マリンスノーのゆくえローには、昔の記憶がある。
それは幼い頃の記憶という意味ではなく、はるか遠く、現世で生まれる前の世界の記憶。
前世と呼べるそこは現世よりもはるかに厳しい弱肉強食の世界であり、ローはそこで数奇な運命に翻弄され、ときに世界を翻弄しながら大海原を生きていた。
ローがこの記憶を思い出したのは、両親と妹を不慮の事故で亡くした直後だった。愛する家族を失った直後に雪崩れ込んだ膨大な記憶に、ローは絶叫した。
喪失感と深い悲しみ、絶望に飲み込まれ、呼応するように記憶の本流に飲み込まれたローを救ったのは、前世での恩人でもあるコラさんこと、ロシナンテ・ドフラミンゴだった。
父の知人だったという彼にはもちろん前世の記憶などなかったが、天涯孤独となったローを引取り、家族としてその深い愛情を注ぎ続けてくれた。
彼がいてくれたからこそ、ローは発狂せず過去を含めた今の自分を受け入れることが出来た。
やがて父と同じ道に進むべく大学の医学部に進んだローは、都会で一人暮らしをすることになった。
しかし、運命とは本当に数奇なものだ。
「それじゃあ頼んだわよ、ロー」
「…………」
養父ロシナンテの叔母だと名乗る女に連れられて現れたのは、ローの腰にも届かないほどの背の少年。かつてを思い出させる麦わら帽子を握りしめ、何かを堪えるように唇を噛み締めている姿は、とてもじゃないがかつて海賊王として名をはせた自由な男とは思えないほど幼かった。
「麦、わら屋?」
衝撃のあまり硬直していたローが我に返ったときは、ルフィを連れてきた女は既に帰ってしまっていた。目の前に残されたのは、大きめのリュックを背負った子供が一人。
酷い衝撃を受けていようと、優秀なローの脳には女が言った言葉が確かに残っていた。
『麦わらのルフィ』ことモンキー・D・ルフィは両親を事故で失い、天涯孤独の身となった。彼は遺産目当ての親戚にたらい回しにされてきたらしい。そして、ありったけの遺産を奪いつくしたそいつらは、残った子供を用済みと言わんばかりに放りだした。その放り出し先に選ばれたのが、遠い親戚だという女の甥ロシナンテ、の養い子であるローという訳だ。
『あんたも、引き取ってもらった恩返しくらいしたらどうだい』
最後に女が吐いた言葉に深いため息が出る。
一生かけて恩返しするとしたら、それはコラさんただ一人でいい。今日初めて会った、本物かも分からない叔母という女の戯言をきいてやる義理はないのだが、相手がルフィであると少し違ってくる。
そっと下を見ると、深く麦わら帽子を被ってうつ向く子供がいる。
深く被った麦わら帽子の縁を握り、口元をきゅっと噛み締める姿は、どこか所在なさげでローには強い違和感があった。
思えば、彼は一人でいるというのが似合わない男だった。
いつだって仲間に、家族に、兄弟に囲まれていたはずだ。
しかし今、彼の傍にはかつての兄たちも、祖父である屈強な海兵も、愉快な仲間たちもいない。
「おまえ、だれだ」
子ども特有の少し高い声が飛んできた。
未だ寄る辺のように麦わら帽子を握りしめながら、ローを真っすぐ見つめる瞳は懐かしい意志の強さを持っている。しかし、淵いっぱいに溜まった水を零さないように必死に堪えている瞳は今にも決壊しそうに揺れている。
一瞬もしかしたらと期待したが、誰だという問いかけにそれは空振りに終わった。
「……今日からお前の保護者になった。適当な施設に行くのとうちに来るのと、お前はどっちがいい」
ついぶっきらぼうなった声音は、どう接するべきかというローの迷いの現れだ。
それでも、与えた選択肢を聞いてルフィはきゅっと唇を噛み締めながらもローのスボンの裾を掴んだ。それがルフィの答えだ。
「分かった」
麦わら帽子越しに頭に触れながら、ローは随分と小さくなってしまった男の姿にため息をついた。