ポイント・オブ・ノーリターン 窓からは、雲一つない晴れた青空が見えていた。空港に停泊した艦は駆動音一つ立てず、沈黙している。
耳鳴りがしそうなほどの静けさの中で、外套の留め具に指をかけた。そこへ、呼び出し音が鳴る。
低く掠れた男の声が、シルバーノアの廊下からアークの名前を呼んだ。知った声だ。だが、珍しい。
ロックを外し、キャスケット帽に手を伸ばす。
「どうぞ」
程なくして扉が開いた。黒装束に身を包んだハンターの男が、そこにいた。彼一人だけのようだった。ますます珍しい。
「おかえり、シュウ。早かったな」
疑念を振り払い、微かな動揺を悟らせることのないよう努めて声をかける。シュウは小さく顎を引くように頷くと、部屋の中に入って来た。彼の背後で音を立てて扉が閉まる。
「もう少し慎重に動くつもりだったが……計画が狂った」
微かに眉根を寄せて、シュウが言った。いつも平坦な彼の声は、心なしか沈んでいる。同時に得心がいった。「変わった」ではなく「狂った」とシュウは言った。彼に同行した同郷の男を思い浮かべ、そして、全てを察したアークは深い溜め息をつく。
「……うちのがすまない」
「いや。今回の依頼を受けるにあたって、トッシュに声をかけたのは俺だ」
やっぱり。アークはこめかみを抑えて項垂れる。
歳も近く戦闘スタイルの相性も良いのか、最近トッシュとシュウは行動を共にすることが少なくないが、殊トッシュとの付き合いの長さという点ではアークに分がある。
ハンターズギルドで目立たないよう、少人数での慎重な行動を指定した依頼をシュウが受けたのは数日前のことだ。だが、彼らは帰ってきてしまった。トッシュがやらかしたに違いない。身内の監督不行届きを指摘されたような、そんな居た堪れなさに苛まれる。
何より、もう少し彼らを待つつもりでいたので、情報収集も兼ねて街へ行こうとしていたアークは出鼻を挫かれる形になった。
「……まだ滞在していてもいいかな。エルクも別の依頼で単独行動をしてるんだ。まだ帰って来てない」
シュウへの申し訳なさで顔が上げられないまま、アークは重い口を開いた。
二人の帰還を待つ間、時間を持て余したエルクもまた、ハンターズギルドで仕事を請け負っていた。自分と顔を合わせたくないだけかも知れないが、熱心なことだ、とアークは思った。
「そうらしいな」
含むところのありそうな物言いだ。思わず顔を上げる。すると、アークと同様に何処か沈んだ面持ちでシュウもまた床に視線を落としていた。
「何か気になることでも?」
「……ああ」
「廃村の調査だと聞いてる。モンスターの棲息の有無の確認だけで、討伐は不要って話だから一人で向かったらしいけど」
らしい、というのは本人から直接聞いたわけではないからだ。
「今でこそ廃村として放棄されているようだが、どうやらロマリアが一枚噛んでいたようでな」
「なるほど。お父さんが心配する筈だ」
「茶化すな」
眼光鋭く窘められる。一定の距離を保ち放任していても、矢張り彼はアークと一つしか歳の変わらない少年の保護者であるのだと、改めて実感する。
「悪かった……多分、エルクは俺も誘って現場に行くつもりだったんだろう。それも含めて」
「何かあったのか」
「リーザにちょっかい出したら拗ねられた」
「……何をやってるんだ」
本当は、リーザだけでなく女性陣が一通り揃っている現場に出会したのだが、誤解させておいた方が面白いのでそこは伏せた。それにあまり深く言及されたくない。ククルのことを言われて引くに引けなくなった失態まで明かさなくてはならなくなる。
「俺も大人気なかったんだ。反省してる」
肩を竦めてから、アークは言った。
「大人気ないも何も、お前とてエルクとそう歳の変わらない子供だろうに」
「“勇者”は子供じゃいられない。まぁ、それはあの歳でハンターやってるエルクも変わらないとは思うけど」
ーーああ、だからこの男は他の仲間より「勇者」ではなく「子供」として俺を扱おうとするのか。
口に出してからそう気が付いて、可笑しくなってアークは笑った。実の父親の方はといえば、「子供」ではなく「勇者」としてアークを扱ったという事実を、芋づる式に思い出したからだ。あまりの滑稽さに反吐が出る。同時に、一つの仮説に思い至った。
「もしかして、俺もエルクと一緒に出かけたと思って、それを確かめにここへ?」
アークに帰還の報告をするのなら、トッシュの方が顔を見せそうなものだ。
「最近、お前たちはよく話している」
問いへの答えは返らず、端的な事実だけをシュウ述べた。だが、先のトッシュとシュウにアークが抱く印象と似た何かを、彼もまたエルクとアークに感じているのかも知れない。そのように仮定し、アークの問いを肯定したと考えて差し支えないだろうと判断する。
何となく、居心地が悪い。いつの間にか握りしめていたキャスケット帽の皺を伸ばしながらアークは思った。
「だったら期待に添えなくて、ますます悪かった。まぁ、俺もこれから街に行くところだし、情報収集がてらエルクのことは気にしてみる」
シュウの目的は果たされた。これ以上立ち話をする必要もない。そう切り替えると帽子を被って彼の脇を擦り抜ける。だが、当然部屋の主が出かけるのだから後に続くだろうと思っていた男が動く様子がない。不審に思い、アークは背後を窺う。
色素の薄い双眸がまっすぐアークを捉えていた。
「これでも、お前には感謝している」
言われたことへの理解が追いつかない。言葉を返そうとして口を開いたは良いが、まとまらない思考は結局何一つとして音に繋がることはなかった。
「ハンターなんかをやっていて大人にばかり囲まれているせいか、アレには同年代の友人がいなくてな」
「あ、ああ!そういう……」
シュウからの補足は、保護者としてひどくありふれた、ありきたりなものだった。驚いた。何に驚いたかと言えば「エルクの保護者」の一挙一動に、無自覚の内に神経を張り巡らせている自分に驚いていた。
「いや、それを言ったら俺も歳が近い友達ってのはポコくらいで」
「息子さんにはいつもお世話になっています」は少し違う気がしたので、寸でのところで口にすることを思い留まっておく。先ほども茶化すな、と釘を刺されたばかりだ。同じ轍は踏まない。代わりに、もう少し素直に思うところを口にする。
「たまに、どう接したら良いのか」
分からなくなる。ポコとは違う、エルクの距離の詰め方に戸惑う。炎のような苛烈さだ。
「今のままで良い。仲良くしてやってくれ」
「やっぱお父さんなんじゃないか」
「しつこい」
すれ違いざまに小突かれる。シュウはシュウで、アークへの距離感が完全に「息子の友人」になっている気がする。悪い気はしないが、落ち着かない。それに、アークは「勇者」だ。どれだけ「今のまま」を望まれても、応えられる保証がない。約束は出来ない。
シュウの後を追って、廊下へ出る。
「俺は、シュウほどエルクのことを大事には出来ない」
エルクだけを大事に出来ない。そう、黒い背中に語りかけた。
「エルクには貴方がいて、リーザもいる。それで充分じゃないか」
「確かに、俺はあいつの後継人にも、師にも、お前が茶化すような父にも、或いはなってやれるのかも知れない。だが、対等な友人にだけはなれない。それは、エルクにとって庇護対象として認識しているリーザも同じだ」
「……俺だって」
対等な友になんてなれない。そんなものは幻想だ。アークが勇者である限りは、望むべくもない。だから、深入りさせるべきではない。これ以上、エルクの傷を増やすことをしたくない。
「あいつは、善く育ってくれた。直情的で短慮な帰来はあるが、それでも、凄惨な過去にも負けず、まっすぐに」
「きっと、育ててくれた人が良かったんだ。エルクを見ていれば分かる」
「……それは、どうだろうな」
言い淀むシュウに並ぶと、アークは意趣返しにその背中を叩く。彼の詳しい過去は知らないが、時折見せる彼の自己肯定感に低さをトッシュは気に掛けているようだった。
「少なくとも、血の繋がった俺の父さんより、よっぽど保護者出来てるって」
何とか場の空気を和ませようと試みたが、失敗する。しまった。和むどころか、シュウの顔が凍りつく。この話題におけるエルクの涙も記憶に新しい。
「ごめん。今のは」
「お前の父親の最期のことは、エルクも気にしていた」
「……うん。だよな」
保護者の耳にも入っていたか。低い天井を仰ぎ見る。金網の向こうで明滅を繰り返す電灯が目に痛い。せっかく空港に停泊しているのだから、交換の手配をチョンガラに進言しよう。現実から逃避しながらアークは思った。
逃げ出したい。現実からなんて贅沢は言わない。それでは危機に瀕した世界が救えない。だが、取り敢えず、今はエルクの保護者の目の届かないところへ逃げ去りたい。子供の喧嘩に親が出て来るのは卑怯だろ。ここにはいないエルクをアークは呪った。
「親子の問題に外野が口を出すことではないと解ってはいるが、お前を案じてのことだ」
「はい」
「煙に巻かず、真摯に向き合ってやって欲しい」
「はい」
「アーク」
「……はい」
「こっちを見ろ」
観念して、シュウと対峙する。だが、男はそれ以上何も言わなかった。ただ、無言が怖い。
アークは溜め息とも深呼吸ともつかない、細く長い息を吐き出す。
「エルクに対してだけでなく、貴方に対しても真摯でいたいから、守れない約束の話はしたくない」
シュウは何も言わない。明滅する蛍光灯の下で、ただアークの発する言葉に耳を傾けている。
「代わりに、こんな途方もない戦いに巻き込んでしまった以上、何があっても必ず、エルクを守ることを約束する」
「……それで手打ちにしろと?」
漸く沈黙を破ったシュウが問う。アークは緩く首を横に振った。
「エルクだけじゃない。リーザも、貴方のことも守る。これ以上、エルクから大切なものがこぼれ落ちていかずに済むように」
「精霊に選ばれた勇者としては、模範解答だ」
案の定、不満そうに鼻を鳴らしたシュウに皮肉られる。平行線のままだ。
「生きてさえいれば、貴方がエルクに望む“対等な友人”はまた現れるさ。俺じゃなくていい」
「本気で、言っているのか」
本気で言っている。だから、アークは頷いた。
「エルクが生きてく世界を守る“勇者”ってのは、どうやら俺以外の替えが利かないらしい」
だから対等な友人にはなれないし、だから無責任な約束も出来ない。だから、エルクとの距離を見誤るわけにはいかない。
「エルクがこれ以上失いたくない大切なものの中に、お前が既に含まれているとは思わないのか」
痛いところを突いてくる。アークは舌打ちして眉を寄せた。
「……思いたくない」
「ならば、今からでも自覚しろ。そして、言ったからには約束を守れ」
文字通り、言葉を失う。何も、シュウに返せる言葉がない。彼の言葉を肯定しても、否定しても、全てが、何かが嘘になる。
「アーク」
名前を呼ばれて、アークはいつの間にかシュウを正視出来なくなっていたことに気が付いた。視界には窓から覗く外の世界が映り込んでいた。息が詰まりそうなほど薄暗い艦内ではなく、午後の陽が燦々と降り注ぐ明るい場所を見詰めていた。
「今は答えを持たなくていい。だが、エルクがお前を諦めない限りは、お前も諦めるな」
それだけを告げて、歩き出すシュウの背中を視界の端に捉える。すぐにその背を追う気も起きず、静かな彼の足音が完全に聞こえなくなるまで、アークは窓の外を眺め続けた。