「蔓」
「風息、今日からはもう一人で寝ろ」
頭の上にはピンと尖った耳。尻からは真っ黒な尻尾がゆらゆらと揺れる。未だ未熟な変幻しか出来ない幼い弟分にそう告げると、風息は丸くて大きな瞳をより一層大きく開いて、小首を傾げた。
「どうして?」
「私とお前では霊属性が異なる。私は氷属性、お前は木属性。自分の属性に合った場所で眠った方が気が高まる。お前は随分大きくなった。良い機会だろう」
説明している間、風息の尻尾はずっと何か言いたげにパタパタと動いていた。虚淮の話は難しい。けれど、余計なお喋りをしない代わりに、本当の事しか言わない虚淮が言う事だ。きっと正しいのだろう。胸の中で渦巻く沢山の「どうして」の気持ちにグッと蓋をして、風息は頷いた。自分に言い聞かせる様に繰り返す。
「分かったよ。今日からは、一人で眠る」
その夜、風息と出会ってから初めて別々の寝床で眠りについた。随分と静かな夜だった。胸の中で穏やかな寝息をたて、時折髪に涎を垂らす黒い毛玉がいないと、夜はこんなにもしんと冷たい、単なる静寂だったのだ。久しく忘れていた。取り止めもなく浮かぶ思考を断ち切る様に、目をきつく瞑る。
微かではあったが、何かが近づいて来る気配を感じて、虚淮は己の内側へと深く沈んでいた意識を覚醒させる。体を起こし、周囲の暗闇にじっと目を凝らすが、影ひとつ動くものはない。
ふと、何気なく己の体に目をやると、左手の小指にくるりと絡む、小さな植物の蔦を見つけた。あまりにも細い蔓だから、もっと乱暴に体を起こしていたらぷつんと切れてしまっていただろう。細い蔦は、随分遠くから伸びていた。寝床を抜けて、蔦の元を辿っていく。森の中に足を踏み入れ、一際大きな木へと登っていく。太い枝と枝の間で、すうすうと寝息をたてて黒い毛玉が眠っていた。泣き疲れて、何度も擦って腫れた目元が痛々しい。起こさない様に注意して、氷の指先で腫れた目元にそっと触れる。
「大丈夫だよ風息。お前はすぐに大きくなる。寂しく思うのは、ほんの一時の間だけだ」
懐かしい夢を見ていた、気がする。夢の内容はすっかり記憶から抜け落ちてしまっていたが、空を泳ぐ精霊魚の尾ひれの様な涼やかで透き通った、どこか寂しい夢の余韻が、まだ目蓋の裏に在る。
突如感じた擽ったさに身を捩る。艶やかな緑色をした蔓が虚淮の体を包み、蔓から伸びた柔らかな産毛を持つ葉が、虚淮の頬を撫でる様に風に揺れていた。手で振り払ってしまえば、たちまちに千切れてしまうほど繊細な蔓が幾重にも絡まり、まるで繭の様に虚淮の体を覆っていた。むせ返る程に強い、青い生命の香りがする。まるごと包まれるまで、呑気に眠っていた自分に呆れる。随分と許してしまったものだ。
「……風息か」
呆れはしたが、別段驚きはない。風息の寝床から、真っ直ぐにここまで伸びた蔓。これと初めて対面したのは、風息がまだ幼い頃、丁度別々の寝床で眠り始めた時だろうか。ひとり寝が寂しかったのだろう、眠る風息が、無意識に虚淮の寝床まで蔦を伸ばす事が暫く夜な夜な続いた。しかしそれもせいぜいひと月ほどの話で、蔦が現れる間隔が徐々に長くなるにつれて、すっかり風息も一人で眠る事に慣れていった。
あれから数十年の年月を重ね、今では背の高さも妖精としての実力もすっかりと風息に追い抜かれてしまった。虚淮よりも小さく、チョロチョロと自分の後をくっ付いて離れなかった頃が在っただなんて、信じられない程だ。
勿論今では眠っている間に蔦を伸ばすだなんて事は殆ど無いが、丁度今頃、凍てつく冬の寒さが緩やかに和らぎ、森を覆う雪が溶けて川へと還る頃。冬の間硬く身を閉ざしていた木の芽や土の中で眠っていた種子が一斉に芽吹き、森の中が生命に満ち溢れ、悪く言えば落ち着きがなくなって来る、春の初めに、稀にこういった事が起こる。風息に指摘すれば、眠っている間の無意識の出来事とはいえ、力が制御出来ていない己を責めるだろうから、黙っている。植物の中でも最も柔らかく瑞々しい新緑だけで結ばれた蔓の褥。これは何かを傷つける為の武器では無い。今では虚淮にすら感情を顕にする事が無くなった風息の、決して声には出せない悪戯心や甘えの化身の様に感じられて、愛おしい。そんな気すらした。
なので、蔓の繭に横たわったまま、されるがままに受け入れる。優しく角や髪を撫でる感触が心地よい。
「……っ」
つるつると、唇を撫でていた蔓が、不意に口内へと音もなく侵入してくる。蔓は戸惑う様にゆっくりと口内に伸びていき、柔らかく濡れた舌の感触が気に入ったのか、そこで葉を震わせて身をく揺らす。一本、また一本と静かに蔓が増えていく。細い蔦が舌に絡みつき、頬の内側や歯茎をうねりながらなぞる。それの本数が増えていく度に、喉の奥まで埋め尽くす様で、流石に息苦しさを覚えた。やめろ、と声を出そうとしたが僅かな呻き声が漏れるだけだった。開いたままの口角から、ツッと唾液が伝った。
「ふっ……」
四肢に絡みついた蔓が柔らかな鎖となり、体の自由を奪う。素肌を這うそれがさらなる熱を求めてさまよい、明確な意思を持って虚淮の体を蹂躙する。いつの間にか体に巻きつく蔓が伸びて、身体が宙に浮いていた。骨が軋む音が脳に響く。氷の体は砕けやすい。痛みはない。恐ろしさもない。朦朧としてきた頭で、そう思った。
「虚淮!」
名前を呼ぶ声で正気に戻る。声の方を向くより早く、拘束が解けて地面の上に身体が落ちていく。硬い岩場にぶつかる直前に、突如岩場から勢いよく木が伸びて虚淮の身体を受け止める。
駆け寄る風息は、流石に狼狽した顔をしていた。荒い息をついて、虚淮の身体に未だ残った千切れた蔓を乱暴に振り払う。
「虚淮、怪我は!」
無い。そう話そうとして、言葉が出なかった。ペッ、と口の中に残った蔓を吐き出す。頬や喉の奥に残った蔦が吐き出し切れず、指を突っ込んで取り出す。唾液で濡れた、さっきまで舌に絡み口内を蹂躙してたそれを、普段と変わらない冷たい瞳で見下ろした。乱れた髪を手櫛で整える。
「大丈夫か虚淮。目が覚めたら妙な違和感があって、蔦の先を辿ったら虚淮が……。すまないどうしてこんなことになったのか、自分でも正直よく分からなくて戸惑っている」
「お前は何も気にしなくて良い。最初からお前の能力だと分かっていた」
「しかし、どうしてだ虚淮。こんな蔓、虚淮ならすぐにでも凍らせて砕けたろう」
「さあ、どうしてだろうな。お前も私も寝ぼけていただけだろう」
気怠い身体を起こすと、はっきりと風息と目があった。丸くて大きな目が、一層大きくなる。
「だが、悪い夢ではなかった」
命でも体でも、お前に奪われるのならきっと。