湯煙慕情と愛しい月 吐いて、少し楽になった気がする。それは内臓的にも感情的にも。
口の中に残る酸い胃液は洗い流した。もう一度シャワーを浴びたかったが一気に押し寄せた疲労感が布団を求めていた。
どさりと音を立てて布団に倒れ込む。汗と体液で湿った布団と未だ口腔内に残る吐瀉物の臭い。何もかもが不快である。糊のきいた浴衣でさえ汗で張りを失い肌に張り付いている。
もう少し若ければ、気持ちを確かめ合った黒死牟と……と思えたかもしれないが、今は僅かに残る酒の力に頼って眠ってしまいたかった。背中に黒死牟の視線を感じながら狸寝入りをしているうちに、いつしか深い眠りに落ちた。
『私の月に無様な姿を晒して……情けない男よ』
夢の中で自分を責める声がする。それは他ならない自分の声だった。
「そろそろ起きて下さい」
勢い良く布団を剥ぎ取られ無惨は叩き起こされた。
「まず風呂に入って下さい。今なら大浴場に人も少ないでしょう。風呂から出たら朝食。そして、公民館へ向かわないといけないので急いで下さい」
「あぁ……」
酷い二日酔いとまではいかないが、やはり顳顬が痛んだ。あんな無茶な飲み方をして吐いたのだ。寄る年波には勝てないと余計に凹んだ。
いつ用意したのかと疑問に思うが、黒死牟に渡された着替えと基礎化粧品を持ってフラフラとした足取りで大浴場に向かい、昨日のあれこれを綺麗に洗い流してから広い浴槽に浸かると、一気に疲れが吹き飛んだ。昨日は泉質を楽しむ余裕などなかったが、少しとろみのある湯は美しい肌を更に滑らかに美しくしてくれる。
早朝の為、大浴場は貸切状態だったが、がらりと引き戸が開く音がして、黒死牟と同年代の男性が入ってきた。
もしかすると自分はゲイで、そういう趣向のせいで黒死牟に邪な気持ちを抱いているのかもしれない。そう思いながら、ちらりと横目で男性の裸体を見たが、別に何も思わなかった。自分と同じものが付いた、ただの男の体だ。脳はそう解釈している。寧ろ、それなりにメリハリのある体つきの美女が入ってきた方が当たり前に興奮するだろうと思ったので、男だから黒死牟に触れたいと思った選択肢は自然と除外された。
ならば何故に黒死牟の肌に触れたい、抱きたいと思ったのか。その答えを導き出すには時間がかかりそうだったので、無惨は風呂から出ることにした。
部屋に戻ると慌ただしく食事処に連れて行かれる。旅館の「ザ・朝食」が並んでおり、その量の多さに無惨は怯んでしまう。普段、フルーツとコーヒーくらいしか口にしない為、がっつりとした朝食が苦手なのだ。
向かいに座った黒死牟は美味しそうに食べている。朝からよく食うなぁ……と感心しながら、無惨は干物が焼ける様子を眺めていた。
「何も変わりませんよ」
黒死牟はその言葉の通り、何も変わらなかった。
相変わらず淡々と秘書の役目をこなし、今も全く色気のない大食いっぷりを見せつけてくる。こっちは黒死牟とこんなに気まずい朝食を食う日が来るなんて……と未だに昨夜の感情を引き摺っているのに、黒死牟は本当に何も変わらなかった。
その様子は無惨の胸に安心感と一抹の寂しさを与えた。
公民館に着いてから、無惨は祭りの実行委員の法被を自ら望んで着用し、地元議員と共に出店の様子を見に行っていた。握手を求められれば快く応じ、記念撮影委も笑顔で対応している。類い稀な美貌のせいで冷たく見られがちなので、こういう泥臭い仕事は喜んで引き受けイメージアップを図るようにしているのだが、そんな下心など微塵も見せずに祭りを楽しんでいる姿を見ると、この男は天性の政治家なのだろうと黒死牟は思っていた。
「立派な神輿ですね」
神社の本殿の向かいに置かれた神輿の周りには担ぎ手が大勢いた。地元だけでなく、地元を離れた若者や、その友達など多くが集まって担いで町内を回るのだと言う。
「お前も一緒に担がせてもらったらどうだ?」
無惨は軽い気持ちで黒死牟の尻を叩くと、びくんっと体を震わせたので逆に無惨が驚いて固まってしまった。
「今日は……腰の具合が悪くて……」
「そ、そうか……なら、無理するな……」
黒死牟の腰の不調。心当たりがありすぎる無惨は目線を逸らした。珍しく黒死牟が恥じらって頬を染めるので調子が狂う。
そんな二人のやりとりなど誰も気にしていない。昨夜の出来事を知る当事者二人にしか解らない微妙な気恥ずかしさなのだ。
それからは群衆と共に神輿を盛り上げ、日が暮れる頃には議員や住民に見送られ帰りの車に乗り込んだ。
大きな溜息を吐く無惨に「お疲れ様でございました」と黒死牟は労いの言葉を掛ける。
「本当に疲れた……」
選挙の応援に来ただけだというのに、こんなに様々な出来事が起こると思っていなかった。
「なぁ……」
「何でしょう」
「私の月、とは、どういう意味だと思う? 私は何故、お前を月と呼んだ?」
「無惨様に解らないことが私に解ると思いますか?」
その通りである。どこまでも自分は黒死牟に甘えているなと情けない気持ちになった。
「ですが、無惨様に『月』と呼ばれ、悪い気はしませんでした。寧ろ、懐かしい気さえしたくらいです」
黒死牟の言葉に無惨の表情が明るくなる。単純な男だと思うが、その単純さが何よりも愛しいのだ。
「誰か別の人と間違えて呼んだわけではありませんよね?」
「そんなわけないだろう!」
少し赤くなって必死に否定する姿も愛らしい。一見扱い易い男に思えるが、自分に扱える代物でないことは解っている。この男のこととなると自分で自分が制御出来ないくらいに、自分はこの男に惚れているのだ。
「これまでと変わらず私の傍にいてくれるか? 私の月よ」
「……勿論でございます」
運転中に何てことを言ってくるのだ。黒死牟は内心恨めしく思いながら、視界が滲む中、必死に安全運転を心掛けた。