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    パンにまつわる話1

    #芸術家は2度死ぬ(ヘル)
    artistsDieTwice

    君が笑った日 ヘルムートはパンを題材に、それだけを描き、制作し続けた画家である。
     彼は、何故パンを題材にしたか自分ではあまり覚えていない。恐らく、覚える必要が無い、あるいは記憶に残らないほど些細なことがきっかけだったのだろうと思う。
     ただ、それは、パンにまつわる思い出がないということでは無い。
     これは彼が覚えている話のひとつだ。
     
     ヘルムートはその人生をほぼ戦争と共にしてきた。
     というのも、第一次世界大戦の1914年に彼は生まれたからである。
     なので、物資不足だとか、節約をするだとか、物がないという日々に追われることは当たり前で、そんな中で自分を産み落とした両親はよく自分を育てたものだと彼は思っている。
     日々の食卓には配給制度の下で手に入れたジャガイモや穀物、僅かな肉が並び、そこに野菜を少しづつ足したような料理が並ぶ。物心着く頃には、純粋な小麦、ライ麦で作られたパンというのはあまり見かけることはなく、じゃがいもの粉を混ぜたものであったり、品質はあまり良くないものが食卓に上る事が主流だった。
     そんな中、どのようにして手に入れたかは不明だが、父が朝早く、布に包んだ白いパンを持ってきた。母はやたらと喜び、その日の朝食はソーセージや目玉焼き、珈琲が並べられた。ヘルムートが未だ嘗て食べたことの無いほど豪勢なものとなった。
     ヘルムートは食卓に切り分けられ並べられた白いパンをまじまじと見つめ、両親が見ていない間にパンを懐へ忍ばせた。
     
     ヘルムートの育った村は、規模は小さくとも都市近郊にあった。
     収穫時期になればライ麦畑が黄金色を放ち、風車や水車の回る辺りからはライ麦を挽く香ばしい香りが立ち込める。煉瓦造りの数戸の家は何処とも顔見知りで、顔を合わせれば挨拶を交わす仲にある。
     そんな一軒にヘルムートと仲の良い姉のような存在の少女がいた。外を見てはいつも唇を曲げ、目を釣りあげ、鬱屈そうに軒先で頬杖を着き、道行く人や猫を眺めている、ブロンド髪の人形のような少女だった。
     
     小さな白いパンを布にくるんでヘルムートは少女に会いに来た。彼女はいつもの白い軒先で、やはり頬杖をつきながら椅子の上でぷらぷらと足を遊ばせていた。
     ヘルムートは少女に声をかけ、そっと布に包んでいたそれを見せれば、少女はぱちぱちと大きな目を瞬かせて「まあ、珍しい」と小鳥の囀るような声で呟いた。彼女は白いパンを知っているようだった。
    「どうしたのそれ」
    「父様が持ってきたのです。ひとつ如何ですか」
    「いいわよ、お昼時では無いけれど、お茶にしましょうか」
     少女はヘルムートを軒先のテーブルセットに座らせた。白いパンを抱えたまま待っていると、少女はティーポットなどをカチャカチャと運んでくる。2人分をトレイに乗せている分、危うい手つきだが、手伝いを申し出たら彼女の面子を潰してしまうと分かっていたヘルムートはそれが無事に運ばれるまで、じいっと待っていた。
    「はいこれ。あなたはなんでも飲めるから、張り合いがないわね」
    「飲めれば水と同じようなものですが、貴女の淹れたお茶は新緑の香りがします」
    「気取った言い方ね。どこで覚えてくるのかしら」
     そう言って、少女はとぽとぽとカップに茶を注ぐ。その所作は洗練されており、田舎娘と言うにはやはりどこか“甘い”気がするとヘルムートは思った。物語に出てくる少女か、はたまた詩を軽やかに奏でる吟遊詩人か。
     差し出された茶を前に、ヘルムートは白いパンを包みから出して少ないそれを2等分にして彼女が持ってきた皿に乗せる。
     少女は細い白い指でパンをちぎり、啄む。桃色の唇が白いパンにキスをして食まれていく。
    「あら、ふふ、やっぱり、小麦のパンは美味しいわね」
     温かい茶を飲んで血行が良くなったのだろう。白い頬を少し赤らめて少女は花が綻ぶように微笑んだ。
     ヘルムートが初めて見た少女の柔らかい笑顔だった。
     やはりこうして少女といる方が“甘く”て美味しい。ヘルムートは自分でもパンをちぎりながら口に含んだ。日頃の食事から感じる、少しパサついた食感と砂の味には割と辟易していたから、このような時間が度々あればいいと彼も笑みを浮かべた。
     少女もそんなヘルムートを見て、咳払いをし、「口が緩んでおりましてよ」と彼を窘めた。
     
     数日後、兵士がやってきて、彼女とその一家はやたらおおきな車に乗せられてどこかへ引っ越していってしまった。
     大人の誰も彼もが、先日まで少女の家族と一緒に同じ村で過ごしていたとは思えないほどに、とても冷たい、苦い声色で彼女らを見送った。
    「白いパンなんて、なんて贅沢なものを」
    「ええ、全く。村で過ごすことを大目に見て上げていたのに」
     どれもこれも、耳に入ってくる音や視線の全てが苦く、喉や胃を焼くような刺激物。
     胸を押えながら、ヘルムートは車に乗ろうとする少女に声をかけた。少女はヘルムートを見て、先日の笑みを浮かべた。
     “甘く”ない。ヘルムートは唇を噛んだ。
    「ねえ、あなた、私、嬉しかったわ。あれが罪だと分かっていても。あなたとのお茶、現実の時間を忘れられるから。大人になっても、きっとあなたのままでいてね。きっとよ」
     少女の服には、とある民族にのみ、国から指定された紋章が冷たく輝いていた。それをヘルムートは今でも覚えている。
     
    『パン』を描く度に、舌の上に泡沫のように淡く思い出が浮かんでは消えていく。
     そうして夢中で筆を走らせたキャンバスには、緑の布地に白いパンがあった。
     完成したそれを見てもあの頃の味はしない。ヘルムートはひとつ息を吐く。
     こうしてまた今日も彼は『パン』を制作するのだ。
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