夏の後ろ姿 やることが多いというのは幸せなことかもしれない。殊、恋人との別れにおいては余計にそう感じていた。
今までの別れなんて、せいぜい合鍵を返す、連絡先を消す、思い出の品を処分する程度のことだったが、それでも面倒だと感じたし、その面倒な気持ちが相手に対する未練を掻き消してくれていた。
今回は別れるという結論に至るまでがまず長かった。
その答えを出すまでに本当に修復不可能か、互いに散々論じ合った。それは何故、別れ話になったかという原因すら忘れてしまうほどに。それが無惨の自分に対する未練だと解っていたが、どうしても、これまで通りにやっていける自信がなかった。
本当に何が原因だったか思い出せない。
生まれ育った環境も、これまで生きてきた道程も、何もかも違う者同士が、恋人として、ビジネスパートナーとして人生を伴走していくのだ。多少の擦れ違いや意見の食い違いはあるものだと思っていた。
誰かに心移りしたわけでもなく、無惨が自分に対して許しがたい行為をしたわけでもない。
ただ自然と、いや、小さなことの積み重ねで共に生きていく未来が見えなくなった。
「解った」
長い時間を掛け無惨が結論を出してから、そこからは仕事の引き継ぎ、自分の新居探しと、これまでの人生で最も多忙な時間がやってきた。
無惨の秘書を辞める、それは恋人関係を解消する。その意味を皆、解っているので誰一人退職理由を訊いてこなかった。本当によく出来たスタッフたちだと思う。だから、自分がいなくても、この事務所は大丈夫だろうと解っていた。
あれだけ自分に対して未練があると言っていた無惨だが、左手の薬指には指輪はなく、自分がウイークリーマンションに移ってからは、さっさとマンションを引き払って議員宿舎に移っていた。
無惨なら、すぐに次の恋人が見つかるだろう。己がどれだけ優れた容姿を持ち、素晴らしい男であるかを理解している人間だ。自分のような者が彼の心を縛り付けていたこと自体、何かの間違いだったのかもしれない。
そう思った時、黒死牟は別れに至った理由を思い出した。
「貴方の隣にいることが負担でしかない」
そう漏らした時、無惨は様々な提案をした。
秘書の仕事がつらいなら辞めても良い、休暇が欲しいならいくらでもやる、お前の為なら議員の仕事を辞めても良い、お前の望みを何でも叶えてやる。
その愛が重かった。
恐らく無惨は挙げた全ての案を現実にすることが出来るだろう。職を擲ってでも自分への愛を貫いてくれる。まるで御伽噺の王子様ではないか。
そんな王子様である彼がタキシードを着て、跪いて薔薇の花を差し出す相手は自分ではないのだ。
自分の気持ちは無惨に理解してもらえなかった。
そこからの別れ話は一方的に無惨を責めるだけの最低なもので、最終的に無惨を呆れさせ、首を縦に振らせただけの話だ。
結局は無惨を信用出来ず、無惨の隣に立つ自分に自信が持てなかった、それだけのことなのだ。
9月末日、全ての引き継ぎ業務が終わった。
送別会は辞退し、他のスタッフを見送り、事務所は無惨と二人きりになった。業務用のスマホと社員証、事務所の鍵等を無惨に返した。
「お世話になりました」
「あぁ」
無惨に一礼して、くるりと背中を向けた。
「行くな、と言ったら駄目か?」
返事が出来なかった。
「違うな……行かないでくれ……いや……」
それ以上言わないでくれ、黒死牟は震える手でドアノブを掴んだ。
「私を一人にしないでくれ」
ここで振り返って、彼に抱きつけば全てなかったことに出来る。
だが、何度繰り返しても同じ結論に至ることは解っている。
黒死牟は無言のままドアノブを回し、部屋を出た。事務所の玄関を出て、廊下を走り、タイミング良く待機していたエレベーターに乗った。
エレベーターの壁に額を押し付け、声を上げて泣いた。こんなに泣くくらいなら無惨の元に戻れば良かったのだが、その勇気が自分にはなかったのだ。
転職先は地方の役所の一般職だった。
職員住居があると言われ、引き継ぎの合間に家具や日用品を運んでいたが、築60年の古い平屋、これまでの家具は全て不釣り合いで、これまで港区のタワーマンションで生活していた日々が逆に夢だったのではないかと思ったくらいだった。
長かった髪もばっさり切って、地味なスーツで出勤すると、意外と「鬼舞辻無惨の元秘書」とは気付かれず、静かで平凡な日々を過ごしていた。
何もかもが穏やかな日々だった。時折、ニュースで無惨の姿を見かけると胸が熱くなる以外は。
自分がいなくなっても無惨は相変わらず輝いていて、ゆくゆくはこの国の頂点に立つのだろう。その為に着実にキャリアを積み重ね、国民からの人気も高めている。
そんな男が「私を一人にしないでくれ」と最後に自分に言ってくれた。
これから1億数千万人という人間の頂点に立つ男が、そこまで自分を求めてくれた、その思い出だけで自分は幸せに生きていける。
小さく微笑みながら、東京で見るより澄んで見える秋の空を眺めた。