こういうの見たい 葛之葉が楽屋の外へ出ると、先ほどまで一緒に収録していたタレントがちらほら見えた。だが、その中に黒野の姿は見つけられない。彼女が出演者と話し込んでいたので先に楽屋へ帰ってきたが、それにしたって遅い。黒野も葛之葉も、この後にスケジュールが入っているわけではないが、彼女が何の音沙汰もなく帰ってこないのには違和感がある。何かに巻き込まれてはいないかと、葛之葉は焦燥感を覚えた。
葛之葉は黒野と自分のカバンを持つと、楽屋を出た。先ほどまで収録していたスタジオを目標にして、テレビ局の中を進む。
「営業なんだろ? みんな知ってるって」
軽薄な笑い声と共に、そんな言葉が聞こえてきた。
葛之葉は足を止め、声が聞こえてきた方向を窺う。黒野と、さっきの収録で一緒だった青年タレントが向かい合って立っているのが見えた。
「玄武ちゃんも人気欲しいなら、同年代からそこそこ支持得てる俺みたいなのと連んだほうが良いよ。顔は悪くないんだし。ちょっとでけーけど」
芸歴は確かに彼の方が長いのだろうが、葛之葉はその物言いに怒りの感情を覚えるまでもなく呆れてしまった。黒野も相手にするつもりはさらさら無いらしい。早くその場を去たげに、そわそわと足踏みをしている。
「お断りするぜ。虎の威を借る狐になるつもりはないんでな」
「玄武ちゃんのそーゆー純なとこ好きだけどさ、芸能界って綺麗事だけじゃやってけないよ?」
「やってけるか、やってけないかは私が判断することだ。……雨彦姐さんを待たせてるんで、失礼させてもらうぜ」
さすがに痺れを切らしたのだろう。黒野が踵を返し、こちらへ向かってくる。「フラれた」ことが分かったのだろう。彼は一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、それから顔を赤くした。黒野を引き止めようと腕を伸ばしたのが見えたので、葛之葉は物陰から姿を表すと目を丸くする黒野を抱き寄せた。
「なかなか帰ってこないから心配したぞ、黒野」
まだ状況が飲み込めていないのか、黒野は葛之葉を見上げるばかりだ。葛之葉が彼女の頭を撫でながら彼に睨みを効かせると、「じゃ、俺はこの後も収録あるから」と言いながら去っていった。
口ほどにも無いなと、葛之葉は心の中で吐き捨てる。
「お、おいっ! 姐さん!」
しばらく撫でられるままになっていた黒野が大声をあげ、腕の中から抜け出した。泣きそうな表情で顔を赤くした黒野が「ここがどこか分かってんのか」と叫ぶ。
葛之葉は子犬のようだなと肩を震わせた。
「テレビ局だな」
「だな、じゃねぇ」
顔を赤くしたままきゃんきゃんと吠える子犬を刺激しないように努めたいが、可愛らしいと言う感情が優って口元が緩む。微笑む葛之葉を見て、黒野はふてくされたように頬を膨らませた。
楽屋へ戻る道すがら、葛之葉から自分のカバンを受け取った黒野はすまさそうに眉根を寄せる。
「ありがとな、雨彦姐さん」
「大したことはしてない。お前さんが心配で探しに来ただけだからな。……ただ、今度からああいう手合いに捕まったら私を呼んでくれ。今日みたいな、プロデューサーも紅井もいない時は特にな」
「迷惑かけちまったな。すまねえ」
「そこは素直に首を縦に振ってくれれば良いんだぜ、黒野」
葛之葉の言葉に暫く間をおいて、黒野は首を縦に振った。
自分の部屋へ入ると、黒野は靴を脱ぐ前に自分が羽織っているカーディガンへ鼻を寄せた。仄かに葛之葉の匂いがする。香水ではない。洗剤でもない。落ち着いた上品な葛之葉の匂いだ。
黒野は自分の顔に熱が集まってくるのを感じ、ドキドキと音を立て始める胸を抑えた。
厄介な共演者に絡まれたが、葛之葉に抱きしめられたことを思えば良かったのでは無いか、____などと馬鹿らしいことを考えてしまう。
「洗剤、教えてもらえねえかな」
黒野はそう呟いて、脱いだカーディガンへ顔を寄せた。