気ぐるいの書記官(アルセノ)気ぐるいの書記官
スメールにアルハイゼンというとても優秀な書記官がいました。
アルハイゼンは知恵の国スメールの書記官にふさわしい頭脳と学者特有の未知への好奇心から培われた豊富な知識を持っていましたが、自分のポリシーに反することはたとえ仕事に関することでもしない、他人からの評価を気にせず、物事の本質をストレートに言ってしまい、周囲の反感を買いやすく人間味の薄いことから「気狂い」と呼ばれていました。
そんなアルハイゼンにも例外がありました。
それは彼の恋人です。
アルハイゼンの恋人はセノという、正義感と人情に溢れる大マハマトラでした。セノは教令を破った学者を裁くマハマトラのトップで、学者たちには恐れられていましたが、「大マハマトラ」の兜を脱いだセノを知る人たちからすれば思いやりの塊のような青年でした。そんなセノの一面を知る人はほんの一握りでしたが。
アルハイゼンはセノと一緒にいる時間が好きでした。それはセノも一緒です。
マハマトラの仕事は不規則で、しかも大マハマトラとなると更に多忙を極めるセノと、定時出勤定時出社で自分のペースを乱されないよう生活をするアルハイゼン。
だからこそアルハイゼンはセノの束の間の休暇を楽しみにしていました。
休暇といっても多忙の大マハマトラ。緊急の任務が入ってしまうとそちらを優先せざるを得ないので、アルハイゼンの家で過ごすことがしばしば。アルハイゼンは読書、セノは七聖召喚のデッキの構築をし、お腹が空いたら食事を作って一緒に食べ、野営で疲弊している恋人を労って過ごすのでした。
アルハイゼンのルームメイトであるカーヴェは「恋人と過ごす時間なのに浪漫の欠片もムードもへったくれもないじゃないか!」と耳にタコができるくらい言っていましたが、遮音機能もつヘッドホンを愛用するアルハイゼンには関係のないこと。
彼からすれば、カーヴェの語る理想の恋人との過ごし方の方が時間の無駄だと思っていました。だって、彼は賑やかすぎる人混みは苦手でしたし、いつも神経を尖らせている恋人が自分の部屋で少し穏やかに笑うのが好きだったのですから。
二人が恋人として過ごして、どれくらいの時が流れたでしょうか。
セノが大捕物で長期不在になりました。今までも任務でスメールシティを不在にすることはありましたが、今回は違いました。
セノは内容こそは伏せるものの、任務が長引きそうな時はアルハイゼンにあらかじめその期間を伝えていました(そしてきっかりその期間で帰ってくるのです)し、時折暝彩鳥にくくりつけた符号を通して近況を伝えてくれていましたが、どちらもありません。
それどころか、部下であるマハマトラもセノの任務内容について正確に把握しておらず、音沙汰のない大マハマトラを心配する声がアルハイゼンの執務室にまで聞こえていました。
アルハイゼンは恋人の仕事への熱意や性分を理解していましたから、周囲が大マハマトラの不在で動揺していても気には留めていませんでした。セノは何かしらの事情で連絡が取れないけれど、必ず帰ってくるのだと。しかし、アルハイゼンの思惑とは裏腹に、セノの不在から1週間が過ぎ、1ヶ月、そしてついに代理の大マハマトラが立てられてしまいました。
アルハイゼンはそんな状況でも勤務時間ないであれば仕事はきっちりこなしていましたし、歯に絹を着せぬ言い回しは健在だったので、彼の恋人の存在を知る人たち(彼の家の所在を知る者と同じくらい少ないのですが)までも、アルハイゼンには人の心がないのではないかと呆れていました。
しかし、実際は違いました。
休暇になるといつも聞こえていたカードをめくる音、ダイスを転がす音、新しいデッキが完成して抑えきれなかった小さな笑い声、自室に乱雑に積み上がった本たちを本棚に戻そうと本を拾う小さな手、砂漠の風にさらされてきしんでしまった銀髪、そしてそれを恋人専用のヘアオイルで丁寧に整えてあげた後に見せる笑顔。
それらがすっぽりと抜けてしまったアルハイゼンは心に大きな穴が開いてしまった感覚に陥り、学生時代から愛読していた本すら手につかなくなっていました。
会いたい。
セノに、触れたい。
その思いは日に日に募っていきますが、恋人からの連絡はありません。
途方に暮れたアルハイゼンは自室の本棚の1番上の段の本を全て放り出してしまいました。何十冊にもある本が床に投げ捨てられ、少しだけ床に凹みが出来ていましたが、彼にはもうそんなことを気にする余裕などありませんでした。そして、アルハイゼンは本棚の奥に拵えておいた隠し扉から木箱を取り出し、机へと戻ります。
アルハイゼンは木箱を机に置き、傍に置いておいた数冊の本をパラパラとめくり、めぼしいページを開いたと思えば、木箱の蓋をぱかりと開けました。
……木箱には、少し小さな指の爪や細い銀色の髪の毛が入っていました。
大マハマトラが行方をくらましてから半年が経ちました。
カーヴェは珍しくお酒を飲まずに居候先のアルハイゼンの家に帰ってきました。ちょうどこの時間は家主が定時退勤を終え、自室で読書をしているか、夕食を食べに家を空けている時間帯なので無駄な口論をしなくても済むと思っていたのです。
カーヴェがリビングに入ると、アルハイゼンの自室からぼそぼそと声が聞こえます。来客だろうか、という考えはすぐに消えました。セノを除いてこの家に人が来るなんてあの家主の性質からすると考えられないのです。しかし、バザールや教令院内で大マハマトラが帰還したという報せはなかったはず。
では、いったい誰が?
カーヴェはそろそろとアルハイゼンの自室前に近づき、ほんの少しだけ開いていたドアの隙間から中をのぞいてみました。次の瞬間、カーヴェの顔は二日酔いの時以上に青ざめ、ガタガタと体が震え出し、這う這うの体で部屋の前から逃げ出しました。
そして、そのまま家を飛び出し、坂を駆け上がって行きました。
「密告するなら君しかいないと思っていた」
数時間後、アルハイゼンの部屋に駆けつけたマハマトラ達とカーヴェに対しアルハイゼンは見向きもせず言いました。
「なっ……、き、君、自分が何をやっているのかわかっているのか!!」
カーヴェはいつもの調子でアルハイゼンに言います。アルハイゼンは目の前にある「それ」から目を離すことなく、カーヴェの言葉を受け流します。
「何か問題でもあるのか」
「アルハイゼン書記官。あなたを連行します」
厳しい目のマハマトラが言うとやっとアルハイゼンは振り向きました。腕の中に大事そうに「それ」を抱えて。
「ひぃっ」
「これは……」
罪人の対処に慣れているはずのマハマトラ達が次々に悲鳴をあげ、口を閉ざしました。なぜなら、アルハイゼンの腕の中には行方不明になった大マハマトラにそっくりの人形があったのですから。
ただの人形であれば、ここまで驚くことはなかったでしょう。しかし、アルハイゼンの抱えていた人形は瞳が硝子玉でできていることを除けば人間そのものにしか見えなかったのです。
「あともう少しだったんだがな。セノの瞳に似合う宝石が見つからなかった。だったら眼球を一から作ってみようかと考えたのだが、セノの夕日にも似たあの色合いを出すのが難しくて書物だけでは補えなかった」
アルハイゼンは人形の滑らかな頬を撫で、笑いました。そして人形を抱えたまま、呆然と立ち尽くすマハマトラ達を置き去りに自ら教令院へと出頭したのでした。
その後、名実ともに「気狂い」の烙印を押されたアルハイゼンは書記官の職を剥奪され、シティから追放されました。彼の人形はマハマトラ達によって処分され、罪状も伏せられました。学者達はこぞって元書記官がどれほど狂った研究をしたのか妄想し、一時期はカフェ内の学生達の議論のネタなっていましたが、論文の提出締め切りの時期になるとそんな娯楽に投じる暇もなくなったのか、「気狂いの書記官」の話は風化してきました。
……かつての大マハマトラがスメールシティへ戻ってきたのはその翌年のことです。