影踏み鬼その腕はぼふ、と枕を叩いた後、枕元のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
呼応するように、俺も枕元のぬいぐるみに腕を伸ばし、抱き寄せる。
揃いのぬいぐるみだ。ただ、ネクタイの色が違う。同一のものではないんだ。俺たちと一緒で。
悠介の心は確かにざわめいていて、でもその理由と正しい感情を理解できる人間はこの場にはいなかった。たった二人の寝室で、悠介本人も感情の形を理解していなかった。悠介は持て余した感情を枕にぶつけるほかなかったし、俺は俺で考えることも、感じるものもあった。
「せーじさんと、別れるの?」
「まさか」
短いやりとりだった。俺はぼんやりと、始まりを思い出していた。
***
俺が、いや、俺たちがせーじさんと出会ったのは事務所の顔合わせが初めてだったと思う。
FRAMEとは全然一緒に仕事する機会がなかったけど、たぶん仕事とか関係なく、自然と仲良くなっていった。悠介がフットサルに誘う程度には。
初対面の印象は良かったと思う。結構前のことだから忘れちゃったけど。
ただ、俺たちをちゃんと個々の人間と認めた上で、双子であること、その特有の距離感を尊重してくれる人だと思った。そのスタンスは俺から見て、そしてきっと悠介から見ても好ましい。
だけど、それはあくまで同僚として、仲間としての距離感の話だ。
「オレ、せーじサン結構好きかも」
だから、悠介がそう言ったとき、まさかその感情が恋愛に発展するとは思っていなかった。俺も、なんて適当に返した言葉に悠介はただ笑っていた。俺と悠介が決定的に異なる感情をせーじさんに持っていることを、その時は悠介だけが知っていた。
「オレ、せーじサンと付き合うことになったから」
悠介の言葉はいつの唐突だ。なんの前触れもなく、明日のスケジュールを話ながら眠りにつくタイミングで悠介は口にした。
「は?」
「そんだけ。おやすみ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、眠れるわけないだろ」
腹筋だけで上半身を思い切り起こす。布団がばさり、とずれた。
「嘘だろ……寝るなよ……」
俺の悲鳴みたいな訴えも虚しく、答えのように帰ってくるのは寝息だった。
その夜は眠れないかと思ったけど、わりとあっけなく寝た。人間、そんなもんだ。
悠介はあまりせーじさんの話はしなかった。しないというか、普通の頻度で、315プロの仲間の話をする程度の頻度で口にする。
「そーいえばこの前、せーじサンとキスしたんだけどさ」
タイミングは唐突で、俺はそのたびに思い切り牛乳を吹き出す羽目になったりする。
ああ、そういえばこの二人、付き合ってるんだった。なんて、毎回しみじみ思ったりしてた。
そのたびに、せーじさんってこんなことするんだ、とか思ったりした。悠介を通して見るせーじさんは、なんだかせーじさんなんだけど、別の人みたいだった。
「俺、せーじさんのことあんま知らないな」
ぼそり、呟いたことがある。
「オレも」
悠介はそう笑っていた。
***
そうだ、俺がせーじさんを信頼に足る人物だと思ったきっかけが一つあった。
あれは7月。事務所で行われた合同誕生日会の時だった。
あの日は7月生まれの俺たちが主役だった。たくさんのプレゼントと、食べきれないほどのごちそう。普段から活気のある事務所はますます賑わっていた。
俺たちは喧騒の中心にいて、せーじさんはすこし離れたところでそれを見てた。俺たちのことってより、たぶん悠介を見てた。
賑わいの真ん中に悠介を置き去りにして、俺はせーじさんに近づいた。腕を引いて、少し人気のないところに連れ出した。
「どうした?享介」
せーじさんはニコニコしていた。
「悠介と付き合ってるんでしょ?」
「ああ……悠介から聞いたのか」
「隠すこと?」
「いや、相手によるな。享介には、自分の口から言っていないだけのことだ」
隠すことではない、と言う。でも、言うつもりもなかったんだな、って思った。
「……悠介が好き?」
「ああ。出なければ付き合わない」
「どーせ、悠介が無理やり押し切ったんだと思ってたんだけど」
「いや……それは事実だが、気持ちがなければ応じない」
「悠介がよかった理由は?」
俺たちは双子だから、どうしても気になってしまう。
「仮に俺がせーじさんを好きだって言ったら、迷うの?あ、仮だからね」
「はは。二人が双子だからって、そんなことはないさ」
そう細められる紫の目に、嘘はないように見える。
「悠介が好き?」
質問はこれで最後にしよう。そう決めて問いかけた。
「ああ」
「例えば?」
「んん、難しいな。例えば……ふむ。例えば、悠介も享介も七夕生まれだろう」
「うん」
「悠介が、七夕生まれだというだけで愛おしいんだ。星の川が流れる日に生まれたんだと思うだけで、心が星にふれたみたいに揺れる。だが、享介が七夕生まれだと知っていてもこうはならない……これを、自分は愛だと思う」
この言葉で、俺はせーじさんを疑うのをやめた。そっか、と言ってせーじさんの手を引いて、悠介の待つ喧噪の中へと戻っていった。
***
FRAMEとの初仕事はよく覚えている。ロッククライミングをした日のことも。
「オレが先に気が付きたかったな」
汗を拭きながら悠介がポツリと漏らした。せーじさんの足のことだとすぐにわかった。
「自分でいうのもなんだけど、アレはなかなか気が付けないと思うぞ」
「よく気が付いたな、享介」
だって、悠介を見てたから。言うべきか迷ったけど黙ってた。
「オレ、せーじサンのこと何にも知らないな」
どこかで聞いた言葉を、悠介は誰にともなく呟いた。
もしかしたら、せーじさんと悠介は似た者同士なんじゃないか、そんなことを思った。
そんなことを思ったのが数日前。悪いことが重なるように、雨の日に地面がぬかるむように、坂道を石が転がるように事態は進む。
外出から戻った悠介はなんだか不機嫌だった。不機嫌と言っても、一口に不機嫌なんじゃなくて、どこか心ここにあらずといった感じで、でもどこか苛立ってて、不機嫌なねこのしっぽみたいにあいまいな感じ。
「せーじサンって、いっつもドックタグしてるじゃん」
「え、うん」
「あれ、形見なんだって」
ぼふ、ってベッドに倒れ込んだ悠介が言った。
「それで機嫌悪いの?」
「機嫌悪くない」
「そう」
しばらく、二人とも黙ってた。
「……隠し事だったの?」
「ぜーんぜん。せーじサン言ってたよ『隠すことでない。ただ、言っていなかっただけだ』って」
どこかで聞いたセリフだ。あの7月の華やかな日を思い出す。
きっと真実なのだろう。せーじさんに隠すことなんてないんだ。ただ、何もかもを言う必要がないと心の底から思っている。
はぁー、とデカすぎる溜息が聞こえる。枕に突っ伏した悠介の顔は見えない。
「オレ、ほんとにせーじサンのこと何も知らない」
まくらのせいでくぐもった声は、いつかの言葉と同じだった。
俺はぼやりとせーじさんのことを考えていた。彼は取り残された人だった。彼は、俺の最悪のIFだった。一人きり、残されたフィールドの、耳鳴りのような喧噪を思い出していた。
不思議な感じだった。せーじさんと悠介は似た者同士だと思ってたんだけど、もしかしたらせーじさんは俺にも似てたんだ。
そして話は冒頭に戻る。ぬいぐるみを抱き合って俺たちは向き合う。離れたベッド分の距離。
「せーじさんと、別れるの?」
「まさか」
別れる理由がないよ、と悠介は言う。それもそうなのかもしれない。別に、隠し事をされているわけではないのだから。
「言ってくれてよかったじゃん。機嫌なおしなよ」
「機嫌悪くない」
ぎゅ、と握りしめられたぬいぐるみのワタが寄る。
「機嫌悪くないけどさ、オレはね、せーじサンに叱られたこと一回もないの。ドックタグのことだってさ、あんな困った顔で、悲しそうに話すくらいなら、内緒だって笑って誤魔化してくれてもよかったし、触れてはいけないものに触れたなら、怒ってくれたってよかったんだ」
ふうん、ってあいまいに返事をした俺は、そんなもんかって思って話を聞いていた。せーじさんの困った顔はイメージの中にしかなかった。
明日には悠介の機嫌も持ち直して、また悠介は特有の人懐っこさと明るさと笑顔でうまいことやるだろう。
せーじさんはきっと笑顔だし、悠介がせーじさんを怒らせるようなことをしても、困ったように笑うだけだ。
そして、きっとせーじさんは、ずっと、俺にだけ打ち明けた秘密のような恋を言わない。
七夕に生まれた人間で、せーじさんから祝福されているのは悠介だけなのに。誰も、俺もそのことを言わない。
もしも悠介が泣く日がきたら、俺がこっそり教えてあげてもいいかもしれない。