Nightfallその日、もう間もなく行われるワールドチャンピオンシップスの公式戦を控えたアイリスは、ポケモンたちの調整のため訓練場へ訪れていた。
イッシュチャンピオンとしての責務を果たす傍ら、己も更なるトレーナーとしての躍進のため、日々切磋琢磨することは止められない。相棒であるオノノクスをボールから出して調子を見ていると、不意に世界が揺れた。
「っ!?」
音を無くしたような一瞬の静寂の後、まるで世界そのものが揺れたかのような激しい衝撃がアイリスを襲った。叩きつけるかのように襲い掛かってきた空気に、息が詰まる。
同時に感じるのは、激しい怒りと悲しみ、それ以上に焦りともとれる絶望の色。全てがない混ぜになって届いたそれは、まごう事なき悲鳴だった。
思わず両手で身を庇うように抱きしめたが、その場に座り込むような無様は晒さず奥歯を噛みしめて耐えきった。一度目の衝撃を耐えると、その後も断続的に襲い抱る衝撃に対してほんの僅かに考える余裕が生まれる。
これは悲鳴だ。それもドラゴンポケモンの悲鳴。
世界を揺るがすほどの慟哭を生むポケモンはそう多くない。
「誰なの⁉ 一体なにがあったのっ」
左手を己の前に翳し意識を集中させる。
しかし、もはや集中する必要がないほど、そのポケモンの思念は断続的にアイリスに救いを訴え続けていた。恐らく、特定の相手に向けているわけではないのだろうが、竜の巫女であるアイリスはそれを拾いあげることができる。しかし、周囲にまき散らすばかりの思念では、ノイズかかかって受け取りにくい。
誰か!!
た…けて、……こ、ま…では、サト…が死んでしまう!!
最後には認めたくないというポケモンの想いがこもった激しい思念が叩きつけられた。
アイリスの脳裏には、薄暗い空間に倒れ伏す、血まみれのサトシの姿が見え、息を呑んだ。これが今このポケモンが目の当たりにしている光景なのだろう。
一瞬の光景だったが、ざっと体から血の気が引いたのが分かった
ぴくりとも動かない体、伏せられているせいで顔は見えなかった。
「そんな、サトシッ……」
アイリスの口からも悲鳴のようにサトシの名が漏れた。
しかし、いくらここから彼の名を呼んだって聞こえるわけではない。
アイリスは奥歯を噛み占めると、掲げた左手に意識を集中した。ポケモンからの意識はいまだ断続的に襲ってくるが、その思念に邪魔されてこちらからの思念が伝わりにくい。
アイリスは集中して相手のドラゴンポケモンの思念に波長を合わせるように必死に呼びかけた。
「お願い、どうか落ち着いて。今、貴方たちはどこにいるの?」
場所がわからなければ、助けにもいけない。
大切な仲間の重症な姿はアイリスに少なくない動揺を与えたが、その仲間を救うためにはまず自分の心を落ち着かせなければならない。アイリスは努めて深くゆっくり呼吸すると、必死に相手のポケモンに呼びかけ続けた。
やがて、吹き荒れていた思念の嵐がわずかに落ち着きをみせると、訓練場の入口の窓ガラスが大きく波打った。
(あそこ……)
見るからに怪しい、暗く不気味な穴が開いている雰囲気だったが、激しい慟哭はここから感じられるのだ。アイリスは急ぎポケモンたちをボールに収めると、躊躇うことなく波紋の先に飛び込んだ。
「ここは……」
飛び込んだ先は、見たこともない不思議な世界だった。
上にも下にも伸びた柱のような島があちらこちらにあって天地が分からない。建物は縦に長く、ときおり水玉のようなものや、黒い雲のようなものが浮かんでいる。
しかし、なんとなくここがどこなのかは分かっていた。
サトシから話には聞いたことがあった。シンオウ地方の創世神話に出てくる伝説のポケモン、ギラティナの支配する反転世界だ。
(ここにいるってことは、あの悲鳴はギラティナのもの)
反転世界はギラティナの支配する世界であり、この世界に住むのはギラティナだけだと聞いている。
(サトシはどこっ!)
初めての世界に戸惑いながらも、サトシを探す。しかし、反転世界は歩く地面すらねじ曲がっており、登っていると思ったら次の瞬間には下っていたりと、平衡感覚が可笑しくなりそうだ。
この世界に飛び込んだはいいがサトシの姿を見つけられず、アイリスは焦りと共に辺りを見渡した。
ギラティナの思念は未だに興奮状態で、それは時間がたつにつれて絶望が強い怒りに変わっている様子だった。大切な人を傷つけられたことに、酷く怒っているのだ。それに呼応するかのように、反転世界全体が揺れているようだった。
意識を集中させ、なんとかギラティナの本体の居場所を見つけたアイリスは、そこに向けて駆けだした。途中、重力の違いに足をとられながらも辿り着くと、少し広めの浮島にサトシが倒れ伏しているのが見えた。
「サトシっ!!」
思わず悲鳴のような声があがる。
すると、浮島の頭上に大きな影がおちた。
「っ!」
振り仰ぐと、巨大なポケモンがアイリスを見下ろしていた。怒りで真っ赤に染まった瞳がらんらんと輝いている。その荘厳な姿に気圧され、アイリスのに額に冷や汗が流れた。
「お願い、サトシを」
「ギュギャアアアアアアア!!!」
「っ、」
アイリスが話しかけようと動いた瞬間、至近距離から激しく威嚇された。
叩きつけられるのは、近寄るなという怒りの籠った警告。
今この瞬間、アイリスが襲われることなく立っていられるのは、ギラティナがサトシに余波
による負担を与えたくないからだろう。しかし、サトシに近づこうものなら、その瞬間にギラティナは一切の迷いなくにアイリスに攻撃してくるのが分かる。ギラティナはサトシを守っているのだ。
どうにか落ち着かせて説得するのが一番安全だが、そんな時間はなかった。遠目にだってわかるおびただしい血の量。どれだけ深い傷を負っているのか、近くにピカチュウがいないことも気になる。事は一刻を争うのだ。
「カイリュー! お願い!」
アイリスはモンスターボールを投げると、出てきたカイリューの背に飛び乗った。
「ギャオオオオオオオオ!」
途端にギラティナが怒りの咆哮と共に突っ込んでくる。
巨体に似合わない素早さにギリギリのところで回避すると、カイリューはすれ違うように一気にサトシの方へ飛んだ。しかし、尻尾が薙ぎ払うように振られ、慌てて上昇回避する。背後から追いかけるように飛んできたシャドーボールをかえんほうしゃで受けると、爆発の衝撃波で体が揺れる。必死にカイリューの背にしがみつくアイリスを更にりゅうのいぶきが襲ってきたため、とっさにれいとうビームで迎えうった。技がぶつかり合うたびに、激しい余波が飛ぶ。近くを漂っていた水玉がいくつか割れた。
「下にはサトシがいるわ、上に弾いて!」
サトシに余波を向けないようにと考えると、余計に近づくのが難しい。
上下に伸びる柱を避けるように飛んでいると、突然、目の前に黒い雲が発生した。
「っ、何⁉」
避ける間もなく雲に突っ込んでしまったアイリスは、ピリッとした嫌な空気を吸い込んで咳き込んだ。喉の奥が酷く焼けるような感覚に息苦しさを感じる。すぐに外に出たものの、良くないものを吸ってしまったのだと、アイリスはカイリューの顔を見た。
「カイリュー、大丈夫っ⁉」
顔を顰めていたカイリューだったが、プライドの高さからか、雲を振り払うように顔を振ると平気だと言わんばかりに声を上げた。
(喉がひりつく。麻痺か毒の効果があるんだわ)
「カイリュー、あの黒い雲を避けて飛んで。吸い込まないほうが良いわ」
カイリューは頷いたが、アイリスが周囲を見渡せば、先ほどよりも黒い雲が増えているように思えた。背後からギラティナがシャドーダイブで突っ込んでくる。
「カイリュー引き付けて避けて!」
ギラティナをギリギリまで引き付けて避けると、そのすきにカイリューは一気にサトシの元へ降り立った。
「サトシっ!」
カイリューから降りて急いで駆け寄ると、怪我の具合を確認したアイリスは奥歯に力を込めて嗚咽を堪えた。
あまりにひどい怪我だった。胸に複数穴が開いており、出血がひどい。そしてなにより、これは銃痕だ。事故や、ポケモンの技による被害ではなく、明らかに人の手による攻撃を受けたあとに、アイリスは腹の底に煮えたぎる怒りを感じた。
取り敢えず止血をしなければ。そして、一刻も早く病院へ。
しかし、ぞっとする気配に振り返ると、すぐ側に黒い巨体があった。黒い影に浮かぶ真っ赤な瞳が恐ろしいほどの威圧感を持っている。
「っ、カイリュー、ドラゴンダイブ!」
アイリスの指示と同時に、飛んできたりゅうのいぶきをカイリューがドラゴンダイブで受け止めた。
人間であるアイリスがサトシに近づいたことで怒りが増したのか、ギラティナは完全に我を忘れている。サトシを巻き込みかねない攻撃に、アイリスの背筋に冷や汗が流れた。
「お願い、オノノクス!」
アイリスはもう一体頼れる相棒を出すと、二体にギラティナの技の防御を指示した。
この二体なら、万が一ギラティナがシャドーダイブで突っ込んできても、正面から受け止めることができるはずだ。
その間に、アイリスは洋服の裾を引きちぎって包帯にすると、サトシの胸と足の出血部分をきつく縛り上げた。サトシの体温は出血の多さからかなり下がっており、その氷の様な冷たさにアイリスの心臓が恐怖で冷えた。
急いで現実世界に連れ戻す必要があるが、意識のない人間の体は酷く重い。
未だ暴れているギラティナを抑える二体の他に、アイリスはドリュウズを出すと、サトシを動かそうと持ち上げる。
しかし、ここで再びあの黒い雲が発生した。ちょうどサトシとアイリスのいる場所の近くであり、カイリューたちの技の余波でこちらに流れてくる。
「ドリュウズ、このガスを吸っちゃだめよ!」
アイリスは咄嗟にサトシの鼻と口を覆うように布を当て、守るように抱えた。
ただでさえか細くなっている呼吸を遮りたくはないが、毒らしきガスを吸わせるわけにもいかない。
ガスから守るように覆いかぶさり、少しでもガスを避けようと手を大きく振るアイリスだったが、その程度ではあまり意味はない。
そして、サトシを連れ戻すには、出口のあった場所にサトシを連れて行かなければならないため、時間もそうなかった。サトシの顔色は既に紙のように真っ白なのだ。
アイリスの息も限界であり、戦っているカイリューとオノノクスの消耗も激しい。
(お願いよギラティナ。私たちもサトシを助けたいの、どうか届いて……)
息苦しさに霞む視界の中、アイリスは必死にギラティナの心に向けて呼びかけ続けた。
どちらも同じ人間を助けたいと願っているのに、これ以上戦うのは無益でしかない。
「っ、カイリュー!」
とうとう両膝をついてしまったカイリューを、アイリスはボールに戻した。手持ちで唯一空を飛べるカイリューを戦闘不能にするわけにはいかない。
オノノクスにシャドーダイブしてくるギラティナを見て、サトシを庇うように抱き込んだ。
技の余波で黒いガスは吹き飛んだが、正面から技を受けとめたオノノクスはアイリスの目の前まで押されて肩で息をしていた。それでもアイリスとサトシを守ろうと前に立つ姿は、強い意志に溢れていた。
至近距離まで近づいたギラティナの瞳を正面から見つめながら、アイリスも心からの想いを伝える。自身の心をひらき、一切の嘘がないことを、ただただ大切な友人を救いたいだけなのだという心を、ギラティナの前にさらけ出す。
「お願い、信じて」
互いに見つめ合う中、気づけばギラティナの瞳から怒りの色は消えていた。
「……分かってくれたのね」
ほっとすると、どっと疲れや息苦しさが襲ってくる。なんだか眩暈もするが、ここで倒れるわけにはいかない。
アイリスはオノノクスをボールに戻すと、ドリュウズにお願いしてサトシを抱え上げてもらった。
「急いで、現実世界に、戻らないと……」
「キュキュワ」
アイリスの言葉に、ギラティナはおもむろに空中へ波動を放った。
すると、空間に穴が開くようにゆっくりと開き、向こう側に見慣れたソウリュウジムが見える。
「良かった、あそこなら先生がいるわ。ギラティナありがとう」
アイリスはお礼をいうと、もう一度カイリューを出した。
「しんどいのにごめんね。もう一度だけ飛んでくれる?」
荒い息をつきながらも、カイリューはアイリスとサトシを抱えて飛んだ。
アイリスが振り返ると、ギラティナはじっとサトシを見ていた。
今は一応アイリスを信じて預けてくれたようだが、その瞳にはただサトシを案じる色が見える。ギラティナにとってサトシはそれだけ大切な存在なのだろう。サトシの窮地を知ることが出来たのもギラティナのおかげだ。
(サトシは必ず助けてみせるわ。ギラティナ、信じてくれてありがとう)
近づく穴の向こう側にソウリュウジムの入口から出てくるシャガが見えたところが、アイリスが意識を保っていられた最後だった。