掛け違い情けねぇ話だと思う。
天大が小学校の友達と。眞大が同級生の女子と。それぞれ出かけていくのを「楽しんでこい」と見送って、家に一人取り残された。休みの日に日中一人になることなんて経験したことがないと初めて気付いて、静まり返った家に居られず外へと逃げ出すように玄関を出る。その時、後ろからついてくる足音が一つも無くて。心の奥が酷く冷たく凍りついたような感覚がしたのだ。振り向いて待てども、当然誰も居ない。誰も来ない。
そうして、送り出した事を後悔してしまった。
「……」
寝苦しい夏とはいえ、なんて夢を見てんだ。
枕元のデジタル時計を見てみるとまだ夜中の2時を回っておらず、隣では天大がぐっすり眠っていた。特に意味もないが柔らかそうな頬をつつくと、やはり触り心地がとても良い。どちらの兄とも似ていない可愛らしい寝顔に安心する。起きる前にやめて、丸っこい頭を撫でてから布団から出た。
酷い夢だった。自分でも気付いていなかった弱さを突きつけられたようで嫌な気分がする。24時間常に誰かと一緒に生きてきたわけではないってのに、あんなにも独りが怖いもんだとは思わなかった。だからといって、弟たちの幸せすら自分の勝手で願えないような酷い兄だとは気がつきたくもなかったけれど。
部屋から適当な柄シャツを手にして玄関に向かう。なんだか今この家で弟たちと一緒に居るのが申し訳なく思えてきて、どうしようもない。あれだけ独りが怖いと思ったのに一人になりたい気分だとはおかしな話だが、そうするべきだと自分を奮い立たせる。きっと暑さのせいだ。こんな夜は海辺でも散歩すれば落ち着く。そう、思いたかった。
素足で靴を履くのが面倒で、親父のサンダルに足を突っ込んでいた時。後ろ、というか出てきたばかりの寝室からバタバタうるせぇ足音がする。見つかる前に出ていってもよかったが、それはそれで面倒なことになりそうな気がして玄関で待った。
「よし兄!」
「バカ、うるせぇな。天大が起きるだろうが」
「どこ行くんだよ……!」
「散歩」
予想通りというか、足音で完全に判別がつくというか、起きてきたのは眞大だった。何をそんなに慌ててんのかは知らないが、寝起きにしては随分威勢がいい。俺を探して追っかけて来たんだろう、と当然のように思って、そんな自分をぶん殴りたくなった。そういうところが、あの弱さを生み出してるんじゃねぇのか。
「俺も行く」
「……さっさと準備してこい。そんな寝巻きのまま出る気か」
「よし兄だって下は寝巻きじゃねぇか!」
「俺はジャージだからいいんだよ。置いてくぞ」
どうせ寝てろと言ったって聞かない。未成年が出歩くには褒められた時間帯じゃないが、正直俺らには今更だろう。天大はしっかり寝かしといてやりたいものの、もう中学生にもなる眞大のそんな世話まで焼きたくはなかった。
急いで自分の部屋に走った眞大は、どこからお下がりで貰ってきたのか分からないやたらとファンシーな柄の寝巻きから着替え、動きやすい半パンとTシャツ姿で戻ってきた。俺が言えたことじゃないだろうが、改めて見るとコイツ、体格といい出立ちといいとても中学生には見えないな。夜中に連れ回しても罪悪感が湧かないのは良いんだか悪いんだか分からない。
「ん」
「用意できたか。じゃ行くぞ」
前を歩くと、眞大は後ろをついてくる。いつもの配置だ。天大がいる時はどうあがいても身長が違いすぎるから歩幅なんかにも気をやっているが、コイツと二人ならそれほど気遣う必要もねぇ。時々ついて来れてるか確認してやればいい。自分のペースで歩けば海にはすぐに辿り着き、比較的涼しい風が吹いていた。
「急に散歩なんてどうしたんだよ」
「別に意味なんてない。飽きたら帰るから、眠たかったら帰って寝てろ」
「こんなんどうってことねぇ」
何を言ってやがる、夜は天大に負けないくらいすぐ眠くなって、朝はきっぱり決まった時間に起きる健康優良児が。足を止めると隣に並んできた顔は予想通り既にぼんやりしていた。中坊もまだまだガキだな。それに安堵する自分が気持ち悪いが。
「よし兄さ、島を出る気ってあるか」
「……どうした、いきなり」
波の音だけが聞こえる砂浜を歩く。脈略もなく話を切り出してきた眞大の表情は暗く、月明かりしかない暗がりのせいか変に大人びていて、胸の奥がズンと重くなった気がした。冷たい風が底まで吹き込んでくるようで、素っ気ない返事だけ返して前を向く。
以降返事はない。いつしか並んで歩いていた眞大が半歩遅れだしたのは、俺の歩幅が大きくなったせいか。それともコイツの足が重くなったからなのかは、俺には判断がつかなかった。
「大学に行くかは今考えてる途中だ。三人兄弟全員が大学まで行く金を捻出するのは結構厳しいだろうから、少しでも早く働きたいのもある」
「よし兄頭良いのに」
「だから考えてるとこだって言ってんだろ。どっちにしろ島には戻ってくるけどな」
「……そうか」
「一応、長男の自覚はある。家は守りたい。お前らが帰ってこれる確かな場所を守るのも、俺の義務だろ」
そう、いつかは絶対に眞大も天大も巣立つ時が来るのだ。俺からも、この家からも、島からも出ていくかもしれない。その背中を押せないでどうする。
自分を戒めながら口にした言葉は、本心でもあった。何かがあってもこの島に、家に帰ってきても良いのだと眞大にも天大にも知っていて欲しい。その場所を守り続けたい。俺にだって、本土やもしかしたら海外にまで足を伸ばせば可能性は無限に広がるのかもしれない。それでも弟たちの為ならば、この小さな島に骨を埋める事だって厭わないんだ。
「……」
ああ、でも、やっぱり情けないガキみたいだ。こんな弱いところ、誰にも吐露する事はできないのに。独り誰かが帰ってくる時を待つのが、そんな未来が……寂しい、だなんて。
早く大人になりたい。くだらねぇ今の大人と正面きって真っ向から戦えるように。でも今が終わって欲しくはない。この幸せな三人での時間が惜しくてたまらない。大人になって欲しくはない。ずっと後ろをついてきて欲しいだなんて願っても、叶うはずがないと分かっているのに。
なんて我が儘で醜いんだと自嘲した。ふと、ちゃんとついてきているかが気になって振り返ると眞大は数歩遅れたところに立ち尽くしている。様子がおかしかった。
「眞大?」
「……ここじゃ嫌って言ったらどうすんだよ」
第一声から泣いているんだと分かる。引き返すとボロボロ涙を流しながら鼻を啜っていて、俺が近寄るやいなや腕や手で強引に濡れた顔を擦るように拭っていた。絶対に後で悪化すると思いながら、口には出さずに手首を掴んで制止する。泣きっ面はぐちゃぐちゃでとにかく酷いもんだった。
「理由も話さず泣いてんじゃねぇ。ガキじゃあるまいし」
「ううぅ……」
怒って泣き止むかとわざと地雷を踏んづけてみたが、効果なし。むしろ俺が虐めてるみたいになって気分が悪い。仕方なく背中を撫でてやると、勢いよく突っ込んできた眞大が腹に命中して遅すぎる後悔をした。
「ゔっ」
「よしにいぃ……」
「おい、苦しい」
ぐずるにしては図体がデカくてみっともねぇ。兄貴に抱きついて泣いてるなんざ、お前が目指す男らしさとは程遠いぞ。そう言って腕力で無理やり引き剥がそうと思えば簡単にできたが、こんなんでも可愛い弟が泣いていると思うとやっぱり鬼にはなれなかった。俺もコイツも一体何がしたいんだか分からなくなる。とにかく背中を撫で続けて落ち着いてくれるのを待った。案外すぐに名を呼んできたから、大丈夫だろう。
「……よし兄」
「おう、なんだ。やっと俺のシャツで涙と鼻水拭くのやめる気になったか」
「……夢、見たんだ。怖かった」
ドキリとした。顔も強張ってしまいしくじったと思うが、眞大は俺の胸に顔を埋めているおかげでこちらの様子には気付いていない。取り繕える自信がなくて頭をさらに引き寄せると、腕が腰から背中に回ってきて強く握られた。
こんな、同じタイミングで夢に苛まれる事があるか?俺のあの酷い夢と情けない姿を覗き見られたのかと、あり得ない考えがよぎり肝が冷える。しかしだとすればこうして俺に甘えに来やしないだろう。軽蔑されてもおかしくないあんな有様を見たなら追っても来ないはずだ。
「よし兄が嫁さんと島出てく夢」
「……あぁ?嫁さん?」
「皆祝ってた。俺も、お祝いしなきゃいけなかったのに……俺、嫌だったんだ……。よし兄が取られるの、嫌だったんだ……」
俺、最低だ。聞いたこともない声で最後にそう呟いた眞大は、息が詰まるくらいに力強く抱きついてくる。流れ落ちた冷や汗は、呼吸のし辛さによるものだと自分に言い聞かせた。
「……俺、よし兄の隣に行きたい」
「こればいいだろ」
「追いつけねぇよ!よし兄の背、デッケェから……。早く行かないと、誰かに取られちまうのに。そんなの嫌だ……」
心臓がうるさく鳴っているのが苛立たしい。どうか眞大には聞こえていないよう願うが、位置的に叶わないだろう。乱れた息を整える暇もなく、さらに腕に力を込められて胸が痛くなった。痛い。苦しい。愛おしい。
庇護欲とも支配欲とも取れる危険な何かが顔をのぞかせている。出てくるなと抑え込むのに必死で、俺とは似つかない赤い髪を掻き抱く手にも震えが伝わった。これじゃ、もはや依存症か中毒者だ。やめたいのに、離したいのに、追いかけてくるのを待ってしまう。このままでは本当にダメになる。
「……離せ、まひろ」
辛うじて拒否の意を告げた途端、目眩がして視界が揺れた。手足の力が抜けてしまうのを止められずに半ば寄りかかるように倒れていくと、
腰を下ろしたところで上体を砂浜に押し倒される。思考が追いつかない。目の前いっぱいに眞大と星空が広がり、なんてドラマチックな光景だろうと場違いな感想を抱く。
「全部俺にくれよ」
その瞳の熱に気が付かない程、鈍感じゃない。意味が分かってしまった瞬間、夢で見た感覚がフラッシュバックしたように全身と心が凍りついた。さっきまで腕の中で泣いていた弟が、一人の男に見えたのだ。
一瞬にして、追われていたはずが置いていかれたような。俺ですら知らない何かを持っているような、それがいやに恐ろしかった。うまく逃げ出せない。こんな姿は見られたくないのに。
「よし兄」
「やれ、ない……退け」
「嫌だ」
低く絞り出した声もいとも簡単に切り捨てられ、迫ってくる顔に身構えた。暴かれたくないものを覆い隠そうにも、容赦なく剥ぎ取ろうとしてくる。物理的に止めようと握った拳も押さえつけられ、本格的に身動きがとれなくなっていた。
お前はいつかどこかへ行くんだ。俺の全てを与えてやってしまったら、独りになった俺は空っぽのまま苦しむ他なくなるだろうが。それとも、全てをやればお前はずっと俺を追っていてくれるのか。その勘違いを利用すれば、ずっと一緒にいてくれるのか。そんな事が許されるわけがねぇ。何から許されたとしても、俺が許せねぇんだ。
間近に来た赤い瞳が怖くて目を瞑る。精一杯顔を逸らすと口の中に砂が入った気がした。頼むからこれ以上良からぬ希望をチラつかせないでくれ。負けそうになる。
「……よし兄は俺が嫌いなんだな」
悲しそうな声に顔を上げると、眞大は笑っていた。
最悪な夢を見た。
よし兄が結婚して島を出てくんだと嬉しそうに言っていた。隣にはちっちゃい可愛い嫁さんがいて、並んで歩いていく姿に皆が手を叩いて祝福を送っている。皆が、何よりよし兄が選んだ人なら悪い人なわけがなく、多分良い家族になるんだろうなと思った。
そう思ったと同時に夢の中で俺は走り出していて、よし兄の背に必死で手を伸ばしていた。いつもと同じ光景のように見えたが、グッと距離を離されたように感じて吐きそうになる。一度も止まらず、一度も振り向いてくれないまま、隣の人と歩いていく背が遠い。「嫌だ」と叫ぶ自分がいた。それにもよし兄は手を振って進んでくだけで。
そうして、遅かったんだと後悔した。
僅かな物音に起こされて夢の世界から脱出する。眠りが浅い体質にこれほど感謝したのは初めてだ。夢で良かった。本当に安心した。最低な事をしていた自分を棚に上げて、最悪な夢だったと汗を拭う。
異常なまでの執着心を実の兄に向けている事は自覚していた。
憧れは目標になり、目標は願望に転じ、気がつけばさらに酷い欲になっていたんだと思う。あの存在の一番近くで歩むのはずっと俺でありたい。届かなくても、それだけは譲れない。だから追いかけ続けているのに。自分でも考えつかなかった存在を自分の夢から突きつけられたようで、気持ちが悪かった。
それからその姿を探しても川の字に並んで眠る布団の中には見つからず、とんでもなく焦った。天大を起こさないように飛び起きて玄関に向かうと、呆れた様子で待っていたからビックリする。「散歩に行く」と言ってそのまま夢のように手の届かないところに行ってしまうんじゃないかと、ありえない想像をして怖くなった。本当にガキみたいだと思う。置いてかれるのが怖いだなんて、幼い天大とほとんど変わりない。
「俺も行く」
「……さっさと準備してこい。そんな寝巻きのまま出る気か」
寝てろと突っ返されなかったのが嬉しかった。いつもより早足じゃなきゃついていけないのも。比べるのも変な話だと思うが、それこそ天大より、くら兄より、認められている気分になれる。
それに、やっぱりよし兄は優しい兄ちゃんなんだな、と温かな気持ちになれた。ちゃんと振り返ってくれるし、時々止まって俺が並びかけるのを待ってくれる。だからこそ、夢の中のよし兄が俺よりも誰かを優先して歩いていってしまったのが恐ろしくてならなかった。
彼女とか、いるのかな。男兄弟ということもあって普段そんな話にはならない。こんなに強くて優しくてカッコいいよし兄が女子にモテないわけがないし、俺の同級生ですら「お兄さんに渡して」と手紙を渡された事は数えきれない程ある。気まずくて一度もそれをちゃんと渡した事は無かったが、今思えば、そんな関係になられたら困ると無意識に拒否反応が出ていたんだろう。
「よし兄さ、島を出る気ってあるか」
「……どうした、いきなり」
随分と迷ってから投げかけた問いは結局、直接関係のなさそうなところで落ち着いた。もちろんよし兄の進路についても興味があるのは本当だし、物理的に距離ができるならそれも嫌な未来の一つだ。
「どっちにしろ島には戻ってくるけどな。……一応、長男の自覚はある。家は守りたい。お前らが帰ってこれる確かな場所を守るのも、俺の義務だろ」
お金の事やうちの事、俺たちの事までよし兄は考えていた。流石だと思う。とてもじゃないが俺に同じ回答はできないだろうし、俺がよし兄の歳になってもこんなに色々考えることができるか自信は無い。そして何より、ここに居てくれるという言葉が聞けて良かった。
「なぁ……っ?」
しかし、どうだろう。盗み見たよし兄は険しい表情をしていた。嫌な大人を相手に戦う時のような顔だ。そうさせているのは誰だ?……もし、俺たちだったら。俺たちがよし兄の枷になっているんだったらどうしよう。そしてあの夢のように俺たちよりも優先する嫁さんが現れて、その人がここから出たいと言ったら。
気がつくと足が止まっていた。息苦しくて、よし兄に呼ばれても自分が何か言っているのか黙ったままなのか分からない。戻ってきてくれる優しさが今は痛くて、涙を拭いてなんとか立ち直ろうにも腕を掴まれて邪魔をされた。
「理由も話さず泣いてんじゃねぇ。ガキじゃあるまいし」
反論できない。こんなのガキそのものだ。口調は厳しいけれど俺を見るよし兄の顔は優しく、心配そうに大きな手が背中を撫でる。とにかくそれが心地良いのが辛くて、胸に飛び込むとよろめきながらもしっかりと受け止められた。
そのまましばらく抱きつきながら泣く。久々だが、幼い頃もこうして泣きついた事があった。その度に守ってくれるよし兄が頼もしく、同時に遥か遠い存在にも見えていたのだ。あの頃から、何も変わっていない。
「……よし兄」
「おう、なんだ。やっと俺のシャツで涙と鼻水拭くのやめる気になったか」
涙が止まって落ち着いてくると、もう心が決まっていた。まだガキだと認めて打ち明けよう。ヤケになっていると言われればその通りだが、実際俺だけで考えてもどうしようもない。優しいよし兄なら、まだ軽蔑せずに聞いてくれるはずだ。吐き出して、楽になるなら吐き出したかった。
「……夢、見たんだ。怖かった」
本当にガキくさい、情けねぇ話だと思うけど。顔は見れずに胸の中で話し出すと、よし兄は宥めるように大きな体に引き寄せてくれた。鼓動の音が聞こえてとても安心する。
「よし兄が嫁さんと島出てく夢」
「……あぁ?嫁さん?」
「皆祝ってた。俺も、お祝いしなきゃいけなかったのに……俺、嫌だったんだ……。よし兄が取られるの、嫌だったんだ……」
俺、最低だ。分かっているのにそれでも嫌なんだ。取られたくない、離したくない。俺の兄ちゃんなんだ。俺のなんだ。
どこまで口から出たのかも曖昧だったが、縋る思いで腕に力を込める。優しいよし兄が振り払うはずも無いと甘えながらも、絶対に引き離されないようにくっついた。
「……俺、よし兄の隣に行きたい」
「こればいいだろ」
「追いつけねぇよ!よし兄の背、デッケェから……。早く行かないと、誰かに取られちまうのに。そんなの嫌だ……」
このままじゃ、いつまで経っても追いつけない。
そう焦る俺をふと現実に戻したのは、ドクドクと速く聞こえる心臓の音だった。俺と同じくらいの速度で鳴るそれは、間違いなくよし兄のもの。もっと聞きたくてすり寄ると、いっそう速く強くなった気がした。
何故だろう。理由がわからない。頭に添えられている手は撫でるには不自然な動きで震えている。吸い込む息が変な音を鳴らし、吐き出す息は細く揺れて、何か異常事態が起こっているのだと気が付いた。心配になって少しだけ顔を上げて上目で見上げる。
「!」
そこには見たこともない不安そうな顔をしたよし兄がいた。苦しそうに眉をひそめながら、海しか広がっていない一点を見つめている姿は不安定で、何かに潰される寸前のように感じる。
どれだけ酷い逆境を前にしても、強く気高かった男がだ。
「……離せ、まひろ」
弱々しい声に、ゾワリと心の底を撫でられた。
一瞬立ちくらんだ体を引き寄せ、そのままぶっ倒れないように座らせる。自分よりずっと大きい体が全てされるがままで、ゆっくり押し倒すのも咎められない。気がつけばよし兄は俺に組み敷かれていて、不自然にボンヤリと見上げてくる目と目があった。
どうしよう。未知の感覚で頭が爆発しそうなくらい気持ちが良い。知っている言葉の中で言い表すなら……これが、優越感なのか。よし兄のこんな姿、こんな顔、他の誰に晒しただろう?俺だけだ。絶対に俺だけのものだ。これまでは……これからは?これからも、に決まってんだろ。
「全部俺にくれよ」
今なら届くと確信した。それどころか、捕まえて剥ぎ取って全てを暴けると。怯えた目すら愛おしくて名を呼ぶと、よし兄は俺によし兄をくれないんだと言う。でも、それが心からの本音だとは思えなかった。
正直に「嫌だ」と答えると手に力が入ったのが視界に入り、すんでのところで押さえつけることができた。いつもより容易く封じることができる。俺の方が何にしても優位にいる。それに自分でも怖いくらい興奮した。
もっとよく見たくて顔を近付けると、よし兄は強く目を閉じて顔を逸らしてしまう。砂に顔面を擦り付けるのも構わないくらいひたすら逃げて、そんなにビクビク震えられるとちょっと傷ついた。別に虐めたいわけじゃないんだ。
「……よし兄は俺が嫌いなんだな」
悲愴感でいっぱいの声をかけると、思わずといった様子で顔を上げてくれる。自分の方が泣きそうな目をしているのに、本当にどこまでいっても俺の兄として居ようとしてくれるんだな。苦しそうなのも、俺を思ってくれているからなのかもしれない。
その優しさを利用するようで本当にごめん。でもよし兄ならそうしてくれると思ってた。
「でも俺は好き」
自分でも驚くくらいの甘ったるい声。笑いかけながら手を合わせて握り、細めた目を合わせる。返事を促すように軽く小首を傾げると、指がそろそろと絡まってきた。
何かが潰されて、崩れて、無くなるような。違う、何かを諦めるような。よし兄は口元を薄く歪ませて穏やかに微笑み、眠るように目を閉じる。
ファーストキスはジャリ、と海の味がした。