にべもなく彷徨う 眼前に拡がる青に、ただ圧倒されて息を呑む。次いで、むせ返るような甘い香りがアシュトンの鼻腔を突いた。花の香りだ。何の花なのかは判らない。風が吹くと、視界の端で控えめな白色が揺れる。顔を傾けると小さな白い花がアシュトンの頬をくすぐった。そこで、やっとアシュトンは自分が仰向けに倒れているのだと云うことが知れた。
慌てて身体を起こす。花びらか舞って、甘い香りが増す。けれどそれより気にしなければならないことがある。
「ギョロ、ウルルン」
背中に取り憑く双龍の名前を呼んだ。仰向けに倒れていたということは、彼らを下敷きにしてしまったということだ。普段は気を付けているのに。アシュトンは胸中で悪態をついた。
だが、返事はない。蠢く素振りもない。それどころか気配もない。
もう一度、アシュトンは彼らの名前を呼んだ。やはり返事はない。今はこの宇宙の何処にも存在しない楽園のような星の花園にも似た花畑に、アシュトンの声が虚ろに響くだけだ。
アシュトンは独りだった。
花を踏みながら歩を進める。久しぶの双龍の憑いていない肩は軽かったが、言い知れない不安はアシュトンの足取りを重いものにした。どうしてこんなことになってしまったのだろう。混乱する頭で必死に記憶の糸を辿った。
およそ一年ぶりに、アシュトンはラクールへと立ち寄った。ソーサリーグローブの影響もなく、去年以上に武具大会間近の城下町は賑わっていた。勿論、双龍を背負うアシュトンは今年も出場権はない。だが、それで良かった。皆で旅をしていた頃の楽しい思い出が蘇り、寂しさを感じながらもアシュトンはそれだけで充分だと思ったからだ。それから、レオンとウェルチにも会った。そして、憑き物を祓う方法の情報がもたらされた。
「……そうだ、宝珠」
アシュトンは立ち尽くす。そよぐ風が外套を揺らし、花を散らす。
小さな天才は言った。アシュトンと背中の双龍を分かつ方法がある。忘れ去られた遺跡の奥深くにある宝珠がその方法だ。アシュトンはすぐさま彼に双龍の身の安全を確認した。祓い落とすことが叶っても、聖杯に受けた魔鳥の涙のように双龍に害をなすものではあってはならない。隣でウェルチが頷いた。大丈夫。宝珠の力はお互いを元の姿に戻す類いのものだから。そうだ。思い出した。ギョロとウルルンのことを思うと本当は乗り気ではなかった。けれどレオンとウェルチの厚意に応えたかった。だからアシュトンは宝珠を探し出すことにしたのだった。
周囲を見渡す。人気はない。魔物の気配もない。極彩色の花々が地平の果てまで余所余所しく咲き誇る。それだけだ。
アシュトンは独りだった。
潮風に煽られながら、アシュトンは当て所なく歩いた。何日も夜通し歩いた。自分の歩みは覚えていない。花畑を抜け出し、森に分け入り、山を超えた。時折、魔物も斬り伏せた。誰かと共に戦うことに慣れた身体は重く、繰り出される剣戟は鈍かった。
ただただ人恋しく、仲間たちとの旅で歩いた道を探して辿った。一人きりの足取りは重かった。元の姿に戻るという願いは叶った筈なのに、ちっとも嬉しくなかった。それどころか、滲む涙が堪え切れず溢れ落ちたりもした。
クロードもいない。ギョロもウルルンもいない。誰もいない。寂しくて寂しくてどうにかなってしまいそうだった。
やがて、切り立った崖の上に鋭い尖塔の輪郭を捉える。ラクール城だ。アシュトンは走り出した。ラクールにはレオンがいる。ウェルチもいる。それまでの足取りの重さが嘘のように軽くなる。夜通し歩き続けた疲れも置き去りに、アシュトンはひたすらに懸命に走った。こんなに必死に走るのはクロードを見送った山道以来だと気が付いたら、何だかおかしくなってアシュトンは笑った。
ラクールは活気に満ちていた。武具大会を間近に控え、変わらず賑わう人混みをすり抜ける。龍を背負わないアシュトンはただの人だ。誰の目にも止まらず、声もかけられない。奇異の目を向けられることもない。それでいい。アシュトンは真っ直ぐに城を目指した。レオンの家は知らない。だが、国家の重要な企画を任されることの多い子供だ。きっと城にいる。アシュトンはそう判断した。
記憶を頼りに城の奥の研究室を目指したが、部屋の前で衛兵に呼び止められた。レオンの知り合いで、彼を訪ねたことを伝えたが今は世界の存亡をかけた研究に携わっている為、素性の知れない旅人を接触させるわけにはいかない、と言われた。十賢者――ソーサリーグローブの問題も片付いたというのに、今更何を大仰な研究をしているのだろう、とアシュトンは思った。またレオンがラクールホープのような兵器を開発させられているのかと思うと悲しくなった。ラクールホープはエル大陸に出現した魔物を討伐する為でなく、他国を侵略する為の兵器として開発されていた、というボーマンの言葉を強く覚えていたからだ。
結局レオンに会うことは叶わなかった。レオンが駄目ならと、ウェルチの名前も出してみた。だが、衛兵はそんな少女は知らないの一点張りでまるで取り付く島もない。仕方がなく、アシュトンは言伝を頼んで引き下がることにした。ベシャメルソースが有名だと教えられた店で待っている。そう伝えるように頼んだ。
手を引かれ訪れた店でアシュトンはレオンを待った。三人で座った窓際の席を選び、待ち続けた。武具大会で賑わう人々の流れをぼんやりと眺め、その中に知った顔がないかと探したりもしながらクロックムッシュを食べた。そんな日が何日も続いた。レオンは来なかった。ウェルチも来なかった。
あまりにもただ無為に流れていく時間に、もしかすると衛兵はアシュトンの言葉をレオンに伝えなかったのではないか、と思い当たった。もう一度城に行こう。今度は会えるかも知れない。一人でじっとしているよりずっといい。割り裂いたクロックムッシュから流れ出るベシャメルソースを見つめてそんなことを考えていた時だった。顔馴染みになりつつある給仕の女が近付いて来て珈琲とナッツの蜂蜜漬けを机に置いた。
「えっと、頼んでません」
「サービス。お兄さん、最近毎日来てくれるから」
給仕は飴色の髪が肩口で揺れる。若い女だ。二重瞼だったら、少しクロードに似ていたかも知れない。
「大会に参加するの?」
腰に吊るした剣を指して給仕が訊いた。確かに、ギョロもウルルンもいないアシュトンは今回は武具大会に参加出来る。考えもしなかった。
「人を待ってて」
「なぁんだ。この辺じゃ見ない感じだし、強そうだから絶対そうだと思ったのに。お兄さんだったらディアス・フラックにだって勝てちゃいそう」
「……ディアス?」
知った名前に反応する。共に旅をしたレナの幼馴染みの名前だ。前線基地の防衛の為にディアスはラクール大陸に残った。エル大陸に経つアシュトンたちを港で見送ってくれた姿が最後だ。剣を交えたことのあるクロードならともかく、アシュトンとディアスは殆んど話したことはない。きっと彼はアシュトンのことなど覚えていない。けれど、知り合いの名前が聞けて単純に嬉しかった。
「今年もディアスは大会に出るんだ」
「初出場でしょ、ディアスは」
「去年、優勝したろ」
「何言ってるの。この一、二年で名前が知られ始めたディアスが武具大会に出場する、ってことで噂になってるのに」
アシュトンは首を傾げる。ディアスが優勝したのは間違いない。クロードとの決勝は思い出すだけでも高揚する。それを、まるでなかったかのように語る彼女が不思議だった。
「でも、いいよね武具大会。エル大陸が大変なときに不謹慎だ、って声もあるけど。わたしたちまで暗くなってちゃ駄目だと思うんだ」
「そうだね。被災した人たちは、まだまだ元の生活に戻れないし、大変だよね」
「元の生活も何も、まだ生存者がいるかどうかも分かんない状況じゃない」
さっきから大丈夫、お兄さん。給仕が甲高い声を上げて笑う。
「ソーサリーグローブが落ちてから、あちこちで変なことばかり起きてほんと嫌になっちゃう」
言い残して、給仕は仕事に戻って行った。取り残されたアシュトンは、ウェルチの言葉を反芻する。大丈夫。宝珠の力はお互いを元の姿に戻す類いのものだから。確かにその通りだ。アシュトンは元の姿に戻った。きっと、双龍も元の姿に戻り、戻るべきところに戻っている。けれど、何も大丈夫なことなどなかった。姿だけでなく、時間まで戻るなんて聞いていない。アシュトンは頭を抱えた。