対の獅子 小麦の毛並みに鼻を埋め、太陽の香りを肺に入れる。重なり合うように兄さんと団子になりながら毛繕いをするのは、子ライオンたる僕らの日常だった。
顔の毛並みを整えているときにクルクルと心地よさそうに鳴く兄さんが大好きで、僕はつい何回も何回も、丁寧に兄さんの顔の毛を整えてあげるのだ。
――この、例えようのない温かな夢が僕のお気に入り。この夢を見られた日には良いことがあると、子供ながらによく考えていた。
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その日のジェターク寮のラウンジには、巨大なツリーが聳えていた。そのツリーを設置しようと操る作業員の手によってモミの枝が揺れる度、あちらこちらで歓声が上がる。
「ずいぶん立派なものが来たな」
「当然。この日の為に都合をつけてもらったんだ」
レイアウト仕様を片手にツリーを見上げるカミルに、そう口にするのは寮長のグエル。二人を含め、業者によってツリーが組み立てられていくのを眺めるのは有志として集まった寮生達だ。
ラウンジの中央に設置される数メートルもの巨大なツリーは、ホリデーシーズンということでグエルが企画考案したクリスマスイベント用のものだ。元々実家でクリスマスを過ごしていた彼は、入学前はどのようにしてホリデーシーズンを過ごしていたかと寮生たちと話しているうちに、クリスマスを祝ったことのある寮生の少なさ並びに、殆どの寮生はクリスマスというものを文献でしか知らないという事実に驚愕した。軽いカルチャーショックだ。
しかし、それと同時に話をしていた皆が出来るのであれば体験してみたいと言ったものだから、途端にグエルは張り切った。そして、グエルの案に乗った有志らと共にツリーを繕え、飾り付けのために実家からクリスマスオーナメントを取り寄せ、それでも足りない装飾品は購入することとなったのだ。
クリスマスを体験したことのない生徒にとって、クリスマスツリーは絵本の中の幻想獣と同等だ。学内にある樹木よりも巨大な幹、力強く広がる枝、香る青い森林の芳香に皆の気持ちは昂っていた。
ツリーの設置が完了すれば、いよいよ有志達によるツリーの飾り付けが始まる。
今日のために注文していたオーナメントも無事到着している。彼らは配達員から受け取った段ボールをオーナメントの種類ごとに分けながら、元々作成していたレイアウト図に沿って各人の担当を振り分けていた。有志達皆が箱を開く度オーナメントの輝きに感嘆を漏らし、大量の緩衝材に隠されたオーナメントを宝のように掘り出していった。
「フェルシー、ペトラ。そっちは頼んだ」
「任せてくださいっす!」
「了解です!」
大量の大箱を開く寮生とは別に、グエルとカミルはジェターク家から送ってもらった箱を開けていた。
「カミルのところはクリスマスをしたことがあるんだったか」
「そうだ。と言ってもこんな大業なものじゃなかったがな」
「うちだってそうだ、この学園に来るまでは家族だけで祝っていたからな。……にしても、うちのフロントじゃクリスマスをするのが一般的だったから、世間的には珍しい文化だっていうのには驚いたな」
「確かにな。フロント毎に文化が多少違えど、まさか自分達の文化がそちら側だなんて思うわけもない。だが、そのおかげもあって、みんながこうやって興味を持って全力で協力してくれているんだ。こういうのも悪くないんじゃないか」
「ああ、カミルの言う通りだな」
そう気楽に返すグエルに対し、カミルは口調こそ同じく気安いが卵の薄膜を剥がす如く丁寧に箱を開けていく。彼の眼下にあるジェタークの伝統を表すような重厚なオーナメント達は、柔らかな布に納められているだけで歴史を感じるアンティークの魅力をここぞとばかりに発揮してくるから、これはクリスマスを知らない後輩達に任せなくて良かったと一人安堵した。グエルやラウダにとっては見慣れたオーナメントだろうが、その価値は世間一般が想像するものよりは一桁か二桁は異なるものだろうことが容易に想像できる。
カミルは自分が触っているものの値段は考えないようにしながらも、しかし傷だけは絶対につけないようにと細心の注意を払って作業を進めていった。
入っているものが高級品であるというのに他と変わらない梱包をされているオーナメントは、大箱の中でいくつかの箱が重ねられるように纏められていた。無重力ならいざ知らず、こと重力下では最下に敷かれた箱の心配をしてしまうもの。いくら軽いオーナメントの集まりだとしても、その繊細さはカミルには計り知れない。
カミルは急ぎ傷や割れがないことを確認しながら、早々に底の箱へと手を伸ばした。
するとどうだろう、大箱の底に納められた箱には今までとは趣向の変わったオーナメントが入っているではないか。オーナメント専用ではない薄い箱には紙の緩衝材が敷き詰められており、その上にはいくつかのオーナメントが並べられていた。今まで発掘してきたオーナメントとは違い、統一感のないそのオーナメント達は誰か個人の所有物のようでもあった。
「星を抱いた天使に、林檎?あ、こっちには珍しいベルがあるな」
単体で納められたオーナメントの内一つだけ、二つで一対になるよう作られたベルは夫婦獅子が彫られており、クリスマスオーナメントとしては赤と紺の二色塗りが珍しかった。それだけでも仲睦まじい夫婦が買ったもののように見える。カミルの実家のあるフロントでは、新婚の頃にこういったオーナメントを飾る家も少なくなかった。
――そこでふと、このベルはグエルの両親のものではないだろうかと、既に彼の両親が離婚していることまで把握しているカミルは背中にたらりと冷や汗を流した。
しかし、一先ずグエルの視界から隠すべきだろうと蓋をもう一度閉めようとするカミルの背後から、また別の声がかかった。
「あ、懐かしい。僕らで買ったオーナメントも送られてきてたんだ」
「おお、ラウダか」
急な声掛けに肩が跳ねたカミルだが、ラウダから語られた事実に人知れずほっとした。
たまたま通りかかったのだろうラウダは確認用の端末を持って、箱の中身を覗き込んでいた。
「うちでは毎年記念のオーナメントを一つ買っていたんだ。こうして見ると、結構な数が集まってたんだな」
そう言って目を細めたラウダがオーナメントを触るのに、カミルは物珍しいものを見る目をした。いつも冷静と言えば聞こえはいいが、どこか淡泊な印象を受ける彼がここまで柔和な表情をするのを見るのは初めてだった。
しかしカミルの驚きもつかの間、ラウダの郷愁を掻っ攫うかのように横から伸びた腕が箱を抱き上げ奪っていった。その腕の持ち主は、彼の兄のグエルだ。
「今回は寮生と祝うクリスマスだから、これは趣旨が異なる。俺の部屋で大切に保管しておくからお前らは作業を続けてくれ」
平坦な早口でそう言い切ったグエルは、そのままラウンジから去っていく。
遠退く背。グエルの様子に呆気に取られた二人だが、先んじて冷静になったカミルがラウダに話しかける。
「あー……、あれは追わなくて良いのか?」
兄弟間の絶妙な距離感はいまだに測れないが、きっとこれは何かがあるのだろう。そう察したカミルはラウダを伺った。
「……はっ、ごめん。僕は兄さんのところに行くから。カミル、あとはよろしく頼む」
カミルの言葉にスイッチが入ったように答えたラウダは、慌てて兄を追いかけた。
「急がなくていいからな~」
すぐさま小さくなっていく二人の背中に、カミルは呟くように援護した。
学園に入学する前の兄弟のことはカミルの知るところではない。だが、去っていくグエルの耳元の赤みから、決して悪い事ではないだろうと考えたカミルは、寮長副寮長が帰ってくるまでに粗方作業を進めておくかと考えた。
通路を大股で歩く兄を追いかけたラウダは急いでその背に並んだ。
「どうしたの兄さん?そのオーナメントに何かあった?」
ラウダにとってはラウダが家に来てから集められた、ある種ラウダの年の数だけ揃った幸福のようなものだ。そこに付随する思い出だっておかしなものは無かったはずだと逡巡するが、瞬時に全てを思い出せるわけでもなかった。だから、もしかしたらラウダの知らない何かがあるのかと兄を伺うが、ラウダを一瞥した兄は一速、足を速めて先を行く。
「兄さん?」
「いいから、こっちに来い」
そう言いながら髪をたなびかせた兄は、寮長室まで足を止める気はなさそうだ。
すぐに遠ざかっていく彼の背中に、ラウダは本当に何があったのだと兎角兄についていった。
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空気圧によって閉じられた扉。グエルは手ごろなテーブルにオーナメントの箱を下ろすと、気まず気にラウダと向き合った。
「さっきは悪かった。ただ、このベルを見るとあの時のことを思い出して……」
「あの時の……あ、そうか」
兄の触れる一対のベルは二人の思い出の中でも、少しの恥ずかしさが混じったものだった。
数年前のホリデーシーズン、二人は記念のオーナメント探しに意気込んでいた。巡る店巡る店であれが良いこれが良いと言い合いながら、毎年恒例となった一つだけの記念を探しに普段は行かないような街にまで遠出をしていた。
見慣れぬ街に冒険するような心持ちでいた二人。そんな中、大きなガラス窓が特徴のアンティークショップに置かれたベルは、絢爛な色彩に溢れた店内でグエルが探し出したものだ。ただ、その時のグエルはベルに彫られている夫婦の獅子を正しく認識しておらず、鬣のない雌獅子を弟獅子だと考えていた。
「僕ら兄弟の記念だから、夫婦って思われるのは嫌だよね」
ベルの購入時、スタッフから「夫婦獅子を選ぶなんておませさんね」と言われて頬を染めた兄だ。それでも気に入ったものは変わらないと、兄が恥じなど感じていないというように胸を張って堂々と振る舞っていたのを覚えていたラウダは、それが正解だろうと当たりを付けた。
だが、ラウダの答えにグエルは眉を潜めて返す。
「今更そんなこと言われたところで、何も思わん。そうじゃなくて、もう一つあっただろう」
ツンと口を尖らせる兄に、ラウダは焦った。
「他に何かあったっけ……?」
それ以外だとこのベルを買った後、二人してモノレールの座席で眠ってしまったことくらいしか思い出せない。確か僕らは、お互いの肩に寄りかかるように寝て、自宅近くの駅の到着ベルで目を覚ましたはず。そこからもいつもの通りを進んで帰って……やはり、そんな大事件はなかったような気がするけど。
考え込むように腕を組んで頭を俯かせるラウダに、グエルは信じられないというように目を瞬かせた。
「お前、覚えてないのか?」
グエルの問いかけに、困惑するラウダは急ぎ謝罪をした。
「ごめん兄さん、思い出せないや」
「っ!?」
絶句したグエルはラウダの知らないことを思い出しているのか、またも頬を紅潮させながら一人忘れたラウダのことをその視線だけで責め立てた。
羞恥と怒りにわなわなと震えるグエルの口はそのまま何かを言おうとしたが、結局小山を築き上げた。彼は数秒ラウダを睨み、肩を怒らせながらラウダに近付く。
兄の怒りを察して、叱られる覚悟を決めたラウダが瞼を閉じること数瞬。その頬に温もりを感じた直後、彼の唇の真横に柔らかな感触が広がった。
いったい何が起きたのかと、驚き顔をあげるラウダ。
「『僕らは対の獅子だから』って、お前が言ったんだぞ」
まるで拗ねているような面持ちの兄。彼の口から放り出されたその言葉に、走馬灯のようにラウダの頭にあの日の出来事が蘇った。
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モノレールの停車する振動で目を覚ましたラウダは半分夢の世界にいた。ぼんやりとする視界で電光掲示板を見上げた彼は、自宅まであと二駅だと考えた後で肩の重みに顔を向ける。
呼吸に合わせて稲穂のように揺れる胡桃の髪。すっかり疲れて眠っているラウダの兄は、少し開けた口から穏やかな寝息を零していた。
すやすやと心地よさそうに眠る兄の姿に、夢で獅子となっていたラウダは自分が既に目を覚ましていることも忘れて顔を傾けてしまった。
唇へ落ちた感触に目覚めた兄に対し、蕩けた瞳で兄を拝むラウダ。彼は兄が寝起きの感触を確かめるように寝惚け眼で自身の唇を舐め取ったのを見て、現実を夢の続きと認識した。そしてそのまま、夢の続きとばかりに兄の唇にもう一度キスをした。
ラウダの柔い衝撃に、覚醒した兄は擽ったそうに微笑んだ。それから、モノレールの振動に任せてラウダの意識が微睡の中に沈んでいくまで、二人は互いに夢見心地で過ごしたのだった。
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「ああぁ……」
ラウダの頭を襲う怒涛の記憶。寝ぼけていたという言い訳も聞かない程に鮮明に思い出すその感触に、彼の全身が一瞬で沸騰した。
「これでラウダも思い出したな」
向かいで強気に微笑む兄の表情も、赤ら顔では本来の勝ち気さを失っている。ラウダは空気を求める魚のように口をパクつかせた後、か細く空気のような声で「ごめん兄さん。いろいろ、本当に」と未調整の音声ロボのように言葉を連ねた。
「別にいいさ……。ただ、他の奴らには絶対に言うなよ。俺とお前だけの秘密だからな」
グエルとてカミルにベルを見られたときから口が落ち着かないのだから、このオーナメントに関してはこれ以上人に見せる予定はなかった。
そうでなくともみんなと祝うために兄弟の記念として集めたオーナメントたちは必要ない。グエルとしても、あの時仕掛けてきたラウダが忘れていたことに気を悪くしただけで、ラウダも思い出したのであればそれでよかった。――と考えつつ、グエル自身にとっても幼気の至りのような出来事であったとしても、こちらの初めてを奪っておきながら忘れられるのも些か遺憾ではあったので、羞恥に屈んだ弟を見てその溜飲を下げていた。
深呼吸をして心を落ち着けたグエルは両手で顔を覆っている弟に対し「俺は先に行く。落ち着いたら、ラウダも準備を手伝えよ」と言い、彼が頷いたのを見ると部屋を出た。
残されたのは兄から浴びせられた温もりと、夢だと思っていたことが現実だったことへの僥倖と、やらかした過去の自分に対する猛省にもんどりを打つ弟だけだ。
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「悪いカミル、遅くなった」
グエルが戻ったラウンジでは飾り付けの大半が完了しており、巨大なモミは彩り豊かな化粧をされていた。
「いや、構わないさ。それより、良いのか?」
「大したことじゃない。後からあいつも来るだろうさ」
ラウダの背を送ったは良いが、戻ってきたのがグエルだけだったのでカミルも心配をしているのだろう。グエルはカミルの言葉に笑って返した。
「グエルがそこまで言うのなら。そうだ、お前らが出ていった後で提案があったんだ。ジェターク寮のクリスマスツリーにもシンボルを作るのはどうかって」
「シンボル?」
「お前ら兄弟が毎年記念品を買っているって話をしてただろ?それに因むわけじゃないが、寮生達からも今年だけのシンボルが欲しいって話があがったんだ。毎年続けるにしても、初回だけ何もないっていうのは味気ないだろ?」
あの時のカミル達の会話を聞いていた寮生から広がった案だが、カミル自身も中々悪くないと思っていた。
そしてグエルも、カミルの話に同意するように頷いた。
「それは面白そうだな」
始まりこそ兄弟間での約束事だったものがここまで大きなものに変わるとは、考えたこともなかった。
その言葉に、待ってましたと言わんばかりに周りの寮生達が沸き立った。
「先輩ならそう言ってくれると思ってたっす!」
「実はみんなで考えて、既にデザインは用意してるんです!」
「なんだと?」
はしゃぐ後輩達に囲まれながら端末に映される一つの案を見たグエルは、またも口が痒くなるのを感じたが、それ以上にそのデザインへ魅了された。
数日後、ツリーの真ん中に設えられた金色のベルは、ジェタークの獅子が彫られた一点ものだ。喜びの音を象徴するそのベルは、皆の歓びと幸福も現わしていた。
それからこれは余談だが、学生たちの手で作られたそのベルを見上げた寮長の言葉に、珍妙な顔をする副寮長の姿があったとか。