To my dearest 2月14日、バレンタイン。ここイッシュ地方でも日頃お世話になっている人や、好きな人に贈り物をする日だ。ギアステーションからすぐ近くの大通りに面した花屋は数日前から予約が何件も入り、当日の今日にいたっては店の外まで客が行列を作っている。色とりどりの花束やミニブーケを持つ男性がそこかしこを行き交っていて、少しの浮ついた空気が伝わり何だかこちらまでウキウキしてきてしまう。
「クダリ、どうですか。終わります?」
「えっと、あとちょっと。もう少しで終わるから、ノボリ先行ってて」
「手伝いますか?」
「ううん、大丈夫。もう後ほんとにちょっとだから」
クダリがそう言うのであれば、本当にあと少しなのだろう。ノボリもそれ以上は言わず引き下がった。キャスター付きの椅子の背もたれへ引っ掛けていた黒のマスターコートを脇に抱え立ち上がり、帰り支度を始める。
「終わったら連絡する。いつものとこで待ち合わせしよ」
「寄り道しないで来てくださいね」
「うん、わかった」
では、と黒いロングコートとキャスケット姿に着替えたノボリは鉄道員たちにもお疲れ様ですと声を掛け退勤した。
あと少しなら残業自体は30分程度で終わるはずだ。背筋をピンと伸ばしたノボリの頬に、2月の冷たい風が吹き付ける。マフラーを口元まで上げ、防御力(特防だろうか)を一段階上げた。すれ違うカップルや夫婦は皆幸せそうな表情で身を寄せ合っていた。
ノボリは予約していた大きな花屋へ着くと長蛇の列ができている客の横を通り抜け、「予約受取専用」のプレートが掲げられたカウンターの前へと並ぶ。前に二人ほど並んでいるが、外の人数と比べればかわいいものだ。店内とはいえ自動ドアは常に開いており、花を扱う場所であるから普通に寒い。ノボリの鼻の頭は仄かに赤くなってひんやりとしていた。
自分の順番が来るのを待ちつつ通勤用のメッセンジャーバッグから財布を出し、小さく折り畳んだ予約表を開いていく。ノボリは毎年この日になると、世界で一番大切な片割れに花をプレゼントする。いつも変わらず、赤い薔薇の花束を。
「お待たせしました、予約表を確認しますね」
「18時に予約をしていたノボリと申します。よろしくお願いいたします」
「ノボリ様……ですね、少々お待ちください」
予約表を受け取った店員がバックヤードへ消えて数分後、それはそれは大きな花束を持って戻ってきた。ノボリほどの身長があっても、胸の前に抱えると顔が隠れてしまうかもしれない。会計は事前に済ませているため、予約表の店控えに受領サインをして店を出た。いつもの場所で待ち合わせ、もうすぐクダリも着くだろうと思い、ノボリは列とは反対のショーウインドウの前に立って待つことにした。
「あの男の人見て、すごく大きな花束」
「きっと恋人にあげるのよ、だって薔薇の花束だもの」
道ゆく人々が、ノボリの大きな花束を見てひそひそと話している。恋人か、奥さんか、この一人佇むノボリを見て皆が様々な想像をした。
今終わった!とクダリから連絡も入り、ああ早く来てはくれないだろうかと駅の方へつい顔が向く。
「ノボリ、お待たせ」
吐く息が白くなって消える。手袋をしていても指先が冷たくなってきたところで、考えごとをしていたノボリの視界にクダリが現れた。駅の自販機で買ってきたのだろう、ホットココアの缶を両手に持っている。
「中で待ってなかったの?」
「ここはこの時期いつも混みますでしょう。買わないのに店内にいるのは迷惑ですよ」
「……まあ、ノボリならそう言うよね」
これあげる、とノボリのコートのポケットへクダリがココア缶を突っ込んだ。腰の辺りにじんわりと温かさが伝わる。さあ帰りますよと歩き出したノボリの隣へ並ぶクダリはカシュッとプルタブを引き、表情を緩ませた。時折自分の分をノボリに分けて、二人で温かいねと笑い合う。
自宅に戻りパートナーたちの入ったボールを定位置に戻せば、あとは正真正銘二人だけの時間だ。買ってきた惣菜はパックのまま、飲み物もオープナーで王冠を開けたそのまま。バレンタインだからといって食事は別段特別なものはなく、オシャレなどとは程遠いけれどいつも通りの満ち足りた日常がそこにある。
「……クダリ、わたくしあなたに渡したいものがあるのです」
「ほんと?……あのね、ぼくもある」
「ではわたくしが先でも構いませんか? クダリはソファーでお待ちください」
惣菜も度数の低いアルコールもほとんどなくなったところでノボリが切り出した。そうなの? 偶然だね、何なに? とクダリは分かっているのに首を傾げたし、自分の渡したいものだってバレているはずだけど同じようにもったいぶって何かは言わない。
ノボリは一度自室に戻ると、あの大きな花束を背中に隠し──もちろん隠し切れてはいないのだけど──リビングへ戻ってきた。ソファーの端っこに腰掛けるクダリの隣へ腰を降ろし、そっと薔薇の花束を身体の前へ出す。
「クダリ、いつもありがとうございます。あなたには助けてもらってばかりで感謝してもしきれません。この花束でわたくしの気持ちを全て表すことは叶いませんが……あなたを誰より、愛しております。どうか受け取ってくださいまし、愛しいクダリ」
ノボリは毎年あの花屋で、赤い薔薇で、抱えきれないくらい大きな花束を用意する。毎年同じだがクダリはいつも本当に嬉しくて、ほんのちょっぴり照れくさくて、薔薇の香りを肺いっぱいに吸い込むように顔を隠してしまうのだ。ノボリもそれを知っているので、顔をよく見せてと淡く色づいた耳へ触れる。
「ノボリってばずるいな」
困ったようにはにかむ表情の可愛さといったら! 今すぐにでも腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいなのに、ノボリは自分で渡した花束のせいで詰まらない距離をもどかしく思った。
「クダリも、何か渡したいものがあるのでしょう?」
「あっ……そうだった、ちょっと待ってね」
花が潰れないよう、転がらないようクダリは慎重に花束を置いた。小走りで部屋まで向かい、先程のノボリと同じよう何かを背中に隠し小走りで戻ってくる。
「……これ、ぼくからはチョコレート。ノボリいっつも頑張ってるから、疲れた時に食べてほしいなって」
「ブラボーでございます!なんと素晴らしい気遣い!優しさ!その言葉だけで元気が出ますね。ありがとうございます、わたくしの愛しいクダリ」
「あの、ノボリ……あの、ね。ぼくもね」
クダリの言いたいことは分かっている。毎年のやり取りなのに今年も緊張しているクダリの言葉を、ひと言だって聞き漏らさないようノボリは少しだけ身を乗り出した。
「ぼくもね…………あ、愛してる」