サヨナラ恋心 年季の入った片思いを終わらせるのは、きっと簡単だ。
もとより、今の二人を繋ぐものはそう多くない。その一つひとつを、ゆっくり手放せばいい。
大切に育てたものは、とうの昔に美しさをなくした。こじれた片思いというのはどうやら、醜くゆがんだものに変わるらしい。
「え? 今なんつった?」
「ん? だから、次の合コン、オレも行くって言った」
新宿の喫茶店で、目の前の男が信じられないものを見る目でこちらを見つめてくる。心地が悪い。
その視線を投げかけられる理由に自覚があるからこそ、本当に嫌だ。せっかく決心したものが揺るぎそうだ。
「どういう、風の吹き回し? オマエ、真にゾッコンじゃねえの」
「ゾッコンって死語だよ」
「うるせえ。それくらい、こう、真に一筋だったろうが」
フィルターのギリギリまで吸った煙草を灰皿にもみ消した武臣は、少し険しい表情を浮かべている。
真ちゃんはいつも、半分よりすこし吸ったらすぐに煙草を消す。――ああ、嫌だな。小さな違いに気が付いてしまうくらい、どうしようもないのに。
どうしようもないのに、オレは真ちゃんへの恋心とおさらばすることにした。
「真ちゃんは関係ないだろ。オレも、真ちゃんも、男なの忘れてる?」
「いや、まあ……あー、もう。めんどくせえな、オマエが来たら女の子総取りだろうが」
「いいじゃん。一回でいいから」
今更全部を忘れて新しい恋なんてできるわけがない。それだけ、佐野真一郎という男は特別だ。
オレの人生を、価値観を塗り替えた。
そりゃあそうだろ。普通に女が好きだし、柔らかいおっぱいは最高だ。自分より低い女に見上げられるのも、抱き寄せたときの良い匂いも愛らしい。
それなのに、頭の中を支配するのはいつも平らな胸。身体中どこを探しても柔らかいぶぶんはなくて、身に纏うのはオイルと煙のにおい。そんな男だ。
弱くても、何度膝を突いても、再び立ち上がる美しさを知った。それに気がついた時には、どうしようもなかったのだ。
そこから何年もの間、それを後生大事に抱えて生きてきた。けど、いつまでもこのままじゃいられない。
綺麗なままでいられない恋はいつか、オレたちの関係をぶち壊す。何度も夢見た奇跡に縋りつきたくなって、手を伸ばして、何もかも失うくらいならさっさとこの恋を殺したい。
「……分かった、一回だけだからな。何度も来られたらこっちにチャンスが舞い込んで来ねえワ」
心底煩わしそうにそういった武臣は、どこか遠い目をしてる。ヘビースモーカーらしく、再び煙草に火をつける動作を目で追いかけて、違いに気づく前に礼を言って席を立った。
「……なあ、本当に真のことはもういいのか」
店を出る前に背中に突き刺さった言葉には、聞こえないふりをした。
だいじょうぶ。
連絡は、自分からしない。
会う約束も、のらりくらり交わせばいい。
コイビトを作ればきっと、自然に距離はできる。
――そうしたらこの恋と、お別れできるはずなんだ。
酔っ払った女の子はやっぱり可愛い。とろんとした視線も、わざとらしく寄りかかってくるのも、やっぱり可愛い。
ただ、心が動かない。
むしろ、オレがこれをしても可愛くなれたら良いのにな。なんて最低なことを考えてる。
武臣主催の合コン(もっとも、本人の目的はカノジョじゃなくて都合のいいオンナ探し。なんだろうけど)が始まって、参加者全員おおむねのターゲットが定まった頃合いに、携帯が忙しなく震え始めた。
主催の武臣と、武臣の知り合い二人にオレ。上質な、どこに出しても恥ずかしくないような女が四人。酒もほどほどに回って、座席も入れ替わって男女互いに横並びとなった今、無粋に携帯を開く真似はしない。
ただあまりにも途切れなく鳴り続けるから、何か起きたのかとチラリと携帯を覗き見たのがよくなかった。
(なんで……)
「今牛くん? だいじょうぶ?」
「……ん、大丈夫」
舌足らずに甘い声。男であれば大半には心地よいそれが、ノイズのように感じる。覗き込まれるように体が近付いてきて、反射的に押し除けなかった自分を褒めたかった。
真ちゃんが電話してくることはそんなに多くない。いや、メールのやり取りを続けていたら、しびれを切らしたように電話をしてくるときはある。
ただ、いきなり電話、というのがひっかかった。
もしかしたら何かあったのかもしれない。ようやく鳴りやんだ携帯をもう一度開こうとしたとき。
「……ワカ!」
「は……? 真ちゃん、どうしたの」
「いや、どうしたのって、その……」
聞きなれた声がして顔を上げると、見慣れた顔がそこにあった。
しばらく恋はしない、って息巻いていたから合コンに飛び入り参加ってわけでもなさそう。どうしてこの場にいるのか理解が追い付かない。
ようやく意識がただしく戻ってきたのは、近くの女の子たちがひそひそ声で「え、かっこよくない?」と言い出したのが聞こえたから。
そうでしょ。真ちゃんってカッケエんだよ。かっこいいのは昔からなのに、リーゼントとか特攻服のせいで遠巻きにされていたけど。オレが出会ってから今日まで、佐野真一郎ってずっとかっこよかったよ。
「合コンに参加するのにツナギのままはどうかと思うよ」
「ちがっ」
それを、ようやく世間が気が付いたのだ。
働き出して、不良から遠ざかって、時折、隣に女の子が並んでいる姿を目にするようになった。
その当たり前を目の当たりにしてようやく気が付いた。いつまでも、オレが真ちゃんの隣を占領していちゃダメだって。だから、ここに来たのに。
「まあ、せっかく来たんだし、真ちゃんも混ざれば?」
――今日の女の子たちならみんな、真ちゃんにお似合いだよ。
テーブルの横に突っ立ったままだから、座るように声をかけた。それなのにうんともすんとも言わないし、座る気配もない。
いったい、何のために来たんだ。
「遅かったじゃん、真」
「……うっせ。あんなメールだけ寄越しやがって」
「え? なに、武臣が呼んだの?」
「ちげえよ。面倒事に巻き込まれたくなかっただけ」
ビールを煽りながら肩をすくめる武臣を見て、ムカっとする。二人の付き合いの長さはどうしようもないけど、とはいえ、二人にしかわからないような会話を見ているのは気分が悪い。
女の子に真ちゃんの隣を譲るのならまだしも、武臣に譲るのは絶対にイヤなんだけど。
「……ワカ、行こう」
「…………は?」
腕を掴まれて立たされた。あまりにも想定外の動きに、引っ張られるままよろけてしまった。
ぴったりくっついていた隣の子にぶつかって、小さく「ゴメンネ」と声をかける。返事を聞くよりも早く、真ちゃんの手のひらに力が籠った。
「待って、金っ」
「いい。武臣に払わせろ」
「はあ?」
がやがやとしていた居酒屋が、心なしかしんと静まり返っている。
オレでさえすこしピリつく。そんな気配を纏った男の背中には、まるでどす黒いオーラを携えているようだ。
これ以上何も言えなくて、真ちゃんに引っ張られるまま店を出た。夏が近づいた世界は、まだ少し明るい。
「ちょっと痛いんだけど」
「あ……わりぃ」
逃げないから離して、と言えないのはオレの弱さだ。
こんな状況でも、触れられている事実が堪らなくうれしい。
それ以降真ちゃんは何も言わなくて、どこかに向かってひたすら歩いていた。どんな表情を浮かべているのか、何を考えているのか。なにもわからないけど、変な期待ばかりが心の中で膨れ上がっていく。
ようやく足を止めた場所には、見慣れたバブが止まっていた。
「乗って」
「……別にいいけど、いい加減理由くらい説明してくんない?」
「ごめん、オレにもよくわかんねえからさ。ちょっと、付き合ってよ」
ようやく見せた顔は、悲しさと怒りと諦めが全部少しずつ混ざったような表情が張り付いていた。
少し下がった眉尻に歪んだ口角、果てしない闇のような瞳。どれも、いまいち見覚えのないものだ。
ため息をついて、あくまでも、振り回されている友人というポーズをとった。タンデムは初めてではないが、めったにしない。普段のオレらは、横に並んで走るほうがずっと自然だったから。
背中にしがみつくのもおかしな話で、少しだけ距離をとろうとした。それを阻んだのは「酒飲んでるし、振り落としたら怖えから」の一言だった。
腕をごく自然に腹に回させて、そんなことさせるタイプだっけ、とカッとなった。アンタはこういうの、トクベツだと思うタイプなんじゃねえの。
エンジンがかかってしまえば言葉なんて無くて、真ちゃんの気まぐれに付き合うしかない。これ以上、オレを振り回してどうしたいんだろう。
「しんちゃんのばぁか」
ごうごうと響く風に紛らわせた音は、どこかへ消えていった。
思うままにバイクを走らせて、結局海沿いにたどり着いたのは真ちゃんらしかった。黒龍の結成も解散も、失恋の報告も、ぜんぶ。オレはここで聴いてきた。
「……で、何かあったの。今日の真ちゃん、ちょっとヘンだよ」
「わかんねえ」
「わかんねえ、って自分の事じゃん」
迷子のような顔だ。言葉にもいつもの強さはなくて、ふにゃふにゃしている気がする。
どうしたの。らしくないじゃん。今までだったら隣に座って、背中をさすって、話を聞いた。これからその役目はオレじゃない。
海辺の欄干に身体を預けて、じっとレインボーブリッジを眺めた。空はまだ、中途半端な色をしている。
「なあ、ワカ。オレ、ワカのこと怒らせた? なんか、嫌なことしてた?」
「え? いや、そんなことねえけど」
「じゃ、あ、なんで……最近連絡ねえの。忙しいかと思ったら、変わんないってベンケイがいうし。今日は、……飲み会出てるし」
ともすれば波音に攫われそうな声だ。振り返って、大丈夫だって言いたい。真ちゃんは何も悪くなくて、悪いのはアンタに恋をしたオレだって伝えたい。
ただ、それを言ってしまえばたぶん、トモダチにさえ戻れない。ぐっと黙ったままでいると、背後から近づいてくる気配がした。
「……ザリの点検時期だってメールしてもスルーされたらさ、さすがに何でもないとは思えねえよ。オレが何かしたら謝るから」
「あー、違えよ。真ちゃんのせいじゃないって。色々。それに、ザリなら後輩に見てもらったし」
「……は?」
場がひんやりとしたのは気のせいじゃない。
世の中の大半より、そういうものには敏感だ。振り返るよりも早く肩を掴まれて、強引に身体の向きを変えられた。思わず拳を握ってしまうほどの殺気だ。
「……なあ、それ言われて『そうだったんだ』って引き下がるほど馬鹿じゃねえよ。ンなあからさまに避けられて、何でもねえって拒絶されてさ。――ワカにとって、オレはなんだったの」
――オレにとって真ちゃんは、光で、みちしるべで、ともしびで、恋だよ。
言えないそれがぐるぐると滞って、返事をしないことに苛立ったのか真ちゃんは小さく舌を打った。
ちがう、真ちゃんを拒絶したいわけじゃない、もう少し時間をちょうだい。そうしたら、ちゃんと忘れたら、友達に戻るから。
「何かあったのって、オレにも分かんねえんだよ。連絡来ねえと寂しくて、そのくせほかのヤツとは会ってるって知ったら腹立った。バイクだって、ずっとオレが面倒見てたのに、知らねえ人に触らせたとか、許せねえくらいキレてる。ワカが、離れていくのは耐えらんねえ」
「なに、それ……そんなの、オカシイじゃん」
「おかしいって自分でもわかってる。人が出会ったらいつか離れるモンだし、些細な事で繋いだ縁が切れるのも珍しい事じゃねぇのに、ワカだけは……いやだ」
駄々こねるこどもみたいな、いやだ、は世界で一番覚えがあるものだ。
自分だけの特別にして、隣において、唯一になりたい。
「そんなの、惚れてる、みたいじゃん」
うっかり口から零れ落ちたものは、二度と回収できないのに。やらかした。
普通だったら、こういうときなんて答えるのが正解なんだろう。少なくとも、同性同士でいきなり、恋なんてたどり着かないじゃん。
「……それだ!」
なんとか上手い言い訳を……。え? 今、なんつった?
総長だった時でさえなかなか感じない殺気はどこかへ消えた。いま目の前にいるのは、いつも通りの真ちゃんだ。
「それだよ、オレ、ワカが好きだ!」
「はい? 落ち着けよ、真ちゃん。オレ、男だよ? チンコ生えてるしおっぱいねえの。分かるよな? 一緒に銭湯行ったろ」
オレに恋しているとか、それがマジでもパチでも、大きな声で言うなよ。
オレたちはもっと、いろんな障害があんの。だから、手放そうとしたんだって。
「関係ないだろ、だって、ワカが好きなんだもん。オレの人生で、家族があって、黒龍があって、そんで。黒龍がなくなっても、一番そばにいたのはワカだよ。もう、ワカが隣にいるのが当たり前すぎて、アンタが居ねえと笑い方もわかんねえわ」
なんてことないように、オレが死ぬほど悩んだことを蹴飛ばしてきた。
本当に叶わない。そんで、やっぱり真ちゃんは、光で、みちしるべで、ともしびで。
何物にも代えられない恋だった。