泳げない人魚(2回/全5回) 事務所でプロデューサーから受け取った台本に目を通す。今夜は掃除を頼まれているから、事務所にいるうちに済ませてしまいたい。だが、その実パーティションの向こう側で交わされている紅井と黒野の会話の内容が気になってしかたがない。
葛之葉は諦めて台本を閉じると、パーティションの向こう側へ耳を傾けた。
「アタシは玄武の水着姿、見てぇけどな」
葛之葉には紅井の言葉に黒野が言い淀むのが分かった。
「でも玄武、水苦手だもんな。プロデューサーさんにも伝えてあるし、きっと大丈夫だぜ」
「ああ、ありがとうな。朱雀」
「気にすんなって。アタシたちは二人で神速一魂だからな」
紅井の猫が忘れるなと言いたげに鳴き、黒野が「たまこやに弁当買いに行こうぜ」と席を立つ気配がする。葛之葉は慌てて台本を開き直した。
パーティションの裏から出てきた紅井が葛之葉を見つけて挨拶をする。葛之葉がそれに返せば、次いで出てきた黒野と目が合う。
「お疲れ様、黒野」
「あ、うん。……お疲れ様」
黒野はすいと目を逸らすと、足早に事務所を出ていった。紅井が黒野の背を目で追い、困ったように眉根を寄せて葛之葉を見た。葛之葉は気にするなと言いたげに紅井に視線を送り、微笑む。紅井は訝しげに葛之葉を見やり、黒野の後を追った。
黒野と紅井が事務所を出て行ったのと入れ違いに、外から戻ってきたプロデューサーが葛之葉を呼んだ。プロデューサーは先ほど渡した台本に変更があったと言いながら、変更箇所が書かれた書類と新しい台本を複数冊取り出した。
「神速一魂のお二人はいらっしゃってないですか? 今日は事務所にいると聞いていたんですが」
「あいつらなら、さっき出て行ったところだ。入れ違いになったんだろうな。たまこやで弁当を買うといっていたから、すぐに戻ってくるだろう」
プロデューサーは相槌を打った。
プロデューサーと葛之葉はパーティションで区切られた、話し合いのためのスペースに入る。プロデューサーが葛之葉のものと他に台本と書類をまとめたものを机に並べたのを見て、葛之葉は断ってからプロデューサーの隣に腰をかけた。
しばらくすると軽やかな二人分の足音が聞こえてきて、事務所の扉が開かれた。立ち上がったプロデューサーがパーティションから顔を覗かせ、二人の名前を呼んだ。
「昨日の今日で申し訳ないのですが、新しいお仕事の話です。少し、お時間いいですか?」
「応!」
「かまわないぜ、番長さん」
葛之葉は、やはりかと気づかれぬよう息を吐いた。
こちらへやってきた紅井は葛之葉の姿を見て、隣に立つ黒野を窺った。先ほどとは違い、普段通りの表情をしている彼女をみて、紅井は僅かに表情を緩めた。二人は揃って、葛之葉とプロデューサーの向かいに腰をかけた。
「実は葛之葉さんがゲストとして呼ばれている、お昼のエンタメ番組に主演予定だった高校生モデルの子たちが急遽出演できなくなってしまいまして、もし良ければ神速一魂にお願いできないかと言われました。番組は1時間の生放送で、放送日は祝日になります」
紅井と黒野は顔を見合わせた。
「私たちになんてありがたい話じゃねぇか。なあ、朱雀」
「応! どんな仕事でもこなしてみせるからよ!」
「お二人とも、ありがとうございます」
2人はプロデューサーから台本を受け取り、早速目を通し始める。黒野がページを捲る手を止め、葛之葉を見た。ふいに目があったことで、葛之葉の胸は締め付けられる。
黒野は僅かに眉間に皺を寄せる。
「雨彦アニさん、よろしくな」
葛之葉は柄にもなく安堵した自分に驚いた。彼女と自分の間に起こった出来事を思えば、邪険に扱われることすらありがたい。葛之葉は口元が緩むのを自覚しながら、深く頷いた。
「ああ。よろしく頼む、黒野。紅井」
あからさまに安堵した表情を浮かべた紅井が、「よろしくな!」と言った。
放送開始時間の3時間ほど前から楽屋に入り、挨拶回りやメイク、リハーサル、打ち合わせ等を行った。生放送となれば普段以上にスタジオの空気が張り詰めており、葛之葉はふらふらとテレビ局内を歩いていく。あちらこちらに気に留めるほどではない影や澱みのようなものが散っている。
葛之葉は廊下にある自動販売機に小銭を入れ、缶コーヒーを購入した。缶が転がり落ちる音がする。缶コーヒーを取り出し、葛之葉は楽屋へ戻ろうかと周囲を見渡す。
「今日の生放送、代わりに315プロのアイドルが出るんだって?」
不意に自身が所属している事務所の名前が聞こえ、葛之葉はとっさに角を曲がって身を隠した。
「神速一魂? でしたっけ。2人とも素直で良い子だって、どっかの現場で話題になってましたよ」
「そうなんだ。素直なのは良いよね。小さい頃から芸能やってて変にプライド高い子より使い勝手いいしさ」
上司と部下、という組み合わせだろうか。2人は会話を続けながら自動販売機で飲み物を購入した。
「ああ。でも、ここだけの話、神速一魂の子ってどっちか水着撮影NGらしいですよ」
声を顰めて、好奇の音を持ってこぼされた言葉に、葛之葉は思わず拳を握った。
「なにそれ、本当の話? 水着ダメって、体に傷でもあるとか」
「いや、そこまで詳しくは知らないんですけど。片方は雑誌に水着姿で載ってるのに、もう片方の子は絶対に見ないらしくて」
それっておかしくないですかと、部下らしき男は言った。
葛之葉は息を吐くと、何度か缶コーヒーを握り直す。それから角から一歩踏み出し、2人に
「こんにちは。お疲れ様です」
と声をかけた。
「おお、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
2人に軽く会釈をし、葛之葉は廊下を歩いていく。2人の姿が視界から消え、彼は深く息を吐いた。妙に気持ちが昂っている。これから仕事だというのに、いくらか落ち着けなければ支障が出るかもしれない。葛之葉は数度、深呼吸を繰り返した。
「おい」
怒りを滲ませた声がして、少し乱暴に肩を掴まれる。
「雨彦アニさん、台本に変更があったってよ」
「黒野か。ありがとうな」
彼女は眉根を寄せ、訝しげな表情を浮かべた。
「ったく、想楽アニさんから聞いた通りだな。雨彦アニさんは撮影の前にふらふらどっか行っちまうから、探すのが大変だってよ」
「それはすまなかった。今度、北村にも言っておこう」
葛之葉がそう言って笑うと、黒野は釣られたように僅かに口元を緩める。
「黒野」
彼女は葛之葉の顔を見上げ、表情を沈ませた。
「雨彦アニさん。このまま知らないフリしてくれねぇか」
頼むから。
彼女が言外にそう言った気がして、葛之葉は悲しくなる。黒野はきっと、一人で抱えていくつもりなのだろう。紅井にも、プロデューサーにも言うつもりがないのだから、あの夜でなければ葛之葉が知ることはなかった。
知ってしまった以上、知らなかったことにはできない。知ってしまったのならば、黒野の支えになりたい。それは自分が葛之葉という特異な家に生まれたからではなく、彼女のことを好いているからだ。何かと危なっかしい彼女を守りたいと、葛之葉は強く思った。
「知ってしまった以上、知らないふりは出来ない。俺は誤魔化し、言いくるめることはできるが嘘はつけないんだ。すまんな」
黒野は顔を赤くして、眉間に皺を寄せた。
葛之葉は睨まれてばかりいると、心の中で息を吐いた。
「お前さんのことを大切に思っているから、さ」
葛之葉は黒野に聞こえるように呟くと、プロデューサーがいる楽屋へ向かった。
ゲストとして出演する生放送は、よくある情報バラエティ番組だ。放送日が祝日だったこともあり、放送内容はテーマパークやグルメ、スイーツなどが中心だった。事務所内で甘党会を結成している紅井が良いリアクションをしており、彼女が何かを食べるたびに客席から「かわいい〜」と声が上がっていたのが面白かった。
生放送は無事に終わった。プロデューサーが運転する車に揺られ、黒野と紅井と共に事務所へ戻る。途中で紅井が「父ちゃんに呼ばれた」と言い出したため、黒野と葛之葉のみで事務所へ向かった。
プロデューサーは深夜にS.E.Mのラジオを収録を見にいくそうだ。
「では、お疲れ様です。葛之葉さん、黒野さん」
ふたたび事務所の車に乗り込むプロデューサーにそう挨拶された。
「番長さん、お疲れ様」
「ああ、お前さんもお疲れさん」
プロデューサーが会釈をし、車を発進させる。
葛之葉は車を見送った。僅かに視線を動かせば、黒野がこちらを見ていたのが分かった。
「黒野、この後の予定は何かあるのかい?」
「今後のレッスンや仕事の予定を確認し直してから、それから帰ろうと思ってる」
「そうか」
葛之葉が事務所に向かうと、黒野が少し間を開けてついていく。後ろから僅かにずれて聞こえる軽い足音が、葛之葉の心を温めた。
「雨彦アニさんは、どうするんだ」
「事務所に誰もいなかったら掃除させてもらおうと思ってな。夜に仕事が入っていて、ここからの方が近いんだ」
「アニさんは本当に掃除が好きだな」
黒野は呆れたような、感心したような様子で言った。
事務所の扉を開けると、誰もいなかった。普段、山村が座っている机には「倉庫整理に行ってます! 山村」と書かれたメモ紙が貼られている。葛之葉は掃除のついでにお茶でも淹れようかと、簡易キッチンに向かった。
2人分のマグカップにお茶を淹れる。ホワイトボードと手帳を見比べる黒野の邪魔をしないように机にカップを置いたが、すぐに彼女は振り返えって礼を述べた。
「すまん、邪魔したか」
「いや、アニさんがこっちに出てくるのは見ていたからな」
黒野がソファに腰をかけ、お茶を飲む。葛之葉は自分もお茶を飲みながら、ホワイトボードのそばへ行ってスケジュールを確認する。
「アニさんも座ったらどうだ?」
「いや、俺はいい」
そう答えたきり、どちらも口を開くことが憚られた。
しばらくして黒野が飲み終わったマグカップを持って、葛之葉へ近づいてきた。
「飲み終わったのか? 俺が洗おう」
「いや、いい」
黒野は首を横に振った。それからゴニョゴニョと言い淀む。俯いたままの黒野を訝しく思い、葛之葉は彼女の名前を呼んだ。
「……な、雨彦アニさん」
小さい声で葛之葉の名前を言い、彼女は顔を上げた。ほおが真っ赤に色づいていて、瞳が今にも泣き出しそうに張り詰めている。
黒野は葛之葉の腕を掴むと、簡易キッチンへ向かった。
葛之葉が何かを言う前に彼女はシンクに立って、腕を伸ばすと勢いよく蛇口を開いた。水は黒野の手首や手の甲を伝って、落ちていく。みるみるうちに手の甲には人間のものより広く厚い水掻きができ、手首には鱗が生えていく。
葛之葉は唖然として、黒野に向かって中途半端に伸ばしていた腕を下ろした。
黒野は鼻を啜って嗚咽をこぼす。彼女は息を深く吐いて、濡れていない方の手で涙を拭った。葛之葉は棚から新しいタオルを出して渡す。黒野はそれを受け取ると、注意深く手首から手の甲を拭いていった。初めて見た時とは違い、みるみるうちに乾いて元のような手になる。葛之葉は少し感心して、その様子を見ていた。
「ずっと、本当は怖かったんだ」
黒野は顔を拭う。
「でもアニさんが仲間だって言ってくれたから嬉しかったぜ。それなのに私は変に当たり散らしちまって、本当にガキだな。申し訳ねえ」
どこまでも自立しようとしている言葉に胸の内がざわめく反面、黒野の言葉に喜びたい自分がいる。葛之葉は「お前さんは立派だな」と返した。
黒野は恥ずかしそうに笑い、タオルに顔をうずめる。
葛之葉は自分の顔があからんでいることに気づくと、黒野から視線を逸らし、簡易キッチンを出た。