時を駆ける水(失敗したので供養)米沢城の裏庭に位置する古井戸には不思議な力を秘めた聖水なるものが湧き出ているらしい。
十八に元服し、今や齢十九になる俺には全く興味のない噂話だが、目の前で片方だけになった眸を薄っすらと細める梵天丸にとっては少なからず興味をひく内容のようだ、嘘か誠か真意を確かめぬうちにその得体の知れない古井戸とやらに向かって歩き出したようである。
「てめえ、なについて来やがる。」
ご丁寧にこちらの追尾を退けるような言い方をした梵天丸がその一つだけ残った左目を執拗に見開きながらこちらを煙たがるように歩く速度をはやめた。
無論伊達の大老である爺の願いなんぞ聞き入れなければすぐにガキの世話を丸投げして野良仕事に精を出しているところだが、相手があの伊達輝宗様の嫡男なのだから尚更腹を割る他ないといっていい、おまけにこいつは次期伊達家頭主ときた。
仮にも奥州を統べる伊達の頭主とくれば政においての知識は豊富で、常に冷静に物事を対処しなければならない、しかしこの出来の悪い梵天丸は血気にはやって単身敵襲へ殴り込み、己の都合の悪いことが降りかかると瞬く間に癇癪を起す、こんなガキが輝宗様の御子というだけで驚きだが、それが次の伊達を担っていくというのだから尚更眩暈がした。
「残念だが俺の役目はてめえのお守りだ、何か良からぬ動きがあれば上に報告する、それだけだ。」
「俺はそんなこと頼んじゃいねえ、てめえみてえな厳つい奴がいると邪魔なだけだ、さっさと持ち場に帰りやがれ。」
首根っこを掴んで地べたに叩きつけてやろうかと思ったが、その前に例の古井戸とやらに到着したようである。
見たところ古井戸と言っても水が干上がった様子はなく、確認程度に小石を投げ込めば、ぽちゃんと軽い水音を放って不規則に水面をうねらせていた、とはいえ普段使いの井戸として使用するには些か水が濁っているように感じて、噂話の材料にするにはもってこいの環境だということが窺える、本来噂話とは実際にそれらを実行する者がいないという前提によって成り立つものだが、稀に全てを信じて実行に及ぶものがいる。
「おい。」
「なんだよ。」
「まさかそいつを掬って飲もうなんて言うんじゃねえだろうな。」
その馬鹿が目の前にいることもまた、俺にとっては不愉快極まりなかった。
図星を突かれて一瞬固まった梵天丸の手には既に縄が握られており、それらの縄は井戸の真下に溜まった水を掬い上げる際に用いられる、つまり縄を引けばそこに結いつけられた桶が暗闇に落ちて、また引けば水を含んだ桶が手元に持ち上がるという仕組みだ、勿論そんな原理はどうでもいい。
ぎくりと肩を震わせた梵天丸がこちらの指摘に一瞬怯んで目を泳がせたものの、そこから手を放そうとはせず、寧ろ忙しなく縄を引くと、濁った水をたっぷりと掬った桶を拾い上げてまじまじと覗き込んでいた、俺の話に聞く耳を持たないのは今に始まったことではないが、この得体の知れない井戸水を飲んで腹痛でも起こされた日にはこちらが腹を斬らねばならないのだから勘弁して欲しいものだ。
「そんな訳ねえだろ、ちょっと匂いを嗅ぐだけだ。」
「……。」
「なんだよ。」
「てめえの話は信用できねえ。」
気性の荒い梵天丸がこれで激怒しない筈はなかった。
無論己のメンツを潰されてはいそうですかと黙っていられてはそれこそ大将の器ではないのだが、短気でありすぎるのも些か問題である、例えば信用できないと呟いただけで問答無用に桶を顔面に投げてくる、とか。
「あんたのそういうところが気に入らねえんだよ!」
「珍しく気が合うじゃねえか、俺も今そう思っていたところだ。」
ひょいっと桶をかわしながら、もう一方からやってきた石を避け、最後に梵天丸の貧弱な拳を真正面で受け止めてからそのまま地面に叩きつけてやった、当然辺りにはもうもうと砂埃が立ち込めている。
「てめえ…!」
「何か勘違いしているようだな、そんなもん飲んだって一度失った視力が戻ってくるわけがねえんだぜ。」
「――あ?」
俺はこいつを甘やかすつもりも、より良い国主に育てるつもりもない、ただ今更変えられない過去に囚われて負け犬のまま生き続けようとする性根が気に入らないだけだ、孤独を埋めてくれる存在など自分で探し出す他ないのだから。
「聞こえなかったか、そんなもん飲んだところでてめえの右目は――。」
それ以降の音声は室内で