雌獅子は愛を抱く⑤「ぁーん、えー……」
普段よりずっと弱々しい泣き声がリビングに響く。
ソファーに寝かせた娘は顔を真っ赤にしている。
時折苦しげにヒッ、ヒッ、としゃくり上げる様子を、心配に顔を顰めながら獅子神は従業員達と共に覗き込んでいた。
ピピピと小さな電子音が聞こえると、獅子神は娘の耳に入れていた体温計を外して表示を見、苦く呟く。
「……高いな」
三十八度六分。
夕方までは機嫌良く元気に過ごしていた娘は、夕食後のベビーシッターが退勤した辺りからぐったりし始めた。
水分も取りたがらず、弱々しく泣く姿に獅子神は判断を下す。
「夜間急病行って来る、お前達は上がれ」
「お供しますよ」
「いや、遅くなるだろうしいい」
時間は既に二十二時半に近い。
小児にも対応する一番近い夜間急病は最終受付が二十三時だった筈だ。今から向かえばまだ間に合う。
娘と出かける時に使う大きなトートバッグの中に飲み物とタオル、着替え、おむつに保険証に玩具とおやつを入れ、タオルケットに包んだ娘を抱き上げる。
「行って来る」
「気を付けて、行ってらっしゃい」
*
時計の針が二十三時を指した事を確認し、村雨は立ち上がる。
気付いた周囲の看護師たちが口々に声を掛けて来た。
「お疲れ様です」
「村雨先生、ありがとうございました」
「……お疲れ様です」
小さく頭を下げて手回りの品を持って診察室から出た村雨は、最近知らず知らずのうちに増えた溜息を零す。
この夜間急病センターは自治体が設置し、村雨の勤務先である病院と提携している。今回のようにセンターの医師に急な欠員が出れば、勤務先から医師が派遣される事になっていた。
内科と小児科をメインとしたセンターである為、本来ならその何方かの科の医師が出向くのだが今日は何方も人手不足、結局外科である村雨が自ら立候補する形でやってきた。
不幸中の幸い、今日は外科的処置を必要とする患者が四人程受診し、手持ち無沙汰にそこにいるだけ――という事態は避けられた。
元々決して楽な勤務体系では無いが、ここの所以前よりも本業に精を出している。
手が空いているとどうしても考えてしまうのだ。色の無い温度で村雨を見た、今でも愛している人と、その腕の中に居た村雨と同じ色の瞳をした幼子の事を。
元々センターの医師では無い為、ロッカーなどは準備されていない。白衣を脱ぎ、小脇に抱えて正面玄関から出て帰ろうとした村雨の足はある場所から凍り付いたように動かなくなる。
最終受付時間となり、人が疎らになっている待合。
その片隅に、今さっき村雨が思い描いていた人が、いた。
大きなトートバックを横に置き、タオルケットに包まれたかたまり――子供を、大切そうに愛おしそうに心配そうに見つめる横顔を呆然と見つめ、呟く。
「……獅子神、」
大きな声では無かった筈だが、静かな待合にその声は良く響いた。
子供に向けていた視線を外し、顔を上げた獅子神は村雨へと視線を向け僅かに目を見張る。
「何でお前が……」
心底訝し気な彼女に、村雨は許される間合いを測りつつ慎重に近寄る。
「……此処は私の勤務先と提携している。医師が不足した場合、医師を派遣する契約だ」
「ああ……」
そういう事か、と呟いた彼女は再び視線を腕の中へと戻す。
「その子は発熱か」
「そうだ。昼間は元気だったのに夜になって急にな」
まぁ珍しくも無いんだろうが、と呟きつつ獅子神はタオルケットを優しく撫で擦る。
「私が診ても構わないか」
瞬間向けられた青の冷たさに、村雨は一瞬胃の奥底に氷を詰め込まれたような心地になった。無論それらは幻覚だ。
しかし獅子神はほんの一瞬でそれを、冷たい敵愾心を引っ込めた。
昔からそうだ。激し易いがすぐに理性で感情をコントロールできる彼女は、瞬間的に最も娘の利になるのはどちらかで判断した。
「お前の腕『は』信頼してる。任せた」
含む所のある言葉に、最早医者とギャンブラーとしての腕しか信頼されていない自覚がある村雨は反論する事無く、今しがた出て来たばかりの診察室に舞い戻った。
*
退勤した筈の村雨がわざわざ自分で患者を連れて戻って来た事にセンターのスタッフ達の好奇の視線が突き刺さる中、次に診察の順番で呼ばれる筈だった子供を診る事を受付に伝えてもらいつつ、小さく泣き声を上げている子供の腕をそっと取り、脈を見る。
ふくふくと肉付きが良く、月齢から考えれば身体の発達は極めて順調。大切に育てられている様子が伺える。
遅れて用意されたカルテに視線を向け、村雨は一瞬だけ息を止めた。
獅子神礼那、一歳三か月。
村雨が何処で目を止めたか正確に理解している獅子神はぼそりと呟いた。
「一つ二つくらい親父から継いだモンがあってもいいだろ」
村雨の名にも同じ字が一つある幼子の名を、ほんの少しの間見つめた村雨は視線を続きへ向ける。
母親による主訴は発熱、食欲不振、ぐったりとして水分が取れていない……。
「……。予防接種は?」
「全部受けさせた」
「平熱や体重は分かるか」
「書いてあるぜ」
言いながら獅子神が取り出した母子手帳に視線を落とす。予防接種歴は完璧、身長体重の変動や体温の日内変動も良く残してある。
症状の全て、何一つ見逃さぬよう丁寧に診る。つい先日、村雨を見ては元気に泣き喚いた子はその元気も無いのだろう。
――何かしらの重い病の兆候は何もない。早い内に村雨の五感と知識はそう告げていたが、それでも村雨は再び幼子を診る。万が一などあってはならない、村雨は自分に万が一などという言葉は無い事を知っているのだが。
「上気道感染症、つまり風邪だ。だが中等度の脱水の症状がある、輸液するぞ」
「ん、分かった」
厄介な病気ではない、と告げれば獅子神の肩から目に見えて力が抜けた。
此方のやり取りに耳をそばだてていたらしい看護師達が手際よく点滴の準備をし、看護師に任せず村雨自ら留置針を取った。
刺入時に一瞬泣き声が大きくなったがすぐに収まった事に安堵し、獅子神に抱かれながらうつらうつらしている子の目元を拭い頭を軽く撫でた。金色の髪は癖が無く柔らかい。
「解熱剤を出すが、機嫌が良く水分が自力で取れるようならば与えなくていい。頓服として使用するように」
「……ああ」
他にやる事がある訳でもない、小一時間掛かるであろう輸液をそのまま見守る。
退勤時間を過ぎた村雨に気を使って引継ぎしようと現れるセンターの医師や看護師に首を横に振り、獅子神の腕の中の幼子に、そして獅子神に視線を戻した。その横顔は美しく、しかし目の下には薄い隈があり疲れが見える。
「獅子神、あなたは少し休んだ方がいい」
仕事に日常生活、子供の世話。恐らく休む間もなく立ち働いているだろうことは想像に難くない。
「休むっつったって……そこで?」
診察台を指差した村雨に獅子神は暫く眉間に皺を寄せ、逡巡を見せる。しかしやがて村雨の提案通り、娘の腕に刺さったままの針に気を遣いながら診察台に横たわった。村雨はチューブが邪魔にならぬようにと手で押さえてやる。
白い診察台の上に散った金色は村雨に、胸を内側から引っ搔かれるような甘く懐かしい記憶を思い起こさせた。村雨の乱れた心の内など知らずに――或いはどうでもいいと思っているか――獅子神は無防備な体制で腕の中の幼子をあやす。
我が子を心配し気遣い慈しむ獅子神は美しい。
己の選択で永遠にそれらを向ける権利も向けられる権利も喪った村雨は、ただ言葉も無く美しく、そして入り込む隙の無い宛ら聖母子像のような二人を見つめていた。