぼくも行くよ。ミスタ、新しい靴買って貰ったんでしょ?靴紐の調整しないと、ね?」
「あ、そうだった、じゃあ玄関で待ってるよ」
玄関へ向かったミスタを確認すると、施設長とシュウは応接間に入っていった。3分ほど経ち、部屋から出てきたシュウは玄関のミスタと合流する。
「なに話してたの?」
「んー、ミスタの面倒しっかり見てねって」
「えっ、俺なにもやらかさないよ?」
「この前、貝殻と間違えてカタツムリ持って帰ってきて悲鳴あげてた人は誰だっけ?」
「ちがうって!カタツムリかもって思ったけど、もう殻の中に居ないと思ったんだよ」
「んはは、カタツムリは殻から出てこないんだよ」
「え、そうなの?」
「本にはそう書いてた。よし、靴は履けた?」
「ばっちり!あー楽しみだな、シュウを運動させようの旅」
「…待って、なにそれ、初めて聞いたんだけど?」
シュウは緊張していた。理由は久しぶりの外出だから、というだけではない。よりによってミスタと2人で外出だからだ。いってきまーす、と声を揃えて施設を出る。ミスタに緊張がバレないように、シュウは平常心を取り繕った。
「ミスタは公園に行きたいんだっけ?」
「そう!シュウは鬼ごっこ好き?」
「待ってミスタ、2人で鬼ごっこするつもり?」
「うん、なんで?」
「あー、…ねぇミスタ、違う遊びはどう?鬼ごっこは2人でやるとただ疲れるだけで楽しめないかも」
「いいの、シュウを運動させることが目的だもん」
「…その目的、変える気は無い?」
「えぇ、んー、まぁいいけど。シュウ、何かしたいことあんの?」
ミスタといるとつい、いつもの調子で話してしまう。イギリスに来て4年目。こっちのアクセントにもかなり慣れた。けれど、それでもまだ気を抜くと“あっち”のアクセントが出てしまう。
今回の外出の件も、シュウの努力が認められてようやく施設長から直々に許可が降りたのだ。1人での外出は何度かした事があるけれど、誰かと一緒に外出するのはどうしても会話が発生してしまうからとシュウが自ら控えていた。
「この公園ね、おれがいつも来る場所」
「……わぁ、すごいね、なにあれ」
「あれはサクラって言うらしい!東の国の木なんだって」
「詳しいね」
「へへ、前にあの木の下にいた外国人のおじいさんに教えてもらったんだ」
公園なら人が密集していないから会話を聞かれる可能性も少ない。別にイギリスにアメリカ人がいること自体は変じゃないし。施設に出入りしているところを見られたら怪しまれちゃうだけだ。
わかってる。わかってるけど。
なぜだろう。緊張で体が固まる。
ミスタが遊具の方に手を引っ張るけど、シュウは動き出せなかった。
「…ミスタ、ぼくはサクラのところで休んでもいいかな」
「来たばっかりなのに?シュウ、体調悪いの?」
「うん…少しだけ。ごめん、ミスタは遊んでて」
「大丈夫?帰る?」
「大丈夫、ちょっと休めば平気だから」
ミスタは心配そうにシュウを見つめていたが、大丈夫と言い張るシュウに折れて渋々頷いた。シュウの手を掴んでいたミスタの手がするりと滑り落ち、離れていく。遊べると期待していた分、落ち込んでいるのが目に見えてわかった。
「わかったよ、じゃあ元気になったらこっち来て。でも無理そうだったらすぐ言って、おれも一緒に帰る」
ぎゅっとシュウをハグするとミスタは遊具の方へ走っていった。その後ろ姿を見ながら、シュウは施設を出る前に施設長と話したことを思い出す。気を張っていると楽しく遊べないだろうけど、シュウのためだと施設長はいくつかの注意点を告げた。もしかしたら意外とバレないもので、考えすぎなのかもしれない。けれどやっぱり、人の多い遊具の周辺に行くのは気が引けた。
サクラの根元にあるベンチに座ると、緊張で少し呼吸が浅くなっていることに気づいた。すーっと深く息を吸い直す。春風が少し長めの髪を揺らした。風はまだ少し冷たいけれど、日差しはポカポカと暖かい。
そういえば珍しく晴れてるなぁ、と空を仰いでいるシュウのもとへコツコツと足音が近づいてきた。足音の方に目をやると、背丈の低い白髪の老人が杖をついてこちらに歩いてきていた。老人は目を細めてシュウの存在に気付くと、ゆっくりと足を止めた。
「おや、先人がいましたか」
雰囲気で何となく、さっきミスタが言っていた外国人のおじいちゃんはこの人だとわかった。服装も顔立ちもここらじゃ見ない系統だ。何より英語の発音が違う。イギリスでもアメリカでもない、独特なアクセントが明らかな異国感を漂わせている。
「こんにちは」
手短に挨拶をする。本当は話すのが怖かったけれど、ミスタがお世話になった人だから失礼な事はできないと思った。
「こんにちは、隣、失礼してもいいかな?」
「あ、はい。どうぞ。」
ベンチをつめて間隔をあけた。これまた何となくだが、彼は悪い人ではない気がするのだ。
「この木を知っているのかな?」
「…サクラと言うと、さっき弟から聞きました」
「おや、もしかしてあの坊やのお兄さんかい?」
老人の視線の先にはミスタがいる。そうだ、とシュウはこくりと頷いた。
「私はサクラの研究者であり、樹木医なんだよ」
この季節になると定期的に健康診断をしに来るらしい。木にも健康診断があるのかと驚くと、ミスタの反応とそっくりだと笑われた。
そうして少しの間、シュウは老人の興味深い話を聞いていた。穏やかな時間が流れ、いつの間にかシュウの緊張も解れていた。暫くして、その様子に気づいたミスタがこちらへ駆け寄ってきた。
「おじいさん!また会ったね」
「坊や、相変わらず元気そうだね」
「へへ、今日はシュウも一緒だから」
そう言ってこっちを見るミスタに、シュウも微笑み返す。
「シュウ、体調はどう?」
「…あー、もう少し休もうかな」
「えぇ、ほんとに大丈夫?一緒に帰る?」
「大丈夫、ミスタは遊びなよ」
「でもシュウがいなきゃ意味ないし」
「兄弟で仲が良いんだねぇ」
「……兄弟」
老人が発した言葉をミスタは何度も反芻した。シュウがおじいさんにそう言ったのだろうか。今までシュウと一緒に外に出たことがなかったので、シュウがミスタとの関係を誰かに説明することもなかった。
そっか、兄弟だもんな、おれら。
ミスタの頬が緩んでいくのをシュウは不思議そうに見ていた。
「ところで、坊やは不思議な話し方をするんだね」
「あぁ…古い方言なんだ」
えへへ、と気恥しそうにミスタが俯く。シュウとはまた違う理由で、ミスタもアクセントに関してはあまり触れて欲しくない事情がある。
「おじいさんも、変わったアクセントだよね」
「わたしはニホンという国から来たんだよ、下手な英語で申し訳ないね」
「え、下手じゃないし謝んないで。それにアクセントならおれもシュウも普通じゃないもんな」
「……え」
ミスタのその言葉を聞いた瞬間、シュウの顔からすっと表情が消えた。ミスタはシュウのアクセントがおかしいことに気づいていた。とシュウが気づいたのだ。
イギリス人じゃないとバレていたのか。あるいは、ただそういうアクセントなのだと認識したのか。
バレるのは危険な事だと施設長は言っていた。もしバレてしまえばもうミスタの傍にはいられなくなるのだろうか。そもそも一体いつから気づいてた?
「……ミスタ、ぼく帰らなきゃ」
「え、そんなに体調悪くなった?やばい?」
「ミスタはここにいて」
「なんで!一緒に帰るよ」
「お願い、1人で帰らせて」
「……なんで?」
「……言えない」
シュウの真っ青な顔にミスタは困惑していた。体調が悪いのは心配だから一緒に帰りたいのに、シュウはなぜかそれを嫌がっている。その理由も説明してくれない。
シュウも混乱していた。帰らなければ。でもミスタと一緒に帰れば途中で色々聞かれるかもしれない。ミスタはたまに核心をついたことを言う。深堀されたらきっと上手く話をかわせない。施設長に報告しなければ、とシュウは焦っていた。
今思えば、なんでもないフリで知らない顔をしていればおけば問題なかったのかもしれない。でもこの時、シュウはまだ幼かった。そしてこの手の話題には特に敏感だった。シュウの頭の中は焦りと不安で埋め尽くされていた。自分が平常心じゃないことはシュウ自身が一番よくわかっていて、だからこそ、今はミスタと一緒にいるべきではないと思った。
どんどん顔色が悪くなっていくシュウに、ミスタはますます心配を膨らませる。シュウが大変な病気だったらどうしよう。ふと頭の中によぎったのは過去に通い詰めた病室の風景。そうするともうどうしようもなく不安になって、縋るようにシュウの手を掴もうとした。
「シュウ、」
「!!やめて、触らないで!」
バシッと音を立てて、シュウの手首を掴もうとしたミスタの手は勢いよく払い除けられた。
ミスタは払われた手を庇うこともできず、宙に浮かせたまま驚いて固まっている。シュウの怒っている声を聞くのも、触れるのを拒まれたのも初めてだった。シュウの怒声が頭の中に反響して、揺れる海色の瞳から涙がぽろりと落ちる。
シュウも、自分の行動を信じられないというようにミスタを払い抜けた自身の手を見つめた。自己防衛、だったのだろうか。ほぼ反射的に行った行動に理性が入り込む隙はなく、本能的に感じた危機意識にゾワッと鳥肌が立った。そしてミスタの涙に気づくとシュウの顔も同じように崩れた。
「っ…ごめん、ミスタ……手、」
宙に飛ばされたミスタの小さな手は少しだけ赤くなっていた。それを見たシュウはハッと息を呑み、瞬きも忘れてぽろっと涙を零した。
「っ、ごめん、」
シュウは一度手をミスタの方へと伸ばし、躊躇したような顔を見せると伸ばした手を引っ込めた。そして、もう一度謝るとその場から立ち去った。ミスタは追いかけるべきか迷った。否、気持ちは追いかけたいのだが、体が震えて追いかけることを躊躇していた。
兄弟だって言ってくれて嬉しかったのに。シュウはミスタを孤独から救い出してくれた。ミスタが悲しい時はずっとそばにいてくれて、体調を崩した時には面倒を見てくれた。それなのに、シュウはミスタを頼らなかった。それどころか拒絶した。ミスタの心はぐるぐると渦巻く負の感情によって深く沈み、涙と共に下に落ちていく。
呆気に取られて黙って2人のやり取りを見ていた老人は、放心状態のミスタをベンチに座らせると優しく背中を撫でた。
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施設に帰ったシュウは、施設長の元へ直行した。
「どう、しよう、っ…ミスタに、バレた、かもっ」
激しい息切れの中それでもなお話し続けるシュウをソファに座らせた施設長は水の入ったコップを差し出した。シュウが息を整えるのを待って、施設長は急かしこそしないものの眉を顰めて説明の詳細を促す。
「ミスタ、ぼくのアクセントの違和感に気づいてたんだ」
それで?
「いつから気づいてたのかはわからないけど…でも、確かに気づいてたんだよ。ミスタってば、それを何事もないかのように話すんだ」
それはつまり、バレてないんじゃないですか?
「いや、でも……」
施設長の冷静な指摘でふと我に返る。確かにそうだ。ミスタは慌てるシュウに対して困惑していた。シュウが焦るような心当たりがないからだ。
「……でも、これからバレるかも」
「それは、いつかはバレるでしょう。逆にいつまで隠し通すつもりですか?」
「……そばにいられる限りは」
ミスタにバレたからって国に返される訳でもないのに。となぜか呆れ口調の施設長に、今度はシュウが困惑する番だった。
「誰にもバラすなって言ったのは施設長だよ」
「あの時はミスタがいませんでしたから。ミスタはきみにとって家族であり、心を許せる人なんでしょう?そもそも、私はあなたの支えになればと思ってミスタを同じ部屋にしたんですよ」
「………どうしよう、ぼくミスタの手、払っちゃった」
「今はバレたかバレてないかよりそっちの方が心配なんじゃないですか?」
「っ、いってきます!」
慌ただしく出ていくシュウを見送り、施設長はふぅ…と溜息をつく。施設長の机には黒緑のネームプレートに“オリバー・エバンス”と金の文字が光る。シュウを拾った物好きなこの施設長も、成長過程の子どもたちに振り回されるのが何だかんだ好きなのだ。
「年相応の態度が出せるようになって良かった、と思いましょうか」
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日が暮れ始め、辺りが暗くなっていく。どれだけ日中は暖かくても日が沈んでしまえば空気はひんやりと冷え込む。
くしゅんっ、とミスタはクシャミをした。冷えたベンチに座り続けているとお尻が冷たくて、ミスタはよろっと立ち上がる。
老人は少し前に帰った。ミスタが落ち着くまでずっとそばにいてくれたのだ。今度なにかお礼をしたいな。だけどまず、シュウと仲直りがしたい。体調は大丈夫なのかな。なんでいきなり距離を置かれてしまったのだろう。いくら探しても心当たりが見つからなくて、謝りたいけど、どう謝ればいいのかもわからない。
心臓がぎゅっと締め付けられる感覚がした。寒さと苦しさで両腕を体を抱え込むようにしてしゃがみこむ。もう帰らなきゃ、門限に間に合わない。だけどまたシュウに拒絶されてしまったら。そんなの、生きていけない。
ミスタの母親は1年前に亡くなった。あの状態でよく耐えた方だと医者は言っていた。母は頑張ってくれたのだという思いとシュウの存在が、今のミスタの生きる原動力だった。今ではシュウがミスタの唯一の家族。3年という年月を超えた絆が二人の間には確かにあった。そう、ミスタは思っていた。
「……っ、さむい」
そう呟くと同時に、遠くから地面を蹴る足音が近づいてきた。小さくしゃがみこんで俯いていたミスタがおそるおそる顔をあげると、向こうから走ってくるシュウの姿が目に映る。
今すぐ駆け寄って抱きつきたい。
でも、また拒絶されたらどうしよう。
ミスタの目尻にはまた涙が浮かんでいる。すると、心の中の葛藤を吹き飛ばすように、「ミスタっ!」と大きな声で名前を呼ばれた。
その声にミスタは立ち上がると一目散に駆け出す。2人の距離が縮まると、ミスタはシュウが開いた腕の中にばっと飛び込んだ。
「ごめんね、ミスタ」
「うぅ…シュウのバカぁ!」
「っ、ごめん」
「痛かったし怖かったし寂しかったし、…寒い」
「うっ、本当にごめん…。帰ろう、ミスタが風邪ひいちゃう」
「…ぐすっ、………うん、一緒に帰る、」
暗くなった街の中、地面を灯す街灯の下を歩く2人の影は固く手を繋いでいた。施設に帰ってからも暫くそのまま繋いだ手を離さなかった。
「……ほら、もう離れて、手を洗いなさい」
おかえり、と温かく出迎えてくれた施設長も、2人して目を真っ赤に腫らしているものだから、可愛さに免じてこの日の門限破りは見逃してくれた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
時は戻り、現在。
そうだ。あの日も今日みたいに珍しく気持ちの良い晴れだった。懐かしいな、と古い記憶を回顧していると、ブブーっという通知とともにメールが来る。どうも依頼人が道に迷ったらしい。これは依頼料追加だな、と立ち上がるとミスタは荷物を持って歩き出す。
あれ以来、突然聞こえる大声、特に怒声が苦手になった。シュウに拒絶された記憶が色々な条件と重なって結びついてしまうのだ。もちろん、軽くトラウマになっているなんてことは本人には内緒にしている。
さっきまで大声で喧嘩していた子どもたちの様子を窺うと、今はもうすっかり仲良く遊んでいる。子どもの喧嘩なんてそんなもんだよな。うんうん、わかるよ。子どもたちを横目にミスタは小さく微笑む。
シュウは結局、16歳でアメリカに帰った。施設は16歳で抜けなければならず、国籍がイギリスにないシュウに行き場はない。本来は施設にも入れないのだが、そこは施設長の計らいで何とかできていた。学校には行けないので、勉強は本と施設長が手配した家庭教師から教わっていた。けれど、施設から出てしまえばいくら施設長でも手は回せない。
アメリカにはシュウの国籍が残っている。問題は渡航歴だが、そこも怪しい手口や使える手口全てを使って何とかしたらしい。実のところ、ミスタは詳細を聞いていない。深く突っ込まない方が良い事情もあるのだと、あの一件で学んだのだ。
シュウはミスタにほとんど全てを話したが、関わって欲しくない危険な話はしなかった。ミスタの方も、話せない事情ってどうせ俺の為なんだろうな、と勘付くようになったので敢えて何も聞かなかった。
シュウが旅立つ日、当然彼らは別れを惜しんだ。最後の瞬間まで2人はぴたりとくっ付いて離れなかった。けれど、不思議と不安はなかった。身を引き裂くような寂しさこそあったけれど、離れているからこそ心はさらに強く結びつくような気さえした。どこにいたって彼らが兄弟であることに変わりはないのだ。
ほら、今だって。
「ミースタ」
「うぁあ゙!?…えっ、シュウ!?なんでっ」
「あはは、久しぶり〜、お迎えありがとう」
「…依頼人“Jujutsushi”って、シュウ!?」
「そうだよ。ねぇ、ミスタ、聞いて欲しい話があるんだ。ずっと言えなかった僕の話。」
こうしてまた会えるから。
かけがえのない、たった1人の“兄弟”として。
end.
ーちょい後書きー
里親に出された理由、人攫いから逃げられた理由、アメリカに帰った方法。実は全部 “呪術” に関係していたり。(ご都合呪術)